大林千萬樹は小野竹喬と同時代に活躍した岡山の画家ですが、笠岡市立竹喬美術館で「岡山の近代日本画 ー新収蔵・大林千萬樹作品を中心としてー展」が最近開催されています。(2017年7月28日(金)~9月18日)
花おぼろ 大林千萬樹筆 その4
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦1970*横490 画サイズ:縦1220*横310
大林千萬樹筆は富岡永洗、川合玉堂に師事した後、鏑木清方に入門している正統派の画家です。
このおぼろげな花の描き方の作品は大林千萬樹の作品にときおりみかけるものが当時得意としていた描写方法でったのでしょう。
1906年(明治39年)の日本絵画協会日本美術院絵画展覧会に「のべの土産」を出品、翌年、東京勧業博覧会に「歌舞」という作品を出品して居る。
1913年(大正2年)の第13回巽画会展に「胡笳の声」を出品、褒状1等を獲得、また、同年4月の美術研精会第12回展に出品した「涼味」が賞状を得ている。
1914年(大正3年)3月、東京大正博覧会には「真堤我意中の人」、「廓の宵」を出品、10月の第1回再興院展に「編笠茶屋」を出品すると、これが初入選を果たす。
1915年(大正4年) 第2回展に「手牡丹」
1916年(大正5年) 第3回展に「いねむり」第2回郷土会展に「通い廓」
1917年(大正6年) 第4回展に「口三味線」
1922年(大正11年) 第9回展に「紅粧」
1934年(昭和9年) 大礼記念京都美術館美術展覧会に「新粧」を出品
大正末期には奈良に住み、その後、名古屋へ移り、昭和10年代には京都に在住、戦後は各地に移り住んだといわれる。
昭和34年4月26日、静岡県熱海市で死去した。享年は数えで73。
本ブログにて「その4」となりましたが、それほど多くの方が知っている画家ではないかもしれません。評価もそれほそ高くはなくこの作品程度なら数万円で買えるものです。
伊東深水や鏑木清方らの美人画は異常なほどお値段が高いので、この領域の美人画は比較的お買い得なのでおすすめの作品群ですね。
ただこのくらいの画家なら出来の良いものを選んだほうがよさそうです。
中途半端に席画程度の書き込みでは飽きがくるし、将来的にも評価はそれほそ高くなりません。
花おぼろ 大林千萬樹筆 その4
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦1970*横490 画サイズ:縦1220*横310
大林千萬樹筆は富岡永洗、川合玉堂に師事した後、鏑木清方に入門している正統派の画家です。
このおぼろげな花の描き方の作品は大林千萬樹の作品にときおりみかけるものが当時得意としていた描写方法でったのでしょう。
1906年(明治39年)の日本絵画協会日本美術院絵画展覧会に「のべの土産」を出品、翌年、東京勧業博覧会に「歌舞」という作品を出品して居る。
1913年(大正2年)の第13回巽画会展に「胡笳の声」を出品、褒状1等を獲得、また、同年4月の美術研精会第12回展に出品した「涼味」が賞状を得ている。
1914年(大正3年)3月、東京大正博覧会には「真堤我意中の人」、「廓の宵」を出品、10月の第1回再興院展に「編笠茶屋」を出品すると、これが初入選を果たす。
1915年(大正4年) 第2回展に「手牡丹」
1916年(大正5年) 第3回展に「いねむり」第2回郷土会展に「通い廓」
1917年(大正6年) 第4回展に「口三味線」
1922年(大正11年) 第9回展に「紅粧」
1934年(昭和9年) 大礼記念京都美術館美術展覧会に「新粧」を出品
大正末期には奈良に住み、その後、名古屋へ移り、昭和10年代には京都に在住、戦後は各地に移り住んだといわれる。
昭和34年4月26日、静岡県熱海市で死去した。享年は数えで73。
本ブログにて「その4」となりましたが、それほど多くの方が知っている画家ではないかもしれません。評価もそれほそ高くはなくこの作品程度なら数万円で買えるものです。
伊東深水や鏑木清方らの美人画は異常なほどお値段が高いので、この領域の美人画は比較的お買い得なのでおすすめの作品群ですね。
ただこのくらいの画家なら出来の良いものを選んだほうがよさそうです。
中途半端に席画程度の書き込みでは飽きがくるし、将来的にも評価はそれほそ高くなりません。