夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

明末呉須赤絵花紋大鉢 

2014-05-23 05:18:14 | 陶磁器
今、構想を練っているのが「蔵」です。むろん資金作りから・・・

あるブログより文章を引用すると

「厚い土壁の中はヒヤッとして 夏でも蔵内はほのかにカビ臭い。冬は外より幾分温かく、中の物を守ってくれる。小さな窓から入る光は古い時代へタイムスリップしたように内部を浮かび上がらせる。

かつて蔵の中には何も大事な宝物だけが入っているのではなかった。生活の様々な道具や季節外れの着物もある。代々伝えられた茶道具や軸物。大切なものは一番奥にしまわれている。中には物騒な火縄銃や刀まで、何でもしまいこまれていた。そんな蔵がいつ頃からか取り壊され、安物の建物に変わっていった。一種のブームと言ってもよいほど次々壊され、どこにでもあった蔵が町から消えてしまった。

この頃から日本人は気が短くなったように思われる。ビジネスにも遊びにもスピードが一番。遅いこと、時間を費やすと言うことは悪さえ考えるようになった。ビジネスにおけるコスト意識が人々の美意識になるほど、日本人の生活は変化したのだ。だから孫子の代まで長持ちするような家具より、備え付けの家具のほうを好むようになっている。家具も家も30,40年持てばいいほどの発想しか浮かばないので物凄い浪費をしているのに気付かない。

今の私ははるか以前の祖先があってこれから先もまたずーっと続いていくという思いが欠けている。自分の代だけという考えから抜け出さなければ本当の意味での安定した経済的基盤が築けないのだ。そこを考えるというのがこの蔵の意識だ。昨今殆どすべての大切な資産は不動産、現預金、株という蔵の中にしまわなくても良い姿に変わってしまった。いわゆる資産もサラリーマンからして横一列なのだ。これはこれで時代の移ろい、仕方のない面もあるが、これだけ平均化された今日の日本で、もしハイパーインフレでもなれば果たして持つのだろうか。

もう蔵はない。戦争に敗れた時、蔵の中からいろいろなものを取り出し売り食いしたような換金性のある資産を殆どの人は持っていない。代々伝えていくという家族を大切にする蔵の意識。資産として骨董を持つ意味を考えても良い時代が、そこまでやってきているのではないだろうか。私が「どうらくだ」と言われ続けながら幾つかの骨董を収集しているが、その中の一つでもよい。孫子の代に値打ちが出れば十分に元が取れる。その確率はきわめて高いのだ。儲かる骨董、考える骨董である。資産を蔵で熟成させよう。」(「骨董ハンター南方見聞録」の島津法樹の文章より)

骨董では決して儲からないと小生は繰り返し述べてきましたが、それは自分の人生という短いスタンスでの話。他の国々では子々孫々まで伝えて、長い時間軸で儲けるという考えのようです。

さて本日は生活雑器であった器のお話です。ただ、なんでも集めればよいということではなく「考える骨董」の器です。

明末赤絵の作品をいくつか紹介しましたが、この手の作品は大きいものが多く、飾っても使っても面白いもので魅力に尽きない作品群です。


明末呉須赤絵花紋大鉢 
合箱
全体サイズ:口径310*高台径140*高さ75



この手の作品は時代が「明末である」ことが重要な要素であると言われますが、とはいえなんといっても絵付けの面白さが最大のポイントであると思います。本作品は裏面の数少ない筆の運びにも勢いがあります。



本作品は窯ワレがありながら破棄されず残っており、絵筆が実にのびやかです。紋様は何を描いているかわかりませんが、洒脱であり他の明末赤絵を圧倒する迫力があり、抽象画のような魅力があります。



清朝に入るこの手の赤絵の作品は数多く存在しますが、絵付けの出来不出来があり、絵付けのかたいもの多くは本来の面白みに欠けています。



そういう点では明末の時代の古いもののほうが絵付けは洒脱な作品が多いですが、それとても数はとても少ないものです。

本作品の魅力は表裏の赤絵の筆遣いが力強いことです。荒々しさゆえ窯割れなどの破損もたいして気にならないと思います。



赤絵の作品は数多く存在しますが、この頃の作品が一番でしょう。「なんでも鑑定団」に出品され、市場よりはるかに高い金額での評価のため、インターネットオークションでも数多く出品されていますが、本当に良いものはその絵の面白さです。

さて、この鉢になにを盛り付けようか? 蔵は骨董の仮の住まい




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