ここ最近、高校での必修科目の履修漏れ・いじめによる自殺など教育に関する様々な問題が起きている。
25日のブログ「世界史の必修について考える」で書いた当時は、必修科目の履修もれは数えるほどの学校でしかなかったのだが、調査が進むにつれ全国各地の学校で必修科目の履修漏れが相次ぐ結果となった。受験科目の履修に偏重しすぎた教育に原因があるようだが、実際に卒業できない可能性がある学生に罪があるわけではないので、学生にとってはいい迷惑でしかない。
また、いじめを苦に下した自殺が全国で相次いでいる。一番悪いのは当然いじめをした人間であるが、学校長・教育委員会など教育現場にいる人間が判で押したように繰り返される「いじめは無かった」という発言も許せない。岐阜県瑞浪市で中学生がいじめを苦に自殺した件について、学校側の「加害者を探すのではなく、いじめは無かったという立場で〈いじめの加害者として遺書に名指しで書かれた〉4人をささえていかなければならない」(中日新聞 10・31朝刊)という記事を見て、怒りで思わず新聞に載っていた校長の顔にグーでパンチした。これでは、いじめによって人が死んでも学校は構いません、学校としていじめをする事を認めますと言っているのと同じである。加害者に何らかの形で一定の責任を背負わせる事(被害者の人権を踏みにじったのだから当然であろう。少年法の問題もそうだが日本は加害者の人権に異常に甘い)、学校の責任をはっきりさせる事などをしなければ、いじめによる自殺・いじめそのものも絶対に減らないと思う。また、学校教育の場などで「いじめはいじめられる人間にも原因がある」という人間がいるが、いじめを苦に自殺した方の遺族を目の前にしてこの言葉は絶対に言えないでしょう。「いじめはいじめられる人間にも原因がある」という考えを改めない限り、いじめの問題は絶対になくならないと思う。
「いじめはいじめる人間が100%悪い。大勢の人間で1人の人間をよってたかっていじめるのは弱い人間のすることです。1人の人間を自殺するまでいじめる人間は感性の鈍い人間です。いじめは格好悪い人間のすることです。」等と言ってくれる人間が1人でも教育現場にいれば、学校ももっとましな場所になるのではないかと思う。
最後に、高校の必修科目の履修漏れの件について、今日のニュースでテレビ画面に前首相が映し出されていたが、僕はこの人に教育問題を語らせる事がそもそも間違っていると思う。こういった人が日本の教育をダメにしてきたのだとテレビを見て改めて感じた。