さて本日紹介する作品はまたも無謀なチャレンジ・・・。
舞妓(コンテ デッサン) 伝小倉遊亀筆 昭和56年
F6号程度 紙本コンテ・デッサン一部着色額装 誂:タトウ+黄袋
額サイズ:縦565*横480 画サイズ:縦415*315
大家である小倉遊亀の作品とおぼしきものですが、全く確証のないまま入手した作品です。
最初に小倉遊亀の画歴は下記のとおりです。
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小倉遊亀(おぐらゆき):小学館(1895―2000) 日本画家。旧姓溝上(みぞがみ)。滋賀県大津に生まれています。
1917年(大正6)奈良女子高等師範学校国語漢文部を卒業後、しばらく教壇に立ったのち、安田靫彦(ゆきひこ)に師事します。
1926年第13回院展に『胡瓜(きゅうり)』が初入選、28年(昭和3)に日本美術院院友、32年同人に推された。38年小倉鉄樹と結婚しますが44年に死別しています。
画風は古典を基礎に、大胆でおおらかな構成と、さわやかな情感がにじむ画風を築いて今日に至ります。初期の作品では『浴女』、第二次世界大戦後では『O夫人坐像(ざぞう)』『月』『良夜』『越(コー)ちゃんの休日』『舞妓(まいこ)』『姉妹』などがよく知られています。
1976年(昭和51)女性では上村松園に次いで日本芸術院会員に推されます。80年に文化勲章を受章、90~96年日本美術院理事長を務めました。晩年、一時体調を崩したものの、105歳で亡くなるまで制作を続けました。
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小倉遊亀の舞妓については、モデルとなった可憐であどけない舞妓(選ばれた舞妓は来君というらしい )が、画家である小倉遊亀に全幅の信頼を寄せ、写生を前にモデルが威儀を正す姿に小倉遊亀は「仏を見た」と語り、「これも菩薩のつもり」と、仏画としての思いを込めて描いたという逸話があります。
下記の作品は「ごく稀にしか褒めることがなかったという師の安田靫彦が賛辞を贈った。」と伝わる小倉亀遊の円熟期の代表作とされるものです。
さて本作品はそのモデルとなった来君(らいきみ)がどうかは不明ですが、気品のある姿は美しいですね。
さて当方で入手に踏み切ったのは筋の良さそうな出来と、作品に「於 松八重」と記されていたこと・・・。「松八重」とは祇園八坂町にあるお茶屋の「松八重」のことでしょう。かの有名な「白洲次郎」がこよなく愛したお茶屋だと推測されます。
作品に記されている昭和56年(1982年 87歳)頃の小倉遊亀については詳しくは知りませんが、「1976年、日本芸術院会員となり、1978年、文化功労者。1980年、上村松園に次いで女性画家2人目となる文化勲章を受賞。1981年、大津市名誉市民。」という経歴のある時期です。
下記のような値札も在中されてありましたが、真贋の根拠にはなりませんね。
当方は小遣い程度の金額しか都合つきませんので、高価な作品は入手できないので掘り出しもの?のような作品を探すしかありません。多くの作品がガラクタと笑われるそうな作品ばかりですが、これも審美眼の足りないことで致し方ありません。少しの可能性にかけてチャレンジしています。
額の製作時期は額の細工でだいたい分かりますね。本作品の額は昭和後半でいい細工となっています。
さてだいぶ傷だらけの額・・・、さてどうするか? 神田の草土舎で補修してもらいます。