<海野宿(1)>
軽井沢から上田方面に向かって国道を走るたびに、海野宿の道路標識はみてい
た。
妻籠とか馬篭ほど有名ではないのでいつもパスしていたのだ。
小諸で食べたい蕎麦屋はまだ開店前なので、なんとなく時間潰しに行ってみた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/60/9d9fe1bc15288eb707757c2f83426a1a.jpg)
最初に感じたことを素直にいえば、思ったよりも数段、吃驚するほどよかった。
ただし、ここの宿場の通りだが、自動車の往来をやめれば間違いなく、ぐっと
観光客が増えると思う。
海野宿は寛永2年(1625)に北国街道の宿駅として開設された。
北国街道は中山道と北陸道を結ぶ重要な街道であり、海野宿は本陣1軒と脇本陣
2軒が設けられ、佐渡で採れた金の輸送、北陸の諸大名の参勤交代など江戸との
交通も頻繁で、善光寺への参詣客も利用することで賑わった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/8f/946a0f096e1bde523c4a19cecf76a48f.jpg)
宿場町となる前は海野郷や海野庄などと呼ばれ、真田幸隆の父とされる海野一帯
を統治していた豪族である海野家の領地であり、真田氏の出身地とされる所であ
る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/b5/9a5ed3b59eb9ac0933eb21ece417fa1f.jpg)
宿場の東の棒鼻にある、白鳥神社である。海野氏の氏神で後に運野宿の人々の
産土神として崇められた。
けやきの樹は七百年をこえる樹齢だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/7c/4da6fc5c40433cbb1f51a329481d80d0.jpg)
町並みは、江戸時代の旅籠屋造りや、茅葺き屋根の建物と、明治以降の堅牢な
蚕室造りの建物とがよく調和して伝統的な家並みを形成している。
道の中央を流れる用水、その両側に立ち並ぶ格子戸のはまった家並みは、歴史の
ふる里を想わせる静かなたたずまいを感じさせてくれる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/ac/2555ee72a98db356ab88a88bf8299cbc.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/47/bef4c77ea88b4685961ad7bfdd29eedf.jpg)
「卯建(うだつ)」は、建物の両側の妻壁を高くして防火壁の役目をしている。
「うだつがあがらないヤツだ」の語源である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/63/93e26cea91267772406d2e946b171125.jpg)
格子戸の家が続いている宿場だが、長短二本の組み合わせが「海野格子」と呼ば
れている。
「気抜き」と呼ばれる小屋根は、明治になり宿場の町から養蚕の町に変わって、
客室が蚕室に使われたので、保温のための焚火や煙を換気する施設として造られ
た。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/f5/b349da9d8cda7ab91dad5ca34d3f1d9b.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/3d/d96c934e32766e73b52ccf8608deb40e.jpg)
― 続く ―
軽井沢から上田方面に向かって国道を走るたびに、海野宿の道路標識はみてい
た。
妻籠とか馬篭ほど有名ではないのでいつもパスしていたのだ。
小諸で食べたい蕎麦屋はまだ開店前なので、なんとなく時間潰しに行ってみた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/60/9d9fe1bc15288eb707757c2f83426a1a.jpg)
最初に感じたことを素直にいえば、思ったよりも数段、吃驚するほどよかった。
ただし、ここの宿場の通りだが、自動車の往来をやめれば間違いなく、ぐっと
観光客が増えると思う。
海野宿は寛永2年(1625)に北国街道の宿駅として開設された。
北国街道は中山道と北陸道を結ぶ重要な街道であり、海野宿は本陣1軒と脇本陣
2軒が設けられ、佐渡で採れた金の輸送、北陸の諸大名の参勤交代など江戸との
交通も頻繁で、善光寺への参詣客も利用することで賑わった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/8f/946a0f096e1bde523c4a19cecf76a48f.jpg)
宿場町となる前は海野郷や海野庄などと呼ばれ、真田幸隆の父とされる海野一帯
を統治していた豪族である海野家の領地であり、真田氏の出身地とされる所であ
る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/b5/9a5ed3b59eb9ac0933eb21ece417fa1f.jpg)
宿場の東の棒鼻にある、白鳥神社である。海野氏の氏神で後に運野宿の人々の
産土神として崇められた。
けやきの樹は七百年をこえる樹齢だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/7c/4da6fc5c40433cbb1f51a329481d80d0.jpg)
町並みは、江戸時代の旅籠屋造りや、茅葺き屋根の建物と、明治以降の堅牢な
蚕室造りの建物とがよく調和して伝統的な家並みを形成している。
道の中央を流れる用水、その両側に立ち並ぶ格子戸のはまった家並みは、歴史の
ふる里を想わせる静かなたたずまいを感じさせてくれる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/ac/2555ee72a98db356ab88a88bf8299cbc.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/47/bef4c77ea88b4685961ad7bfdd29eedf.jpg)
「卯建(うだつ)」は、建物の両側の妻壁を高くして防火壁の役目をしている。
「うだつがあがらないヤツだ」の語源である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/63/93e26cea91267772406d2e946b171125.jpg)
格子戸の家が続いている宿場だが、長短二本の組み合わせが「海野格子」と呼ば
れている。
「気抜き」と呼ばれる小屋根は、明治になり宿場の町から養蚕の町に変わって、
客室が蚕室に使われたので、保温のための焚火や煙を換気する施設として造られ
た。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/f5/b349da9d8cda7ab91dad5ca34d3f1d9b.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/3d/d96c934e32766e73b52ccf8608deb40e.jpg)
― 続く ―
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