投稿しました寺崎廣業の作品は下記のものがあります。
「鐘馗之図」
「黄初平図」
「富士図」
寺崎廣業には贋作が多いのですが、その理由は明治期から大正にかけての日本画に大家であり、わりと皆作品を欲しがっていたからのようです。田舎では本物を見ることも少なく、贋作を売り込みやすかったこともあり、とくに郷里の秋田では贋作が多かったと聞いています。
竹石図 寺崎廣業筆
紙本水墨額装
画サイズ:横436*縦304
本作品はインターネットオークションより落札した作品です。落款より大正4年頃の作と思われます。出来から判断して真作と断定できます。筆の勢いの良い佳作といえます。
寺崎廣業の真贋はわりと簡単です。落款の筆の勢いと印章をきちんと資料と比較すれば誤りはありません。ただ印刷作品もありますので印刷や版画には注意しなくてなりません。地元のお寺さんが「なんでも鑑定団」に印刷の美人画作品を出品し失笑をかったことがありました。
下の写真が本作品の落款と印章です。
寺崎廣業のエピソード
広業先生はいたって磊落《らいらく》で、平民的で、僕〈川路柳虹〉等と一緒に馬鹿騒ぎをした。教室へ来ても、何一つ絵の指導などはされない。いつも漫談なのである。ところがその漫談が、例の難解な秋田弁なので、外国語以上に分らない。先生は、日露戦役に従軍画家として出征せられた。その時の戦争談が自慢の一つで、時々生徒に話されるのであるが、高潮に達するほど郷土語を乱発される。「タイフオー(大砲)のたまが、ジドーン、ジドーンとやって来る度に、満洲の赤チチ(赤土)がパとフアネて、こっちゃの方からロスヤ人(ロシア人)の頭がちびり出ると、またあっちゃの方からも、ロスヤ人の頭がちびり出て、赤い血がだんだんと流れ、ヂチに(実に)惨澹たるものであった。」こんな話を聞いているのもヂチにサンタンたるもので、ただもうおかして、われわれは笑いこけていた。
寺崎廣業:慶応2年生まれ。廣業の父は佐竹家に仕えた家老職でしたが維新後の生活は貧しく、廣業が15歳の頃には横手市で氷水を売って親の手助けをしていたという話もある。
はじめ狩野派の小室怡々斎に、のちに四条派の平福穂庵、南画家の菅原白龍に出会い、3つの伝統的な画法を学ぶ。さらには明治22年 (1889) 東陽堂への入社。
廣業は穂庵の後任として中国や日本の古名画や浮世絵などの版下縮図に取り組み、各派の特徴を学び取りながらめきめきと腕を上げていった。
明治23年、第3回内国勧業博覧会に出品した「東遊図」が褒状を受けた。翌年には日本青年絵画協会 (会頭岡倉天心)の創立へ参加した。上京後わずか数年にして目覚しい活躍をし、明治30年には東京美術学校助教授となったが、翌年には東京美術学校騒動により共に辞職した橋本雅邦や横山大観らとともに日本美術院を創立した。
大観や菱田春草らが朦朧体を試みて保守的な画壇から非難を浴びる中、廣業は伝統的な画法を生かした作品を発表、各方面からの賞賛を得た。その後廣業は東京美術学校へ教授として復職、さらに日本最初の官設美術展である文展で審査委員をつとめ、自らの天籟画塾では門弟が300人にもなるなど、日本画壇を支える太い柱となった。
好きな信州に別荘をかまえて絵を描き、いよいよこれからの日本画壇を先導するかに見えたが、帝室技芸員に任命された2年後の大正8年(1919)、53年の短い生涯を閉じた。
「鐘馗之図」
「黄初平図」
「富士図」
寺崎廣業には贋作が多いのですが、その理由は明治期から大正にかけての日本画に大家であり、わりと皆作品を欲しがっていたからのようです。田舎では本物を見ることも少なく、贋作を売り込みやすかったこともあり、とくに郷里の秋田では贋作が多かったと聞いています。
竹石図 寺崎廣業筆
紙本水墨額装
画サイズ:横436*縦304
本作品はインターネットオークションより落札した作品です。落款より大正4年頃の作と思われます。出来から判断して真作と断定できます。筆の勢いの良い佳作といえます。
寺崎廣業の真贋はわりと簡単です。落款の筆の勢いと印章をきちんと資料と比較すれば誤りはありません。ただ印刷作品もありますので印刷や版画には注意しなくてなりません。地元のお寺さんが「なんでも鑑定団」に印刷の美人画作品を出品し失笑をかったことがありました。
下の写真が本作品の落款と印章です。
寺崎廣業のエピソード
広業先生はいたって磊落《らいらく》で、平民的で、僕〈川路柳虹〉等と一緒に馬鹿騒ぎをした。教室へ来ても、何一つ絵の指導などはされない。いつも漫談なのである。ところがその漫談が、例の難解な秋田弁なので、外国語以上に分らない。先生は、日露戦役に従軍画家として出征せられた。その時の戦争談が自慢の一つで、時々生徒に話されるのであるが、高潮に達するほど郷土語を乱発される。「タイフオー(大砲)のたまが、ジドーン、ジドーンとやって来る度に、満洲の赤チチ(赤土)がパとフアネて、こっちゃの方からロスヤ人(ロシア人)の頭がちびり出ると、またあっちゃの方からも、ロスヤ人の頭がちびり出て、赤い血がだんだんと流れ、ヂチに(実に)惨澹たるものであった。」こんな話を聞いているのもヂチにサンタンたるもので、ただもうおかして、われわれは笑いこけていた。
寺崎廣業:慶応2年生まれ。廣業の父は佐竹家に仕えた家老職でしたが維新後の生活は貧しく、廣業が15歳の頃には横手市で氷水を売って親の手助けをしていたという話もある。
はじめ狩野派の小室怡々斎に、のちに四条派の平福穂庵、南画家の菅原白龍に出会い、3つの伝統的な画法を学ぶ。さらには明治22年 (1889) 東陽堂への入社。
廣業は穂庵の後任として中国や日本の古名画や浮世絵などの版下縮図に取り組み、各派の特徴を学び取りながらめきめきと腕を上げていった。
明治23年、第3回内国勧業博覧会に出品した「東遊図」が褒状を受けた。翌年には日本青年絵画協会 (会頭岡倉天心)の創立へ参加した。上京後わずか数年にして目覚しい活躍をし、明治30年には東京美術学校助教授となったが、翌年には東京美術学校騒動により共に辞職した橋本雅邦や横山大観らとともに日本美術院を創立した。
大観や菱田春草らが朦朧体を試みて保守的な画壇から非難を浴びる中、廣業は伝統的な画法を生かした作品を発表、各方面からの賞賛を得た。その後廣業は東京美術学校へ教授として復職、さらに日本最初の官設美術展である文展で審査委員をつとめ、自らの天籟画塾では門弟が300人にもなるなど、日本画壇を支える太い柱となった。
好きな信州に別荘をかまえて絵を描き、いよいよこれからの日本画壇を先導するかに見えたが、帝室技芸員に任命された2年後の大正8年(1919)、53年の短い生涯を閉じた。
ほとんど米吉さんには理解できないと思います。
私が秋田で仕事した時の重要な仕事は本社の方々への通訳
大切にしなくてはいけないものの一つだと思います。
それにしても、勢いのある筆運びです!