週末は昼食にラーメンと食べようということになり、町田の駅前まで・・。人気のあるお店のようですので空いている時間帯を狙いましたが、食事を済ます頃には行列ができていました。
息子は箸の使い方が上達し、前ほどは時間がかからずに食事を済ますことができました。
さて当方は別にロリコン趣味ではないですが「少女図」が何点か所蔵することになっています。
少女図 河崎蘭香筆
絹本着色軸装 軸先木製 合箱入
全体サイズ:縦1750*横505 画サイズ:縦1075*横410
女童図 伝木谷千種筆絹本着色 軸先塗木製 合箱
全体サイズ:縦1770*横540 画サイズ:縦1085*横410
美人図 伝九条武子筆
絹本着色絹装軸 軸先陶器 合箱
全体サイズ:縦1674*横510 画サイズ:縦1086*横400
上記などの作品が本ブログに投稿されています。
本日は岡本大更の作品の初めての紹介です。
春のこども(春能こども) 岡本大更筆
絹本着色軸装 軸先木製 共箱
全体サイズ:縦2160*横561 画サイズ:縦1252*横421
箱書に「星次大正十季年酉孟春(春の初め)」と記されてあり、1921年(大正10年)、岡本大更が42歳の作です。
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岡本大更(たいこう):日本画家。三重県生。名は直道。明治12年(1879)9月14日、名張郡滝之原村(現・名張市滝之原)で、父・多吉、母・まさの二男として生まれた。
明治12年三重県名張市滝大更8歳の時、一家を上げて上京。神童とうたわれた大更の美人画の境地をきりひらいた作風は「近代的な浮世絵」と激賞されたようです。
若い頃は貧しさのため師につかず、独学にて文部省美術展覧会などで入選を重ね、美人画の大家(近代的な浮世絵師)と評されるまでになりりましたが、若くして名張の地を離れたため、伊賀地方では全く忘れ去られた存在となっています。
第八・九回文展、第一回院展に入選。人物画を得意としています。また音楽・演劇を好みましたが、戦争が激しくなった同19年(1944)、後妻の郷里、香川県豊島に疎開し、翌20年12月、疎開先で死去、満66歳でした。主に大阪に住しています。
*妻の妹だった更園(こうえん・本名、星野延子)は、20歳で義兄大更の私塾「更彩画塾」で、日本画の手ほどきを受け、2年後の大正5年(1916)の文部省美術展覧会で初出品初入選に輝きました。のちに上京し、鏑木清方の門を叩き、女流画家として活躍しました。
*大更の長男・富久馬は更生(こうせい)と号して、京都絵画専門学校を卒業後、土田麦僊に師事し、大阪美術展覧会などに出品しました。戦後、当時の名張町で「桔梗ヶ丘学園」が開校されるや、日本画講師に就任し、名張地方の画家仲間で結成した「コンパル画会」に参画するなど活躍したが、昭和55年(1980)、74歳で没しました。
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画力はかなりあったように推察されますが、戦争中に亡くなっており、今では知る人が少ない画家の一人のようです。
さらりと描かれた作品ですが、力量のたしかさがうかがえます。
妻である岡本更園のほうを知っている方のほうが多いかもしれません。岡本更園、吉岡(木谷)千種、島成園、松本華羊で「女四人の会」を結成しています。
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*「女四人の会」
1
916年(大正5年)5月、かねてから親交のあった同年代の女性日本画家木谷千種、岡本更園、松本華羊と結成した「女四人の会」の第一回展が大阪で開催され、妙齢の女性画家たちによる意欲的な展覧会として話題を呼んだが、身分違いの恋や不倫の恋、心中、性的倒錯、犯罪など、恋愛感情に駆られての反社会的、反道徳的行動を主題とする文学作品を題材とする絵画を、若い女性画家が描き、それらを発表する展覧会を開いた、ということが、識者には生意気な、挑発的行動と受け止められ「斬うした遊戯を嬉しんで囃し立てる大阪の好事家というのもまたつらいもの(中央美術 大正5年6月)と揶揄された。
