ジャーナリズム論というか、日本のジャーナリズム界を回顧するものの中では、
立花隆の「田中角栄研究―その金脈と人脈」(文芸春秋1974年11月号)は
特別な意味で登場することが多い。
新聞がジャーナリズムの主役のような立ち位置だった時代に、
フリーライターだった彼が首相退陣にまで追い込むセンセーショナルな
論評を月刊誌に発表した。
新聞記者たちの落とし穴というか、徹底的に調べることの強さみたいなものを
痛感させる出来事だったということだと思う。
当時、田中角栄は総理大臣。金権政治をやっているという声が端々で聞こえる
ものの、「その金はどこから来ているのか」という素朴な疑問にはっきりと
応えるものがなかった。フリーで物書きをやっていた立花が、
チームを作って登記簿や政治資金報告書など、公になっているものを徹底的に
調べ、それを元に方々の関係者に取材してまとめた。
「新聞記者の首相担当その他、みな「話は聞いてた」というが、
実際に誰も調べて明らかにしようとはしなかった」ものを、新聞記者ではない
彼が暴いた、というので、「取材して、書いてなんぼだ」「徹底的に調べれば
ここまで書ける」というお手本のように紹介されることが多い。
田中角栄は、これを元に国会などで追及され、2ヶ月ほど後に首相を辞職する。
ロッキード事件で逮捕されるのは2年後だ。
「研究」は、発表後にも続編が次々と出て、次第に金脈の事実は
広範囲にわたって明らかにされる。
読んだ後も、詳細には覚えていないほど複雑なルートをいくつも
お持ちだったようで、幽霊会社を自分の株名義人として使ったり
土地ころがしの受け手として使ったりしながら、1日の土地転売で
何億も儲けていたりする。
立花は、登記簿などで土地の所有関係が時系列でどのように変わったのか、といった
年表と、人間相関図をいくつもいくつも作ったそうだ。
印象的な図は、
「産業界に対する払い下げ国有地総面積」を、大蔵大臣別に比べたもの。
池田勇人、佐藤栄作などを経て田中は昭和37~40年に務めているのだが、
その間の払い下げ面積は突出している。
単年度で一番多かったのは370万坪(昭和39年)。
ちなみに、昭和41年の福田赳夫のときは40万坪ほど。
田中の前の水田三喜男のとき(昭和36年)は110万坪ほどだ。
土地の払い下げを交渉材料としたり、その土地を購入して高く売ったりと
考えてしまうよねーという「周辺の事実」は、週刊誌ならではの面白さかもしれない。
時事ネタで言えば、新潟の柏崎原発。
田中は現柏崎市が出身で、彼の作った幽霊会社が、
原発立地の前にその広大な土地を購入している。
それが、田中に仕えていた(その後越山会の幹部となる)刈羽村長の名義となり、
原発で土地が高額で買収されて、差額の利益分の多くが
田中の元に収められたという。(後半部分はネット上で集めた話だけど)。
原発立地の自治体に多額の補償金が入る「電源三法」を成立させたのも田中だ。
それにしても、取引は複雑なのに、幽霊会社の電話番号は田中の事務所になっていたりして、
抜けているところは抜けている。
だからこそ、立花隆たちもたどり着けた。
今、小沢一郎たちが裁判している話は、一応客観的事実が弱いために
当事者たちが言う言わないの争いになってしまっているが、
田中の場合はそこらへんが少し甘かったのかもしれない。
(それにしても、田中の話を読んでしまうと、小沢一郎だって
絶対黒だろうなと思ってしまう。政治家の生態系として被せてみてしまう)
根気と執念、その前にある「なぜ田中はあんなに金が使えるのか、どこから来るのか」
という強い問いが、この仕事を形にした要素だと思う。
付け加えれば、文芸春秋を巻き込んだチーム力。
専従の、(といっても行き場を探すフリーターたちが多かったみたいだが)
スタッフによる膨大な量の資料収集が物事を動かしたのだと思う。
これも、間違いなく歴史に残っている「キャンペーン」のひとつだ。