休日には自宅で息子の散髪・・・。
さて本日は男の隠れ家に放置されていたお土産品などの作品をまとめて箱に入った作品群の中からの作品を紹介します。家人らにとっては箱を見ただけで誰のどういう作品か解らずに放置してあった作品のひとつです。
種子島 南蛮花生 小山富士夫作
共箱 底に「古山子」掻き銘
口径*最大胴径*底径*高さ
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小山 富士夫(こやま ふじお):1900年3月24日~1975年10月7日)。日本の陶磁器研究者・陶芸家で、中国陶磁器研究の大家。岡山県浅口郡玉島(現・倉敷市玉島)出身。
小山が土を弄(いじ)りだしたのは25歳からで、きっかけは2年前に近衛歩兵第3連隊に1年志願で入隊したとき、同期生の中に陶器好きの岡部長世(岸和田藩主の子孫で国立近代美術館館長・岡部長景〈ながかげ〉子爵の弟)がおり、彼の影響を強く受けたことからである。
主に鎌倉市を拠点にして執筆。陶磁器研究では、中国北宋時代の名窯、定窯跡を発見し世界的な陶磁学者として名声を確立。晩年に至るまで実証的東洋陶磁研究をして、古陶磁研究書など多く執筆寄稿。晩年には、岐阜県土岐市泉町に「花の木窯」を開き作陶。陶芸家としても茶器を始め多様な作品を造った。
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当方では箱を見たらどなたの作品かは名のある陶芸家の作品ならすぐに解るのですが、普通なら数十万する作品も、興味のない方にはなにかのお土産品にしか見えなかったのでしょう。
小山富士夫というとまずは「永仁の壺事件」を思い越します。
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永仁の壺事件と小山富士夫
永仁の壺事件:1959年、「永仁二年」(1294年)の銘をもつ瓶子が、鎌倉時代の古瀬戸の傑作であるとして国の重要文化財に指定されました。しかしその直後からその瓶子は贋作ではないかという疑惑がもたれていました。この瓶子は結局、2年後に重要文化財の指定を解除されることとなり、重文指定を推薦していた当時の文部技官であった小山富士夫が引責辞任をするなど、美術史学界、古美術界、文化財保護行政を巻き込むスキャンダルとなりました。
瓶子は実は陶芸家の加藤唐九郎の現代の作であったということで決着しましたが、事件の真相についてはなお謎の部分が残されているとされています。指定に際しては国際的な陶磁研究の第一人者で、文部技官・文化財専門審議会委員であった小山富士夫の強力な推薦がありましたが、実は、「永仁」銘の瓶子は対で存在しており、そのうちの1つが当時行方不明になっていまいした。そのため、小山富士夫は残る「永仁の壺」の海外流出を懸念し、重要文化財指定を急いだ経緯もあるとも言われています。
また「永仁の壺」を真作とした根拠の1つに、「永仁の壺」と同様の陶片が、この作品が作られたとされる瀬戸の「松留窯」から出土していたことにありましたが、実際は「松留窯」の存在自体が加藤唐九郎の捏造であったことが後に判明しています。
加藤唐九郎は織部焼で人間国宝(国の重要無形文化財保持者)に認定されていましたが、その認定も同年解除されています。事件以後は小山富士夫等が「永仁の壺」についてその後に沈黙を守ったこともあり、その真相についてはなお不明な点があり、なお皮肉なことにこの事件ののち、重要文化財級の作品を作れる男として加藤唐九郎の名声はかえって高くなった言われています。
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皮肉なことに小山富士夫の作品は銘に「古山子」と勘弁なサインと掻き銘を入れることから、真似しやすく贋作が横行しています。
真贋は基本的に作品の出来にて判断しないと「なんでも鑑定団」にも贋作が出品されていたように箱は本物、中身は贋作という代物もあります。箱はあくまでも付属的な判断材料です。
とくに本作のような焼き締めの作品には贋作が多くあり、小山富士夫の種子島焼の作品そのものの特徴を把握していないと判断できません。
