夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

リメイク 月下江上笛吹図 東東洋筆

2020-04-23 00:01:00 | 掛け軸
整理していた食器棚から大量?に出てきているのは古伊万里系統の作品・・。



若い頃に各地に赴任している頃に赴任地の骨董市にて購入した作品が多く、お小遣いから少しずつ購入した作品ですから、購入金額が1万円を超える作品はなかったと思います。それゆえ単体か、せいぜいペアでの作品が多くなりました。

これは明治以降の平戸系の作品かな? 幕末以降のこの頃の平戸焼は出来がいいのが多いですね。



絵柄が気に入って選んでいます。



まだ当時は古伊万里は高値の作品でしたので、蒐集した作品は時代が下がったものやお猪口などが多くなりました。



今なら購入しない焼の甘い作品もあります。



古伊万里至上主義的な時期もあり、すでに当時から贋作が多く流通していました。「高台脇の呉須の丸い線が高台に近い作品」は贋作と言われていましたが、本当だったのでしょうか?



さて本日は痛んでいた掛け軸の作品をリフォームした作品です。下記の写真は写りが悪いのですが、入手時の改装する前の状態の写真です。



月下江上笛吹図 東東洋筆
絹本水墨軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横



東東洋は当方がながらく居住していた仙台の画家で、有名な「仙台四大画家」(東東洋(あずま とうよう・1755~1839)・小池曲江(きょっこう・1758~1847)・菅井梅関(1784~1844)・菊田伊洲(1791~1852)の4人の画家)の一人です。

本ブログでは菅井梅関、菊田伊洲の作品が紹介されています。残念ながら小池曲江の作品は当方にはまだ手元にありません。



菅井梅関とは親交が深く、菅井梅関は京都に滞在中は、郷里の先輩画家・東東洋のもとに身を寄せ、古画の鑑賞と模写に明け暮れたそうです。

略歴などは改装前の投稿記事と重複しますが、下記のとおりです。

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東 東洋(あずま とうよう):宝暦5年(1755年)~天保10年11月23日(1839年12月28日))。江戸時代中期から後期の絵師。幼名は俊太郎、のち儀蔵。姓・氏は東、名・通称は洋。よって本来は単に「東洋」とするべきだが、一般的な表記である「東東洋」を採用している。字は大洋。最初の号は、玉河(玉峨)で、別号に白鹿洞。

仙台藩御用絵師を勤めた近世の仙台を代表する絵師の一人で、小池曲江、菅井梅関、菊田伊洲らと共に仙台四大画家の一人に数えられる。東洋自身は、自作に「東洋」とだけ署名しており、「東東洋」と記した例は知られていない。

東洋が生きていた時代に刊行された『平安人物誌』での表記法から、本姓・氏が「東」で、名・通称が「洋」だと分かる。こうした表記法は、江戸時代後期の文人にしばしば見られる、中国風に二字の姓名の名乗ったのと同じ趣向とも考えられる。なお、「東東洋」と呼ばれたのは存外に早く、画を好み東洋とも交流のあった仙台藩の儒者・桜田澹斎の著作に既に見受けられる。



補足
生い立ち:現在の登米市石越町で、岩渕元方の長男として生まれる。ただし、東洋が5,6歳の時、一家は近隣の金成(現在の栗原市金成町)に移住した。父・元方の数点の絵画作品が確認されている。

14,15歳の頃、各地を遊歴していた狩野派の絵師・狩野梅笑(1728-1807年)から本格的に絵を学ぶ。梅笑は江戸幕府の表絵師深川水場町狩野家の三代目当主ですが、宝歴13年(1763年)から寛政5年(1793年)の30年間一族から義絶され、越後や奥州を遊歴しています。

東洋18歳の時、梅笑の婿となり江戸へ出ます。姓の「東」は梅笑の姓を継いだものであり、最初の号玉河(玉峨)も梅笑の別号「玉元」から「玉」の一字から取っています。

上京と各地遊歴:19,20歳の頃、今度は京に上り、池大雅を訪ね『芥子園画伝』の講釈を受けます。以後半世紀、京都を中心に活動しました。

20代の東洋は、中国の古画を模写のより古典を学び東洋の姿勢が伺えます。20代の終わりから30代初めにかけて、東洋は長崎に赴き、そこで方西園という中国人画家に学んだとされ、同時に南蘋派も学んでいます。

円山応挙の影響:円山応挙の活躍が目覚ましく、各地を遊歴して帰洛した頃には、東洋は狩野派を離れ、東洋もその影響を受けています。寛政7年(1795年)東洋41歳の作「花鳥図」(個人蔵)における枝の書き方には、応挙が創始した付立技法が顕著に現れている作品です。また、この作品は年期のある作品では初めて「法眼」落款を伴っており、この少し前に東洋は法眼位を得たと推測できます。これは東洋と親交のあった妙法院真仁法親王の助力があったと考えられています。真仁法親王の周りには、応挙や呉春といった絵師だけでなく、歌人の小沢蘆庵や伴蒿蹊、学者の皆川淇園らが出入りしており、東洋もその中に混じりしばしば合作もしている作品が遺っています。



仙台藩御用絵師:こうした活躍が認められ、東洋は仙台藩の絵画制作に携わるようになっていきます。寛政8年(1796年)正月、東洋42歳の時、藩の番外士として画工を命じられました。翌月には藩主・伊達斉村に召され、以後しばしば斉村の前で席画をしています。江戸屋敷の屛風や衝立を多数手がけた記録が残っています。

文政8年(1825年)71歳で仙台に帰郷。仙台藩の御用を勤める一方、藩の重臣の肖像画を制作しています。

天保10年(1839年)11月23日死去。享年85。墓は、若林区荒町にある昌傳庵。

周囲:長男・東東寅、次男・東東莱も絵師。弟子に村田俊、伊藤東駿など。

画風は、全体に角がなく丸みを帯び、親しみやすい。別号に白鹿洞とあるように、鹿の絵が多い。また、東洋は農村の風景を好んで描いているが、これは東洋が高く評価していた江戸時代前期の絵師・久隅守景の影響だと考えられています。

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興味深いことに、これと同じ題材で、似た構図の作品が仙台市博物館所に所蔵されています。

その作品は「仙台市博物館所蔵資料図録 NO7(仙台四大画家 作品NO27 絹本淡彩 画サイズ:縦1098*横423)」に掲載されています。掲載されている作品は天保期の晩年の作品と推察され、笛を吹く子どもは後姿が描かれています。



笛を吹く子どもの姿は本作品は前向きでこちらの作品のほうが上出来と思っていますがいかがでしょか?



他にもう一点改装の必要のある東東洋の作品があります。

政黄牛図 東東洋筆 雲慧澤賛
紙本水墨軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦1870*横455 画サイズ:縦1000*横345

この作品は落款には「法眼東洋」と署され、1795年頃以降、法眼に叙されて以降の作品と推察されます。また画中に「雲慧澤(福井県永福庵第9代住職、鳥取県善福寺第10代住職 文化13年(1816年)寂)」と思われる賛があり、各地を遊歴して帰洛した頃の作と推定しています。

この作品はまだ未改装なので、後日改装後に投稿します。修復作品、食器棚の普段使いの作品がブログに投稿されるようになってきたのは、そろそろ本ブログも末期状態かも・・。

ともかくコロナウイルスの影響で在宅勤務が多くなり自宅での時間を過ごす方も多いでしょうが、自宅でこなせる趣味のあるのはこういう時に真価?が発揮されますね。ともかく当方は時間を持て余すことはありませんから・・、ただ息子の相手のほうが時間を費やす時間が多い




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