リュート奏者ナカガワの「その手はくわなの・・・」

続「スイス音楽留学記バーゼルの風」

久々に武満で朝食

2020年09月02日 18時42分41秒 | 日々のこと
今日は久々に武満徹を聴きながら朝食をしました。朝食といってもまぁブランチといった方がいい時間でしたが。聞いたのは岩城宏之指揮のメルボルン交響楽団の演奏で、80年代のオーケストラ作品です。「虹へ向かって、パルマ」「遠い呼び声の彼方へ!」「ノスタルジア ―アンドレイ・タルコフスキーの追憶に―」「鳥は星形の庭に降りる」などが収録されています。コンチェルト風のものが多いですね。

武満の音楽は高校生の頃から聴いています。その頃武満はまだ30代後半、新進気鋭の作曲家でした。もうひとり私が注目(というのはおこがましいですが)していた作曲は黛敏郎です。私が高校生の頃黛が発表したオーケストラ曲「舞楽」をラジオの番組(八幡製鉄提供です。番組名は忘れました)で初めて聴き感動したものでした。

舞楽の作曲は62年で日本で初演したのが66年と言われています。70年ころに昭和天平楽という雅楽作品を発表して以降ぱったりと作曲が止まってしまいました。結局その後はオペラ「金閣寺」「KOJIKI」など以外は特定の団体のために作品が残されているだけです。70年以降多彩な作品を書き続けた武満と対照的です。

どっかで読んだことですが、黛は決して筆を折ったあるいは書けなくなったというのではなく、実際に国内からは作品の委嘱が途絶えてしまったということらしいです。70年頃彼は保守的な政治信条を表明して行動を展開し始めたことと関連があるようです。当時の楽壇や文壇は左派系の人が多くて彼は疎外されたのかも知れません。もったいない話です。

対照的に武満は特に政治色を示しませんでしたが、左派系の知識人との交流もあったし、あと黛と違っていたのは武満は筆がたったので何冊も著書を残したことです。これが多分彼の音楽は大して理解できていなかった当時の知識人をして彼の評価を高めることにつながったのでしょう。

別に武満や黛以外にもたくさん作曲家はいましたが、本から入った知識人、教養人は他の当時の現代音楽を聴くことはありませんでした。ですから武満だけが有名になり、すそ野が広がることは残念ながらありませんでした。

武満は80年以降作風が変わっていき、機能和声的と言ってもいいような和音の使い方をするようになりました。万博の鉄鋼館のために書いた「クロッシング」なんかはそういう作風ではなかったのですが。(クロッシングはウェーベルンの作品19に通じるところもあり、私が一番好きな曲のひとつです)でも60年代の作品より「聴きやすくなった」というのも事実でしょう。そこまで媚びなくてもなぁ、まぁこんなのもいいか、なんて勝手な突っ込みを入れつつブランチを終えました。