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種子島焼と小山富士夫
昭和44年、台湾の故宮博物院に招かれて、「日本にある中国陶磁」について講演することとなった小山は、その途中、沖縄那覇の「壺屋やむちん」の里に立ち寄り、初めて沖縄で作陶しています。壺屋には釉薬の掛かった上焼(ジョーヤチ)と無釉焼締の「荒焼」(アラヤチ)とがありましたが、赤い南蛮風の荒焼に惚れ込み、新垣栄用窯で作陶しました。
*新垣栄用窯は浜田庄司も焼成した窯で本ブログでもお馴染みの窯です。
その翌年、偶然にも種子島の職員から「種子島にあった能野焼の再興に協力してほしい」と要請がありました。能野焼は江戸末期から明治の中ごろまで数十年間、擂鉢や甕、片口など生活雑器を焼いていた窯です。
それらは土灰釉が施されていたが、首里での荒焼を思い出した小山は、「無釉の焼締で良かったら、やってみたい。」と返事すると、「先生にお任せします。」との返事を得たので引き受けることになったようです。
昭和46年、種子島に出向き、能野焼古窯址付近にあった12種類の土を採集して、鎌倉の永福窯で試験焼し、その中から田土を選びました。土の耐火度は低いが、きめ細かな土が気に入ったようです。丹波の窯を参考にして間仕切りのない蛇窯を西ノ表市で築窯しています。再度台湾に渡り蒋介石と会見したり、故宮博物院で講演をするなど小山自身は仕事が忙しかったので、中里無庵の五男・隆を呼んで協力させています。
昼は窯を造り、夜は轆轤を廻して、蛇窯で焼きながら、新たな「種子島焼」が誕生しました。種子島の土は水に強いので、燃えたぎる薪窯の脇に水を撒くという焼成をしています。焼締陶の硬さを嫌った小山冨士夫が考えた焼成法で焼き上がりを柔らくしています。
このような特殊な焼成をしたのは、昭和47年、カメラマンが窯焚の写真を撮りに来るというのに、「台風のため飛行機が飛ばず、船も接岸できないそのため鹿児島に戻って明日にならないと行けない。」という連絡が入り、通常ならその日の夜、火を止める予定でしたが、火を止めようか迷った末に、中里隆は来るまでもたせようと思い、窯の温度が上がらないようにするため、ビニールの袋に水を入れてから窯の中に投げ入れたり、窯に水を掛けたり、薪をくべて、また水を掛けたりして長引かせて窯の温度を1200度以下に保った結果、窯出しされた作品が柔らかい土味で窯変も今までにない面白い焼だったという偶然からによります。さらに新たに花の木窯でこれを応用して窯床に二、三十センチほど川砂を敷き、その下に針の穴ほどの穴をあけたパイプを入れて、窯の床から水が噴出すようにした築窯をしています。
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「一見備前と似てはいるが、備前の土味より柔らかくて変化が出やすい」と花の木窯では窯詰の時、赤貝を撒いたりして赤、黒、灰、黄というさまざまな変化を出しています。また「心のままに種子島の田土を操り、回転の早い轆轤で、「轆轤は弄くりだすとだらしのない作品になってしまう。」と、小山藤富士夫は決して土に逆らわず、一気加勢に挽きあげ、これらの作陶により明快な個性となった作品を生んでいます。
小山富士夫の種子島焼の作品は現在でも人気が高い作品群のひとつです。本作品は上記のような焼成の特徴を備えており、その出来についても茶味のあるいい作品であり、当方では真作と判断しています。
放置されていた作品にこのような出来の良い作品があることはままあることですが、ただし出来の悪い贋作を本物と信じている人のほうが多いのが現実です。小生もその一人かどうかの判断は読者の皆さんにお任せします。
この作品を観て思い出したのが小生が屋根裏に放置していた下記の作品です。丹波焼として売られていた作品です。
本作品もまたブログにて紹介しており、入手当時は下手物と評価しており、屋根裏に放置したのですが、処分する気になれずどうも気になっていました。茶味があるのです。前の所有者かもしれませんが、捨て難い趣のせいか、割れた後を鎹で補修しています。鎹にて補修するのはかなり難しく、それなりに評価していたのでしょう。
作品も人も良いところを評価して押し上げるのが先人の役目、目先に眩んで贋作に仕立てるなどもってのほかですね。
