夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

古染付 青花松鷹図陽刻輪花七寸皿

2022-06-06 00:01:00 | 陶磁器
自宅にテレワークしていると昼過ぎに帰宅した息子が小さめの薔薇の花を持ってきました。なにやら学校で「好きな人は好きなだけどうぞ」というお花のおすそ分けがあったらしい。家内は小生に花入れを所望・・。やれ染付いいの、大きさが合わないなど注文が多い。



それならこれはどうだ!と小生が南蛮焼絞の花入を長持ちから取り出したので家内は納得して活けて応接室に飾りました。

さらにまだ花が余っていたようで、洗面所にあった永楽の花入れに活けて洗面所に飾っていました。



さらに息子が「机の上にも」と所望したので、有り合わせの花瓶?で飾っていました。



テレワークながら家内の仕事の工事完了検査の手伝いやらなんやで会社にいるより忙しい・・😨 



さて本日の作品は古染付の作品ですが、通常は5寸程度の大きさの作品が多い古染付の皿ですが、本日の作品は7寸程度あり、古染付としては大きい作品と言えるでしょう。

下記の写真の作品は5寸程度の古染付(後日投稿予定作品)ですが、古染付の作品もいったい幾つになったのやら・・。



また見込み外周に陽刻が施され、形状が輪花の口縁という珍しい作例です。図柄も鷹の描かれており、古染付には珍しいデザインです。作行は古伊万里(藍九谷)と見間違えるほどですが、日本からの注文による古染付と推察しています。


古染付 青花松鷹図陽刻輪花七寸皿
口径200*高台径*高さ40


そもそも古染付は南方民窯の呉須手とは区別され、一般に中国,明末・天啓年間(1621年~1627年)あるいは崇禎年間(1621年~1644年)頃に作られ、江西・景徳鎮の民窯にて焼かれた染付磁器として分類されます。

「南方民窯の呉須手とは区別」という点を理解していないと漳州窯で明末に大量に作られた大皿をメインとした染付の作品と混同して古染付と称してしまうことになりますので要注意ですね。「南方民窯の呉須手」を古染付とする方が意外に多いし、資料やオークションでもたまにそのような説明を見受けますが、これは厳密には間違いです。

古染付は明らかに日本向けとされるものも含まれ、重厚なつくり、陶工の意匠を素直に表した飄逸みにあふれる文様が特徴です。その味わい深い古染付、茶人に親しまれることによって日本では珍重され、中国には遺品が皆無であり、ほとんどの遺品は日本にのみ伝わっている。


呼称の由来
古染付の呼称については諸説ありますが、江戸時代の資料にはみられないことからも決して古くから使われていた言葉ではないようです。茶会記や箱書きによると、それ以前には「南京」つまり中国渡りの染付との意味で「染付南京」と呼ばれていたようです。その後江戸後期に伝わった煎茶道具の清朝染付に対して、初期に渡った古渡りの染付を「古染付」と呼ばれたとの説が一般的とされています。

狭義では天啓の染付を、我国では俗に「古染付」と呼んでいますが、それは何時頃、誰によって名付けられたものかは判然としていません。当時以後の茶会記や陶書関係のどこを見ても、その名は見当らないのが事実のようです。いずれにしても、「古染付」と呼び始めた時期はせいぜい百年位前ではなかろうかと考えられています。

「元」に始まったといわれる染付が、「明」に入って宣徳、成化、嘉靖、万暦、天啓、崇禎と続き、それぞれの時代の作風が見栄えを競って咲き誇った中で、どうして天啓の染付だけが「古染付」と呼ばれたのは、茶人による特注の日本向特別品という意味合にも関係するとされています。そして数ある染付の中で、特に天啓染付だけを別に呼称したのは、その風雅な作風を重んじ、他の時代の染付と敢えて区別した数寄者の慧眼と、粋な心根にあると言わねばならないのでしょう。天啓染付にこの様な愛称を与へた人の機智もさることながら「古染付」とは正に言い得て妙であり、染付へのほのかな郷愁を、これ程に微妙に匂わした呼び名はないのでしょう。

