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もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

桜の樹だけは・・・

2007年08月18日 | 東京
 「なんとか桜だけは残しましたけど、おかげでぜんぜん家の方の片付けが進んでませんよ。今日中に終わるのは無理ですよ。なんたって桜に時間がかかりすぎたんですから。」
 三軒茶屋の細い路地で、ヘルメットをかぶって汗を流しながら作業する男性が、大声を出して携帯で話している。きっと作業状況を上司にでも伝えているのだろう。見ると、確かに二階建ての家のリフォームでもするのか、壁などをはずしにかかっているが、その前に枝を取り払った大きな桜の木が残されている。工事現場の人たちにとっては、この木を根元あたりから、ばっさりと切ってしまった方がずっと作業しやすかったのだろうが、たぶんこの家の持ち主はこの桜の木だけは残したかったのだろう。
 梶井基次郎は、その小説の中で「桜の木の下には死体が埋まっている」と書いた。薄気味悪い話だけれど、あながち嘘とも思えないような一文である。春にあんなに美しい花を咲かせる桜の樹はきっと何か他の力を借りているに違いない。それを「死者の力」とするなんて素敵な表現だ。
 もちろん、この家の主人が桜の樹の下の死体を埋めたといっているわけではない。桜の樹の下には、この桜がこの世に生をうけてから現在にいたるまで、この土地が記憶するあらゆる歴史が埋まっている。桜はこの土地のさまざまな歴史を、春に一時だけ花で表現する。私たちはその歴史を読み取ることはできないけれど、桜の樹はそれを知っている。そんな花の中にはこの家の主人や家族の歴史も描かれる。私たちは、春にこの家の前を通りかかって、満開の桜の花を見上げたときに、そこに美しさを感じるだろう。しかし、この家の人々にとって桜は単に美しいだけではない。それはこれまでの自分自身なのであり、この土地に住んでいた間のあらゆる出来事、その記憶がいっときだけ桜の花になって蘇り、そしてあっと間に散っていく・・・。
 この家の主人が残したいといったのかどうかはわからない。すべては私の想像にすぎないのだ。しかし、誰かがこの桜の樹だけを残そうとしているのは確かだ。そしてこの土地と関わる「誰か」にとって桜の樹は、ただの美しい花を咲かす樹であるだけの存在ではない。なぜなら桜の樹の下には、その人自身の過去が埋まっているのだから。