さて本日は男の隠れ家に放置されていたお土産品などの作品をまとめて箱に入った作品群の中からの作品を紹介します。家人らにとっては箱を見ただけで誰のどういう作品か解らずに放置してあった作品のひとつです。
種子島 南蛮花生 小山富士夫作
共箱 底に「古山子」掻き銘
口径*最大胴径*底径*高さ
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小山 富士夫(こやま ふじお):1900年3月24日~1975年10月7日)。日本の陶磁器研究者・陶芸家で、中国陶磁器研究の大家。岡山県浅口郡玉島(現・倉敷市玉島)出身。
小山が土を弄(いじ)りだしたのは25歳からで、きっかけは2年前に近衛歩兵第3連隊に1年志願で入隊したとき、同期生の中に陶器好きの岡部長世(岸和田藩主の子孫で国立近代美術館館長・岡部長景〈ながかげ〉子爵の弟)がおり、彼の影響を強く受けたことからである。
主に鎌倉市を拠点にして執筆。陶磁器研究では、中国北宋時代の名窯、定窯跡を発見し世界的な陶磁学者として名声を確立。晩年に至るまで実証的東洋陶磁研究をして、古陶磁研究書など多く執筆寄稿。晩年には、岐阜県土岐市泉町に「花の木窯」を開き作陶。陶芸家としても茶器を始め多様な作品を造った。
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当方では箱を見たらどなたの作品かは名のある陶芸家の作品ならすぐに解るのですが、普通なら数十万する作品も、興味のない方にはなにかのお土産品にしか見えなかったのでしょう。
小山富士夫というとまずは「永仁の壺事件」を思い越します。
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永仁の壺事件と小山富士夫
永仁の壺事件:1959年、「永仁二年」(1294年)の銘をもつ瓶子が、鎌倉時代の古瀬戸の傑作であるとして国の重要文化財に指定されました。しかしその直後からその瓶子は贋作ではないかという疑惑がもたれていました。この瓶子は結局、2年後に重要文化財の指定を解除されることとなり、重文指定を推薦していた当時の文部技官であった小山富士夫が引責辞任をするなど、美術史学界、古美術界、文化財保護行政を巻き込むスキャンダルとなりました。
瓶子は実は陶芸家の加藤唐九郎の現代の作であったということで決着しましたが、事件の真相についてはなお謎の部分が残されているとされています。指定に際しては国際的な陶磁研究の第一人者で、文部技官・文化財専門審議会委員であった小山富士夫の強力な推薦がありましたが、実は、「永仁」銘の瓶子は対で存在しており、そのうちの1つが当時行方不明になっていまいした。そのため、小山富士夫は残る「永仁の壺」の海外流出を懸念し、重要文化財指定を急いだ経緯もあるとも言われています。
また「永仁の壺」を真作とした根拠の1つに、「永仁の壺」と同様の陶片が、この作品が作られたとされる瀬戸の「松留窯」から出土していたことにありましたが、実際は「松留窯」の存在自体が加藤唐九郎の捏造であったことが後に判明しています。
加藤唐九郎は織部焼で人間国宝(国の重要無形文化財保持者)に認定されていましたが、その認定も同年解除されています。事件以後は小山富士夫等が「永仁の壺」についてその後に沈黙を守ったこともあり、その真相についてはなお不明な点があり、なお皮肉なことにこの事件ののち、重要文化財級の作品を作れる男として加藤唐九郎の名声はかえって高くなった言われています。
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皮肉なことに小山富士夫の作品は銘に「古山子」と勘弁なサインと掻き銘を入れることから、真似しやすく贋作が横行しています。
真贋は基本的に作品の出来にて判断しないと「なんでも鑑定団」にも贋作が出品されていたように箱は本物、中身は贋作という代物もあります。箱はあくまでも付属的な判断材料です。
とくに本作のような焼き締めの作品には贋作が多くあり、小山富士夫の種子島焼の作品そのものの特徴を把握していないと判断できません。
