書画骨董を趣味としていると魑魅魍魎たる作品に出くわすことが多々あります。そのほとんどが贋作製作絡みが多いのですが、分野が広いだけに理解するのに長い時間と労力を費やすことになります。
南画は非常に贋作が多い分野でもあります。著名な画家にはよくよく注意が必要です。浦上玉堂、池大雅は無論のこと、釧雲泉、富岡鉄斎なども90%以上が贋作と思います。しかも本物を脇において模写したのではないかと思うほどのものが多々あります。
伊藤若冲の作品の写しに別の画家の落款を入れた作品を入手したこともあります。構図はよくできているので魅力的な作品に仕上がっているので、うっかりすると騙されます。
「中西耕石の作品 その2」の作品を投稿するにあたり、本作品を思い出しました。以前に本作品を投稿したのですが、鉄斎の作品の中に酷似している作品がありますが、その真意は不明です。
清澄寺所蔵 「福禄寿会図」 鉄斎85歳作品 1920年
当作品 「禄寿會図」 中西耕石71歳作品 1878年
まず疑われるのは本作品が鉄斎の写しで中西耕石の作品ではないということです。
落款には「福禄寿會 耕石時年七十有一」とありますが、印章は難解ですので、確認がとれません。
意図的な贋作か、耕石という別人の画家が存在したのか?
若しくは「禄寿會図」という図柄は形式的に存在したのか? 独創的な画家の鉄斎が模写したとは思えない・・・。
いずれにして不可解な・・。
以下は前回投稿した文章の一部です。
福禄寿會図 伝中西耕石筆
絹本着色 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1990*横545 画サイズ:縦1325*横420
よく描かれた吉祥図です。
鉄斎の作品と酷似しています。
はてさてこれは如何・・??
賛は「福禄寿會 耕石時年七十有一」とあり、明治11年(1878年)頃の製作と思われます。
巻き止めには「福禄寿會(美保出生祝) 明治13年8月」と記されており、描かれてから2年後ということになります。
女の子の誕生のお祝いの求めに応じて中西耕石が描いたように思われます。
富岡鉄斎の作品にほぼ同じ構図の作品があります。
清澄寺所蔵 「福禄寿会図」 鉄斎85歳作品
鉄斎が85歳ということから大正10年(1920年)作品であり、本作品のあとの製作ということになります。さてここで大きな疑問がでてまいります。あまりにも両作品の構図が似ていることです。古くからこのような図があったのか、はたまた後日、鉄斎の作品を模して、中西耕西に贋作を製作しかという疑いが出てきます。もしくは中西耕石ではない別の「耕石」という画家が鉄斎を模したのか・・?? とすると先に述べた巻き止めの記述も怪しくなります。
中西 耕石:1807年(文化4年) - 1884年(明治17年)1月9日)江戸時代後期から明治時代の日本画家。筑前国芦屋中小路(福岡県芦屋町)出身。名を寿平、後に寿。字は亀年。別号に竹叟、筌岡など。山水画、花鳥画に優品を残した。生家は陶工とも紺屋とも言われるがはっきりしない。
若くして上洛し、京都で松村景文に師事し四条派を学ぶと、大坂に出て漢学の篠崎小竹の門下となり、再び京都に戻ると小田海僊に南画を学び名声を得て、1882年(明治15年)には、京都府画学校の教授に就任した。
第1回内国絵画共進会で銅賞、第2回共進会では画学校設立に尽力した功績で絵事功労賞を受賞する。
日根対山と前田暢堂の3人で対暢耕とよばれた。日根対山と南画界の双璧と称される。門下に巨勢小石、吉嗣拝山、木村耕巌、藤堂候等
人の世は常に欲が必ず渦巻いて、その欲に巻き込まれる理由もまた欲が絡んでのこと。
南画は非常に贋作が多い分野でもあります。著名な画家にはよくよく注意が必要です。浦上玉堂、池大雅は無論のこと、釧雲泉、富岡鉄斎なども90%以上が贋作と思います。しかも本物を脇において模写したのではないかと思うほどのものが多々あります。
伊藤若冲の作品の写しに別の画家の落款を入れた作品を入手したこともあります。構図はよくできているので魅力的な作品に仕上がっているので、うっかりすると騙されます。
「中西耕石の作品 その2」の作品を投稿するにあたり、本作品を思い出しました。以前に本作品を投稿したのですが、鉄斎の作品の中に酷似している作品がありますが、その真意は不明です。
清澄寺所蔵 「福禄寿会図」 鉄斎85歳作品 1920年
当作品 「禄寿會図」 中西耕石71歳作品 1878年
まず疑われるのは本作品が鉄斎の写しで中西耕石の作品ではないということです。
落款には「福禄寿會 耕石時年七十有一」とありますが、印章は難解ですので、確認がとれません。
意図的な贋作か、耕石という別人の画家が存在したのか?
若しくは「禄寿會図」という図柄は形式的に存在したのか? 独創的な画家の鉄斎が模写したとは思えない・・・。
いずれにして不可解な・・。
以下は前回投稿した文章の一部です。
福禄寿會図 伝中西耕石筆
絹本着色 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1990*横545 画サイズ:縦1325*横420
よく描かれた吉祥図です。
鉄斎の作品と酷似しています。
はてさてこれは如何・・??
賛は「福禄寿會 耕石時年七十有一」とあり、明治11年(1878年)頃の製作と思われます。
巻き止めには「福禄寿會(美保出生祝) 明治13年8月」と記されており、描かれてから2年後ということになります。
女の子の誕生のお祝いの求めに応じて中西耕石が描いたように思われます。
富岡鉄斎の作品にほぼ同じ構図の作品があります。
清澄寺所蔵 「福禄寿会図」 鉄斎85歳作品
鉄斎が85歳ということから大正10年(1920年)作品であり、本作品のあとの製作ということになります。さてここで大きな疑問がでてまいります。あまりにも両作品の構図が似ていることです。古くからこのような図があったのか、はたまた後日、鉄斎の作品を模して、中西耕西に贋作を製作しかという疑いが出てきます。もしくは中西耕石ではない別の「耕石」という画家が鉄斎を模したのか・・?? とすると先に述べた巻き止めの記述も怪しくなります。
中西 耕石:1807年(文化4年) - 1884年(明治17年)1月9日)江戸時代後期から明治時代の日本画家。筑前国芦屋中小路(福岡県芦屋町)出身。名を寿平、後に寿。字は亀年。別号に竹叟、筌岡など。山水画、花鳥画に優品を残した。生家は陶工とも紺屋とも言われるがはっきりしない。
若くして上洛し、京都で松村景文に師事し四条派を学ぶと、大坂に出て漢学の篠崎小竹の門下となり、再び京都に戻ると小田海僊に南画を学び名声を得て、1882年(明治15年)には、京都府画学校の教授に就任した。
第1回内国絵画共進会で銅賞、第2回共進会では画学校設立に尽力した功績で絵事功労賞を受賞する。
日根対山と前田暢堂の3人で対暢耕とよばれた。日根対山と南画界の双璧と称される。門下に巨勢小石、吉嗣拝山、木村耕巌、藤堂候等
人の世は常に欲が必ず渦巻いて、その欲に巻き込まれる理由もまた欲が絡んでのこと。