ほっぷ すてっぷ

精神保健福祉士、元新聞記者。福祉仕事と育児で「兼業」中。名古屋在住の転勤族。

本田靖春(2005)『我、拗ね者として生涯を閉ず』

2011-06-24 10:53:10 | Book
本田靖春という人を知っているだろうか。
「知らないわけないだろう」という人もいるだろうし、
「誰?」という人もいると思う。
私は、何を隠そう新聞記者の書いたものを毛嫌いしていたので、
就職するまで知らなかった。

元読売新聞社のエース記者で、「不当逮捕」「誘拐」などの
ノンフィクション作品で有名な人だ。
彼の本は、なんというか、事実とはこんなに面白いものかと思わせる。
それほどに、大量で詳細な事実を、つなぎ合わせて提示してくる。

580ページにもなった彼の自伝(『月刊現代』に連載、途中で死去)は、
朝鮮での出生や敗戦後の引き揚げ、家族の没落、大学時代から入社、
仕事やポリシー、読売社主の正力松太郎への嫌悪感、「新聞記者のサラリーマン化」
への憂い、そして有名な「黄色い血」キャンペーンの成り立ち、
読売退社のいきさつなどを書いている。

読み進める中で、この誰でも情報発信が出来る時代に、
新聞にしかできないことがまだあった、と思った。
それが「キャンペーン」だ。
彼は有名な「黄色い血」キャンペーンをやって、売血制度を廃止させ、
献血制度を世に定着させたと言われている。本では、「72本のキャンペーン記事を書いた」と。
「私は、記事の良し悪しを分けるのは、主観の優劣にかかっている、という
 考えの持ち主だったので、ばんばん主観を表に出した」。
彼の気力、記事の質はもちろん多大な影響力があったのだと思うが、
新聞の持つ「継続性」が、売血制度の廃止などの実効力を持たせたのだろう。
毎日発行され、少なくとも役所などでは毎日目にする。
これでもか、と事実を定期的にぶつけるのは、テレビやインターネットでは
性質上あまりそぐわない。
インターネットなどで、弱い立場の人であれ、声に出しやすくなり、
ネットワークを作って行動を大きくしやすくなった現代でも、
(「企画」の粋を出た)キャンペーンは他にはない力を持ちうるだろうと思った。
(ついでに書けば、読売新聞は1954年、「ついに太陽をとらえた」と
 題する原子力の大型企画をやっている。「原爆アレルギー」がある日本に、
 原子力発電の導入を促す目的だったといわれている)

「黄色い血」キャンペーンについて少し書いておこう。
当時は「献血制度」がほとんど行き渡っておらず、
代わりに「売血」が公然とあり、そのために貧民は血を売りまくって不健康になって、
売られた血も貧血気味なために真っ赤ではなく黄色っぽいものが多く、
またその注射針なども不衛生だった。
血清肝炎の蔓延もこの「悪い血」が原因のひとつとなっている―――
その実態を書きまくったものだった。
先進国で売血制度を取っているところはなく、当時の厚生省が「必要悪ですよ」
と言っていたものを、売血をなくさせて献血体制を整えるところまで動かしたと
言われる。
(彼は、自分自身がその職業的売血の人たちの中に入っていき、売血をする中で
肝炎にかかって、最後は肝ガン(や他のたくさんの病気)に犯されて亡くなる。)

さて、そんな本田氏も1971年に辞職し、ノンフィクション作家となる。
一番の理由を、正力の事業癖に犯されたふがいない社会部の現場に嫌気が
さしたため、というように書いている。
正力は「私がいちばん大切だと思っているのは、新聞発行で得た利益を
いろいろな事業を通じて読者に還元すること」と話したという。
読売ランドを拡大し、世にゴルフ文化を根付かせたいとも言った社主の元で、
来客や事業宣伝をときどき社会部に書かせる。
(こういう新聞がいかに有害かを知るには、現代の金沢に来て見ればよい。
 そびえ立つ本社を持ち、なんでもかんでも「後援」して、経済部を使っては
 多くの宣伝記事を書かせ、社会部記者を使っては行政におべっかを使ったり
 おどしたりして社の存在をPRする地元紙があり、シェアが6割とも7割とも言われる。 これがさまざまな弊害を生んでいると思う)

彼が活躍した新聞記者時代は、彼曰く「社会部が社会部であった最後の時代」と
何度も書いている。
それは読売内に限った話ではなく、どの新聞社でも感じていることなのかもしれない。
共通するであろう「社会部の壁」のようなものは、いくつも上げられる気がする。