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種子島焼と小山富士夫
昭和44年、台湾の故宮博物院に招かれて、「日本にある中国陶磁」について講演することとなった小山は、その途中、沖縄那覇の「壺屋やむちん」の里に立ち寄り、初めて沖縄で作陶しています。壺屋には釉薬の掛かった上焼(ジョーヤチ)と無釉焼締の「荒焼」(アラヤチ)とがありましたが、赤い南蛮風の荒焼に惚れ込み、新垣栄用窯で作陶しました。
*新垣栄用窯は浜田庄司も焼成した窯で本ブログでもお馴染みの窯です。
その翌年、偶然にも種子島の職員から「種子島にあった能野焼の再興に協力してほしい」と要請がありました。能野焼は江戸末期から明治の中ごろまで数十年間、擂鉢や甕、片口など生活雑器を焼いていた窯です。
それらは土灰釉が施されていたが、首里での荒焼を思い出した小山は、「無釉の焼締で良かったら、やってみたい。」と返事すると、「先生にお任せします。」との返事を得たので引き受けることになったようです。
昭和46年、種子島に出向き、能野焼古窯址付近にあった12種類の土を採集して、鎌倉の永福窯で試験焼し、その中から田土を選びました。土の耐火度は低いが、きめ細かな土が気に入ったようです。丹波の窯を参考にして間仕切りのない蛇窯を西ノ表市で築窯しています。再度台湾に渡り蒋介石と会見したり、故宮博物院で講演をするなど小山自身は仕事が忙しかったので、中里無庵の五男・隆を呼んで協力させています。
昼は窯を造り、夜は轆轤を廻して、蛇窯で焼きながら、新たな「種子島焼」が誕生しました。種子島の土は水に強いので、燃えたぎる薪窯の脇に水を撒くという焼成をしています。焼締陶の硬さを嫌った小山冨士夫が考えた焼成法で焼き上がりを柔らくしています。
このような特殊な焼成をしたのは、昭和47年、カメラマンが窯焚の写真を撮りに来るというのに、「台風のため飛行機が飛ばず、船も接岸できないそのため鹿児島に戻って明日にならないと行けない。」という連絡が入り、通常ならその日の夜、火を止める予定でしたが、火を止めようか迷った末に、中里隆は来るまでもたせようと思い、窯の温度が上がらないようにするため、ビニールの袋に水を入れてから窯の中に投げ入れたり、窯に水を掛けたり、薪をくべて、また水を掛けたりして長引かせて窯の温度を1200度以下に保った結果、窯出しされた作品が柔らかい土味で窯変も今までにない面白い焼だったという偶然からによります。さらに新たに花の木窯でこれを応用して窯床に二、三十センチほど川砂を敷き、その下に針の穴ほどの穴をあけたパイプを入れて、窯の床から水が噴出すようにした築窯をしています。
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「一見備前と似てはいるが、備前の土味より柔らかくて変化が出やすい」と花の木窯では窯詰の時、赤貝を撒いたりして赤、黒、灰、黄というさまざまな変化を出しています。また「心のままに種子島の田土を操り、回転の早い轆轤で、「轆轤は弄くりだすとだらしのない作品になってしまう。」と、小山藤富士夫は決して土に逆らわず、一気加勢に挽きあげ、これらの作陶により明快な個性となった作品を生んでいます。
小山富士夫の種子島焼の作品は現在でも人気が高い作品群のひとつです。本作品は上記のような焼成の特徴を備えており、その出来についても茶味のあるいい作品であり、当方では真作と判断しています。
放置されていた作品にこのような出来の良い作品があることはままあることですが、ただし出来の悪い贋作を本物と信じている人のほうが多いのが現実です。小生もその一人かどうかの判断は読者の皆さんにお任せします。
この作品を観て思い出したのが小生が屋根裏に放置していた下記の作品です。丹波焼として売られていた作品です。
本作品もまたブログにて紹介しており、入手当時は下手物と評価しており、屋根裏に放置したのですが、処分する気になれずどうも気になっていました。茶味があるのです。前の所有者かもしれませんが、捨て難い趣のせいか、割れた後を鎹で補修しています。鎹にて補修するのはかなり難しく、それなりに評価していたのでしょう。
作品も人も良いところを評価して押し上げるのが先人の役目、目先に眩んで贋作に仕立てるなどもってのほかですね。