下記の写真は収納箱の蓋裏箱書です。表には「古染付」と記されています。


明末の景徳鎮
明末の景徳鎮(萬暦年間)における御器廠への焼造下命はおびただしい量となり、碁石・碁盤・碁罐・屏風・燭台・筆管といった食器の類ではないものまで用命されるようになったとされます。その結果、原料の消費は甚だしく採土坑は深く掘り下げられ、役人は私腹を肥やし、陶工らは辛酸を舐めることとなったようです。

しかし、萬暦帝の崩御により御器焼造は中止となり御器廠は事実上の閉鎖を迎えました。このような背景の中、景徳鎮の民窯によっていわゆる古染付、天啓赤絵・芙蓉手・祥瑞・南京赤絵が生み出されていきます。古染付の生まれた天啓(1621年~1627年)は、万暦につづく7年間で、約300年の明朝の歴史の中で、国力の最も衰微した末期に当り、景徳鎮窯業史からみれば、乱世という社会情勢の中で、これまで主役を演じて来た御器が廃止され、それに代って民窯の活動が一段と盛んになった時期です。

俗に天啓染付と称する一種独特のやきものが生まれて来たのは、この様な時代背景があってのことで、天啓年代に至って突如として出現したものではなく、万暦年間に既にその萠芽は見られ、官窯が消退したために、官窯の特徴であったかたさが次第に消えて、勢い民窯の風味が表に出てきて、それが古染付の母体となったとされます。従って年代的には、どこからどこが古染付の出現した時代かは判断とせず、天啓を中心とした明未清初の端境期のやきものとうけとめた方が適切のようです。


原料の消費は甚だしく採土坑は深く掘り下げられた結果、そのような危険な採掘は敬遠され、簡単に採掘される表土の採土から作品が焼成され、その結果伸縮率の違いから作品には「虫喰い」が生じるようになります。

この様な生い立ちの古染付はいかにも中国陶磁の伝統を笑うかの様に自由奔放で、さり気ない作行です。律義に、しかも均等に余白を唐草模様や雲竜文で埋め尽すような明代の染付に較べ、古染付の絵付は、いかにもおおらかで、屈託がないものです。そこには、こうしなければならないといった制約もなければ、そうなるのが当然といった習慣めいた惰性もないものです。


その文様において描線が曲っていようと、線が一本余っても足りなくても、また太くても細くても、一向にお構いなしといった鷹揚さが、反って古染付の古拙ぶりを助長し、その面目を躍如とさせています。 また、線描きを主とした幾何様文でも、輪文、網文、麦藁文、石畳文、更紗文など、描線が自由にのびのびとしながらも、決してバランスを崩さず、沃気に満ちた現代陶芸が、真似の出来ない風雅を醸し出していると言えるでしょう。 そこに描かれるものは、山水を始めとして、花鳥、人物、動物、故事、物語など、何事も画題となり、あらかじめ意図された意匠がないかの如く、自由でかつ、即興的です。 そして、絵付の展開は甚だ詩情的であり、説話的である。この様な卓抜なデザインは、初期伊万里染付のごく一部を除いては例をみないmのです。古染付の写しは古伊万里にも数多く見受けられますが、どうしても作風がかたいという印象、雰囲気があります。

本作品においても砂付きや虫喰いを論じるより、作風の違いから「古染付」と判断しました。松に鷹・・、武家筋からの注文と思われますね。

古染付の特徴
古染付には「大明天啓年製」「天啓年製」あるいは「天啓年造」といった款記が底裏に書かれていることがあり、この他にも「天啓佳器」といったものや「大明天啓元年」など年号銘の入ったものも見られます。また年号銘でも「成化年製」「宣徳年製」など偽銘を用いた作例もあり、優品を生み出した過去の陶工に敬意を払いつつもそれまでの様式にとらわれることはなかったようです。これら款記は正楷書にて二行もしくは三行であらわされるのが慣例とされていましたが、款記と同じく比較的自由に書かれており、まるで文様の一つとして捉えていたようにも思えます。それ以前の景徳鎮では、このように自由な作例はみられず、民窯であったからこそ陶工の意匠を素直に表した染付を生み出すことができたとされます。むろん銘のない作品も数多くあります。


