温泉クンの旅日記

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熱田神宮 愛知・名古屋

2011-04-27 | ぶらり・フォト・エッセイ
  <熱田神宮>

 東門に一番近い駐車場に車をいれた。





 第二鳥居横にある手水舎近くの大樟。弘法大師お手植えで樹齢千年を超すといわれる樟である。



 本宮の脇道には桜も咲いていた。



 熱田神宮の創建は113年と非常に古く、祭神は熱田大神(あつたのおおかみ)で三種の神器の一つである「草薙剣」を神体としている。相殿神(あいどのしん)に天照大神(あまてらすおおみかみ)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、宮簀媛命(みやすひめのみこと)、建稲種命(たけいなだねのみこと)と、草薙剣に縁のある神が祀られている。



「三種の神器のひとつを祀っているのだから伊勢神宮と同格であるべき」という請願により、やがて伊勢神宮に準じた待遇を認められ、伊勢神宮に次いで権威ある神社として栄えることとなる。

 熱田の宮とか熱田神社と呼ばれていたのが、明治時代にはいって熱田神宮と改められた。


 わたしにとって<熱田神宮>とは織田信長と、あの桶狭間の戦いとに強烈につながっている。

 ・・・・・・永禄三年五月十日駿府を発し上洛する、東海道に君臨する大名「今川義元」の大軍勢は四万とも五万ともいわれた。
 この年、軍勢を率いる義元は働き盛りの四十二歳だが、体重約三十貫の居丈夫というより肥満体なので馬でなく豪華な輿に乗ってのゆるゆるとした行軍であった。



 かたやその道筋にいる尾張の織田信長軍はわずか四千か五千。
 となれば降伏するか、討ち死に覚悟の一戦か、それとも籠城か。
 信長は一向に決断せず、身内も含め近従の誰もが籠城すると思わせていた。

 十九日の八ツ(午前二時)、今川勢が大高城泊りと聞くや信長が突如、電光石火の如く動き出す。

「よし、貝を吹け!}
 具足を持たせ素早く身につけると、お神酒を呑み乾すや酒盃を三方の角に叩き割り、運ばせた湯づけを何椀も平らげる。

 急ぎ曳かせた馬に飛び乗るや、
「行き先は熱田神宮! 者ども続けっ」
 清州の城から、たった数騎で走りだす。



 熱田神宮に着くと戦勝を祈って、信長らしい横柄そのものの「願文」と、「鏑矢」を三方に載せて中殿に奉納すると、鬼神といわれるこの男にしては珍しく、神頼みか、柏手を打ったという。(ただ熱田神宮に立寄っただけ、という説もある)
 そうこうしているうちに、遅れた軍勢が熱田の宮に駆けつけた。



 意表をついて、城からではなく熱田の社前で勢揃いして目指すは桶狭間、今川の本陣への急襲であった・・・。

 熱田神宮に祈願を終えた信長は、見事に桶狭間で今川義元を討ち取り天下に名を轟かせた。その戦勝のお礼に信長は熱田神宮に「築地塀(『信長塀』と呼ばれている)」を寄進したそうだ。

 信長、秀吉、家康の戦国武将三人のなかで誰が一番好きか、ひとり選べといわれたら、わたしは躊躇なく信長を選ぶ。
 強烈な性格と果敢な行動力に魅かれるのである。

 信長を語るなら、桶狭間と熱田の宮は欠かせない。


  →「香嵐渓の五平餅」の記事はこちら

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