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息子は箸の使い方が上達し、前ほどは時間がかからずに食事を済ますことができました。
さて当方は別にロリコン趣味ではないですが「少女図」が何点か所蔵することになっています。
少女図 河崎蘭香筆
絹本着色軸装 軸先木製 合箱入
全体サイズ:縦1750*横505 画サイズ:縦1075*横410
女童図 伝木谷千種筆絹本着色 軸先塗木製 合箱
全体サイズ:縦1770*横540 画サイズ:縦1085*横410
美人図 伝九条武子筆
絹本着色絹装軸 軸先陶器 合箱
全体サイズ:縦1674*横510 画サイズ:縦1086*横400
上記などの作品が本ブログに投稿されています。
本日は岡本大更の作品の初めての紹介です。
春のこども(春能こども) 岡本大更筆
絹本着色軸装 軸先木製 共箱
全体サイズ:縦2160*横561 画サイズ:縦1252*横421
箱書に「星次大正十季年酉孟春(春の初め)」と記されてあり、1921年(大正10年)、岡本大更が42歳の作です。
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岡本大更(たいこう):日本画家。三重県生。名は直道。明治12年(1879)9月14日、名張郡滝之原村(現・名張市滝之原)で、父・多吉、母・まさの二男として生まれた。
明治12年三重県名張市滝大更8歳の時、一家を上げて上京。神童とうたわれた大更の美人画の境地をきりひらいた作風は「近代的な浮世絵」と激賞されたようです。
若い頃は貧しさのため師につかず、独学にて文部省美術展覧会などで入選を重ね、美人画の大家(近代的な浮世絵師)と評されるまでになりりましたが、若くして名張の地を離れたため、伊賀地方では全く忘れ去られた存在となっています。
第八・九回文展、第一回院展に入選。人物画を得意としています。また音楽・演劇を好みましたが、戦争が激しくなった同19年(1944)、後妻の郷里、香川県豊島に疎開し、翌20年12月、疎開先で死去、満66歳でした。主に大阪に住しています。
*妻の妹だった更園(こうえん・本名、星野延子)は、20歳で義兄大更の私塾「更彩画塾」で、日本画の手ほどきを受け、2年後の大正5年(1916)の文部省美術展覧会で初出品初入選に輝きました。のちに上京し、鏑木清方の門を叩き、女流画家として活躍しました。
*大更の長男・富久馬は更生(こうせい)と号して、京都絵画専門学校を卒業後、土田麦僊に師事し、大阪美術展覧会などに出品しました。戦後、当時の名張町で「桔梗ヶ丘学園」が開校されるや、日本画講師に就任し、名張地方の画家仲間で結成した「コンパル画会」に参画するなど活躍したが、昭和55年(1980)、74歳で没しました。
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画力はかなりあったように推察されますが、戦争中に亡くなっており、今では知る人が少ない画家の一人のようです。
さらりと描かれた作品ですが、力量のたしかさがうかがえます。
妻である岡本更園のほうを知っている方のほうが多いかもしれません。岡本更園、吉岡(木谷)千種、島成園、松本華羊で「女四人の会」を結成しています。
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*「女四人の会」
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916年(大正5年)5月、かねてから親交のあった同年代の女性日本画家木谷千種、岡本更園、松本華羊と結成した「女四人の会」の第一回展が大阪で開催され、妙齢の女性画家たちによる意欲的な展覧会として話題を呼んだが、身分違いの恋や不倫の恋、心中、性的倒錯、犯罪など、恋愛感情に駆られての反社会的、反道徳的行動を主題とする文学作品を題材とする絵画を、若い女性画家が描き、それらを発表する展覧会を開いた、ということが、識者には生意気な、挑発的行動と受け止められ「斬うした遊戯を嬉しんで囃し立てる大阪の好事家というのもまたつらいもの(中央美術 大正5年6月)と揶揄された。
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