夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

再興九谷 松山窯 青手窓絵八寸皿

2022-01-24 00:01:00 | 陶磁器
古九谷の再興九谷の窯と位置づけされている松山窯の作品紹介ですが、本日の作品で3作品目の紹介となります。本日紹介する作品は下記の作品のうち左側の作品ですが、右の作品は前回紹介した同時期の作品と思われる作品です。



両作品に共通するのは、松山窯で特筆される紺青の絵の具で、これまでに九谷焼には使われたことのなかった合成の絵の具である花紺青という絵の具のようです。この花紺青は不透明であり、古九谷以来の透明感の和絵の具とは違った趣を見せています。もちろんこの絵の具だけで松山窯の作品と判断することはできませんし、その作行からの判断はある程度感覚的なものが必要です。



松山窯の青手の裏面は緑で塗り埋めて、渦雲、唐草、木の葉などで充填したものが多く、中には枇杷(ビワ)などを描いて、家運隆盛を願う思いがこめられた作品があります。裏銘には「九谷」「九谷製」「永楽」「貴」「大日本九谷製」「大明成化年製」などが多くの銘がありますが、初期の作品は古九谷と同様に「福」が多いようです。

下記の写真のように両作品の裏面にも共通した作行が見られ、この2作品は同時期に製作されたのではないかと推察しています。




再興九谷 松山窯 青手窓絵八寸皿
誂箱
口径255~258*高台径*高さ62



松山窯の生い立ちは下記の記事のとおりですが、ポイントは「大聖寺藩が山代の九谷本窯(宮本屋窯を買収してできた窯で、永楽窯ともいわれた)に財政的支援を集中するため、松山窯の保護を止めてしまいました。こうしたことから、松山窯は民営に移り、木下直明らによって明治5年(1872)頃まで続けられたといわれます。」という点でしょう。

優れた作品が生まれたのは藩の保護のあった時代で、多くの作品を観ると同じ窯で作ったものとは思えないほど下卑た作品があるのは民営になってからではないかと思われます。

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松山窯の盛衰:松山窯は、嘉永元年(1848)、大聖寺藩が山本彦左衛門に命じて江沼郡松山村(現加賀市松山町)に興した窯です。その前年から小松の蓮代寺窯で青手古九谷の再現の取り組んでいた松屋菊三郎、粟生屋源右衛門らがこの窯に招かれました。素地は藩内の九谷村・吸坂村・勅使村などの陶石土を使って作られたもので、主として藩の贈答品として古九谷青手系の作品が作られました。

昭和54-55年の窯跡の発掘調査では、登窯2基・平窯1基・色絵窯1基とその基礎と焼土・工房跡1棟・工房内の轆轤心石3基、そして、ものはら2箇所が発掘されました。江戸時代のものはらからは、染付・白磁・青磁などの磁器と色絵、陶器・素焼などが出土しました。

大聖寺藩は、赤絵が加賀一帯で江戸の後期から末期にかけて大いに隆盛となる中、次第に青手古九谷や吉田屋窯の青手のような青色系の磁器が焼かれなくなってきたため、青九谷を再現させようとしたことから始めました。このため、当時、松山村の人はこの窯を「松山の御上窯」(藩公直営の窯の意味)と呼んだといわれます。しかしながら、源右衛門が文久3年(1863年)に歿し、菊三郎が蓮代寺窯の経営に傾注せざるをなくなり、また、大聖寺藩が山代の九谷本窯(宮本屋窯を買収してできた窯で、永楽窯ともいわれた)に財政的支援を集中するため、松山窯の保護を止めてしまいました。こうしたことから、松山窯は民営に移り、木下直明らによって明治5年(1872)頃まで続けられたといわれます。

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作品は虹彩を発するものが多く、図案においてもある程度教養の高い人たちには分かる図案や文様が描かれています。本日の作品も扇型の窓絵や角形の窓絵に描かれています。些細なところかもしれませんが、当時の作品としては着想力の豊かさを感じさせます。

藩の保護になっていた頃には優秀な絵付け師がいたと思われます。



松山窯の作品には山水画が多いのですが、山水画にも遠景、中景、近景を表現して実景に近づこうとする描写がうかがわれます。絵画を勉強した絵師(菊三郎かその指導を受けた者か)がいて、同じような山水画を描くにあたってもその時代の風潮とか傾向とか好みとかいうものをきっちと嗅ぎ分けて、確実に作品の中に表わしていることがわかります。

民窯に移行してからの作品は山水画が多いのですが、優秀な絵師の面影はなくなり、絵が稚拙過ぎて見るべきところは皆無となってしまっています。この極端な違いが松山窯の評価を大きく下げてしまっています。明治期の松山窯は評価に値しない作品が多いと思います。



古九谷、再興九谷吉田屋窯、そして松山窯といった区分はある程度覚えていると江戸期の九谷鑑賞がの幅が広がると思われます。当方も今まではなんとなくもやもやしていいましたが、少しずつ作品と触れていて少し理解できたようです。



上記の3作品は当方で蒐集した松山窯の作品ですが、数多い古九谷や再興九谷と称する作品の中からこの程度の作品を探し出すのは意外に難しいものです。安易に古九谷の模倣作品や明治期の稚拙な作品(再興九谷の作品も含む)を古九谷や再興九谷とは混同しないようにしたいものです。



























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