虫食い
天啓で使われていた陶土は決して上質のものではなく、そのため焼成時に胎土と釉薬の収縮率の違いから生まれてしまいます。特に口縁部は釉が薄く掛かるために気孔が生じて空洞となり、冷却時にその気孔がはじけて素地をみせるめくれがのこってしまいます。本来、技術的には問題となるところを当時の茶人は、虫に食われた跡と見立て鑑賞の対象としました。古染付特有の特徴であることも知られています。


絵付
土青による濃青な発色をうまく使い、様々な器形に合わせて絵画的な表現を用い絵付を行っています。それまでの型にはまった様式から一歩踏み出し、自由奔放な筆致で明末文人画を例にとった山水や花鳥、羅漢・達磨など描いています。


器形
中国では元来、小皿の形の多くは円形をなしていています。古染付でも円形の小皿は多くみられ、その他にも様々な器形がつくられています。十字形手鉢・木瓜形手鉢・扇形向付といったものは織部に見られる器形であり、日本から木型等を送り注文をしていたのではないだろうかとも想像できます。轆轤を専門としていた景徳鎮において、手捻ねりへの突然の変更は難しいでしょう。しかし、その注文に応じていくうちに更に独創的な形(菊形・桃形・柏形・魚形・馬形・海老形・兎形)を生み出し、古染付独自の器形をつくり上げていったことは確かなようです。陽刻や輪花もその一つでしょう。


砂付高台

高台内にはくっつきを防ぐ砂の跡が多くあります。また高台内には鉋跡のある作品も多くあります。もちろん無いもののあります。


派生した器

天啓赤絵
古染付と時同じくして天啓年間(1621~27)にはじまり、景徳鎮の民窯にて焼かれた赤絵のことです。萬暦まで続いた官窯様式から脱却した古染付に朱・緑・黄にて上絵付を施している。その特徴は古染付とほぼ同様ですが、古染付と比してその生産量はかなり少ない作品群です。

当方でも幾つかの天啓赤絵の作品を紹介しています。

楼閣図 天啓赤絵(五彩手)八寸輪花皿 その1 & その2
合箱 高台内「天啓年製」
口径235*高台径140*高さ46


五彩手に分類されるかもしれませんが、この大きさの天啓赤絵は希少です。


南京赤絵もいくつか本ブログにて紹介しています。

南京赤絵
南京とは中国を意味する言葉として使われており、南京赤絵とは中国・明末の赤絵のことをさしますが、狭義では天啓赤絵・色絵祥瑞らと区別して使われることが多いようです。その意味で南京赤絵は、明末に景徳鎮で作られた五彩のことを指し、施文には染付を用いずに主として赤・緑・黄を使い、染付は銘など一部に限られています。 華麗な意匠のものが多く、口縁には鉄砂で口紅が施されるもの、金彩を加えた豪華なものがあります。

南京赤絵も大きい作品は貴重となっています。

南京赤絵 花鳥文輪花八角皿
欠損及び割れ補修跡有 誂箱
幅204*奥行204*高台径*高さ35


このような角皿はよく見かけますね。揃いで日本から注文したのでしょう。

南京赤絵 柳下漁人物文角皿 
誂箱
最大幅138*最大奥行137*高台約90角*高さ26


以前は貴重とされた古染付、南京赤絵、天啓赤絵ですが、今ではずいぶんとお手頃になっています。これは初期伊万里も同様のようで、現代の人はこれらの分類には無頓着なのでしょう。


源内焼に餅花手、さらには頼山陽に円鍔勝三・・・、実は当方も無頓着・・・


せめて収納箱にはこのブログに記されているような資料を添付して保管しておきましょう





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