臼田、龍岡城五稜郭の竣工図展示解説会に参加して

2025年02月21日 | 読書

今冬最強の寒波到来、こんなに寒ければ諏訪湖の御神渡りにならないかしら。
と期待するが、明けの海宣言の後なので、報道もない。
あと4、5日すれば暖かさに向かうだろうね。

昨日は、臼田文化センターの展示解説会に夫と共に参加です。
講師は上原美次先生 郷土史研究家です。
「龍岡城竣工図を少人数でじっくり見る」ということで、8日間、1日2回定員6名の本当に少人数です。
というのも発見された竣工図がガラスケースの中から出せないし、そこに書かれた字も傍に寄らなければ読めないから・・・・・なんでしょうね。

臼田は佐久市に合併する前は臼田町だったこともあり、私としては過去の歴史に触れる機会はそうは多くありませんでした。

夫が仕事で観光課に移動になった際、市内の観光場所といわれる所を巡りました。その時以来です。

龍岡城というのは五稜郭なのです。
函館の五稜郭が有名ですが、西洋式なお城の形なんです。
江戸の終わりから明治にかけて建てられたのです。
なんでえ~、と思うところからです。

藩主の松平乗かた(かた)が変換できません(笑)
明治になって大給恒と名を改めています。
この方大変優秀な方で、17歳で和漢の学問のすべてを習得して、国家存亡の危機を憂い、洋学を志して蘭学や仏語を勉強され、特に火砲・築城技術を熱心に学びました。

松平家は代々「陣屋格」で、城をもつ資格がなかったのですね。

幕末 黒船来航により大きく揺れた日本
参勤交代改革の令が1862年に出て、参勤交代が緩くなり、妻子も領国に戻れることになりました。
従来の本領は三河で4000石、信州領が12000石だったので、信州に本領移転を願い、新陣屋五稜郭の建設の許可も申請し、認められました。
というのも、出世したからなんだわね。
1864年に工事が始まり、1867年竣工とはいえ未完成のままです。
1864年は下関戦争・天狗党の乱・第一次長州征伐
1866年は第二次長州征伐
1867年は大政奉還。

この時期なんですね。
資金不足・時間不足・政権の交代・廃藩置県・藩主家臣の去就(藩主だって家臣だつて帰って行ってしまうわね)
解体・一部転売

明治4年、廃藩とともに兵部省は全国の城取り壊しを布告しました。
五稜郭は地所・石垣はそのままにし建物は入札払い下げとなり、残りは取り壊されてしまいましたが、御殿の一部御台所だけは、翌5年学制発布により学校として使用申請が認められました。

敷地はその後小学校用地として使用されてきたが、ごく最近小学校の統合で今は空き校舎のままになっています。
門や塀や大広間などは払い下げを受け、お寺や個人に移築され現存しています。
これを観光資源にするには、空き校舎が邪魔なんですねえ(笑)

ここまでが前置きです。
でも長くなるので続きはまたの機会に。
ここからが面白い・・・・・これからが昨日の解説会なんです。
お読みいただきありがとうございました。

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2 コメント

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Unknown (しましま)
2025-02-21 21:58:13
臼田の五稜郭を訪れた経験がありますので、興味深く拝見しました。

何度も何度も頷きながら。
石垣、小学校跡地、堀など五稜郭の城址の様子を頭に思い浮かべながら。

確か松平様のご縁で、我が愛知県の岡崎市と佐久市は「ゆかりのまち」となっているのですよね。

ゆかりの作家によるデザインのマンホールが並べて置いてあったのも覚えています。
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しましまさん (美恵子)
2025-02-22 13:55:15
しましまさんは私より詳しそう(笑)
私は今改めて知識入れてます。
松平様、岡崎が本領だったのですね。
幕末ご出世なされて、その後明治になってもご活躍された方ですね。
明治になって、松平様も家臣も帰られてしまったとか。
でも今でも残っていらっしやるご家系があるようです。
別の会でご一緒した方が、その頃の重臣だった一族だったと知りました。
歴史は面白いです。
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