夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

色紙 自画像 向井潤吉筆

2018-11-14 00:01:00 | 日本画
以前に紹介した下記の作品ですが、額を替えて保存箱も出来上がりました。

庭に腰掛ける婦人 エルネスト・ローラン画
左下サイン Ernest Laurent
画サイズ:縦610*横500 F12号



さて洋画は当方の蒐集対象ではありませんが、本日紹介する画家もまた基本的には洋画家です。

「民家の向井」と称される向井潤吉ですが、油絵の作品は非常に人気が高く、小生の好きな画家のひとりですがまだ作品を入手できていません。このたび色紙に描いた自画像の作品を入手しましたので紹介します。

色紙 自画像 向井潤吉筆
紙本水墨淡彩 色紙 タトウ
画サイズ:縦270*横240



服装から察すると戦争中の従軍中に描いた作品かもしれません。1937年(昭和12年 36歳)~1938年に中国大陸に従軍、1944年(昭和19年 43歳)にはインパール作戦に同行しビルマまで従軍しています。帰国後は軍需生産美術推進隊隊員として、各地の炭坑で制作を続けており、この頃の作品と思われます。戦後は代表的な民家を描いた作品を描きます。

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向井 潤吉(むかい じゅんきち):1901年(明治34年)11月30日~1995年(平成7年)11月14日)は日本の洋画家。戦前から戦後にかけて活躍、40年以上に渡り北海道から鹿児島までを旅し、生涯古い民家の絵を描き続け「民家の向井」と呼ばれた洋画家であった。弟は彫刻家でマネキン制作会社「七彩」初代社長の向井良吉、長男は元TBSディレクターで萩本欽一を育てた事で有名な向井爽也。



生い立ち:京都市下京区仏光寺通に父・才吉と母・津禰の長男として生まれる。父はもともと宮大工の家柄で東本願寺の建築にも関わった。潤吉が物心ついた頃には、家で10人近い職人を雇い輸出向けの刺繍屏風や衝立を製造していた。1914年(大正3年)4月、父と日本画を学ぶことを約して京都市立美術工芸学校予科に入学するが、2年後どうしても油絵が描きたくて父の反対を押し切って中退、「家業を手伝いながら」という条件で関西美術院に入り、4年間学ぶ。1919年(大正8年)、二科会第6回展に初入選。翌年家に無断で上京、半年ほど新聞配達で働きながら川端画学校に通うが、年内には再び京都に戻る。



フランス留学と戦争画:1927年(昭和2年)、当時最も安い経路だったシベリア鉄道を使いフランスへ向かう。滞仏中は、午前中はルーブル美術館で模写、午後は自由制作、夜はアカデミー・ド・ラ・ショーミエールで素描をおこなうのが日課であった。潤吉は後年「私の如き貧乏の画学生には、費用のかからないそして自由に名画に接し得られる美術館での勉強はまことに有り難かった」と述懐している。模写した作品はヴェネツィア派からバロック絵画にかけての作品が目に付く他、コローの作品が多い。その一方で、スーティンやココシュカを想起させる荒々しい筆触の作品も描いており、フォーヴィスムへの接近を色濃く感じさせる。



3年後の1930年(昭和5年)に帰国し、模写の展覧会を開く。同年結婚、また、二科会に渡欧中に制作したフォーヴィスム調の作品11点を出品、樗牛賞を受ける。1933年(昭和8年)、東京都世田谷区弦巻に転居し、以後没年まで居住する。1937年(昭和12年)、個人の資格で中国の天津、北京、大同方面に従軍、1938年(昭和13年)、大日本陸軍従軍画家協会が設立されると、潤吉も会員となり戦争画を描く。1944年(昭和19年)インパール作戦に同作品を記録するため作家・火野葦平と共に従軍、2人は協力して危険をくぐり抜けビルマまで戻っている。帰国後は軍需生産美術推進隊隊員として、各地の炭坑で制作を続けた。



「民家の向井」:戦争末期、爆撃のためしばしば防空壕に逃れる生活をするなか、ふと手にとった図録から民家の美しさに気付き、戦火のなか失われようとする美しいものを絵に残したいという思いを強くしていった。終戦後の1945年(昭和20年)11月、行動美術協会を設立。同年秋、新潟県川口村で取材した作品「雨」(個人蔵)を制作、以後生涯の主題として草屋根の民家を描き続ける。しかし、初期の頃は労働や生活の現場を画面に取り込んだ作風を見せ、いかにも潤吉らしい民家作品としての作風が確立するのは昭和30年代に入ってからのようである。1993年(平成5年)5月、世田谷区に自宅を兼ねたアトリエとその土地、ならびに所蔵の作品を寄贈、同年7月、世田谷美術館の分館として向井潤吉アトリエ館が開館する。1995年(平成7年)、急性肺炎のため自宅で逝去。93歳没。



作風:戦後の高度経済成長により次第に伝統的家屋が失われていくなか、潤吉は全国を巡り古い藁葺き屋根の家屋を描き続けた。種々の資料や潤吉自身の言葉から推定すると描き残した民家は1000軒を超え、油彩による民家作品は2000点にも及ぶとされる。1959年(昭和34年)から1988年(昭和63年)までに描いた1074点の製作記録が残っており、これによると、制作場所は埼玉県が約32%、長野県が約19%、京都府が13%と大きな偏りがあり、近畿以西は旅で訪れてはいても作品は極めて少ない。一年の内の製作時期は、2月から4月が一つのピークで、ついで10月から12月が多く、逆に8月は非常に少ない。この理由として潤吉は「民家を描くためには、繁茂した木や草が邪魔になるからであるとともに、緑という色彩が自ら不得手だと知っているからでもある。」と述べている。

*美術史家・辻惟雄は、今後も評価されるに違いない画家の一人として、潤吉の名を挙げている。

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好きな洋画家に向井潤吉と葛西四雄がいますが、田舎の山村と漁村を主に描きますが、ノスタルジックな景色の作品はいつか入手したいと思っています。人気が高くとても今まで縁がなく、まだひとつも入手できていません。

今回は自画像の作品の紹介でしたがいつかは民家を描いた作品を欲しいと思っています。今回の作品は自画像でしたがたしかな描写力を持つ画家と再認識できる作品だと思います。



額がちょっと寂しかったのでマットを交換しておきました。気に入った作品は黄袋をつけたタトウに収納するのが原則です。布張のタトウまでは欲張る必要はありませんが、絵の取り出しや中身を取り出さなくても作品が解るようにしておかないと作品を探す時にたいへんで取り出しているうちに作品を傷める可能性があります。作品の真贋を論じる方は数多くいるものの、作品の保存をきちんとしている御仁は少ないと思います。



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