退院した小生を待ち構えていたのは遊び盛りの我が息子・・・。ドラッグストアで早速ねだられたのは拳銃のおもちゃ。
ただ撃つのはつまらないと自分で的を工夫したようです。これはえらい!
的に当てたのを動画に撮り、これをスローで再生するという・・、さらに逆スローで再生・・。これは家内がやり、息子と大喜び
さて我が郷里の画家、寺崎廣業の作品の当方の所蔵については、各時期をまんべんなく蒐集し100作品ほどになりました。これからは厳選した作品にのみ蒐集対象としていこうとしていますが、本作品は寺崎廣業と漢詩人「小野湖山」の関連を示す作品として貴重であるため入手した作品です。
老松垂蔦図 寺崎廣業筆 明治33(1900年)年頃
絹本水墨軸装 軸先木製 識箱
全体サイズ:縦1730*横475 画サイズ:縦990*横355
小野湖山と寺崎廣業との関連では下記の史実があります。明治34年5月に自宅の床の間の壁際から筍が芽を出し、これに因んで漢詩人小野湖山から画室名「騰竜軒」、別名「天籟山人」をもらい、1901年(明治34年)に画塾の名称も宗山画塾を「天籟画塾」と改称しています。ことから寺崎廣業と小野湖山とは深い親交があったことが窺えます。
本作品は「二本廣業」の落款や印章から明治30年前後の作と推定されます。この頃の作品には多作になる前なのか、佳作が多い時期です。
箱の書付や巻止には寺崎廣業と小野湖山の関連性を示す記述はなく、唯一落款部分に「祝 湖山先生長壽 廣業 押印」とあるのみですが、自宅(画室名)「騰竜軒」、別号「天籟山人」を賜った御礼に描いた作品と推察してます。
箱書:「廣業畫伯古松垂蔦 □□其之三」
箱裏:「寺崎是先子之□□大正二季之□□□改装製□遂題 不□国弘」
巻止:「廣業畫伯古松垂蔦」
小野湖山の来歴は下記のとおりです。
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小野 湖山:(おの こざん)文化11年1月12日(1814年3月3日) - 1910年(明治43年)4月10日)は、幕末から明治時代の漢詩人。名は長愿・字は舒公、通称は仙助・侗之助、別号に玉池仙史と称した。大沼枕山、鱸松塘とともに、明治の三詩人と称された。近江国の生まれ。
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本作品を明治34年(1901年)に描いたとすると、小野湖山は87歳に頃ですね。当時はかなりの長寿と言えるでしょう。
詳細の来歴は下記のとおりです。
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補足
文化11年1月12日(1814年3月3日)、三河吉田藩領であった近江国浅井郡高畑村(現滋賀県長浜市高畑町)に、医師・横山玄篤(東湖)の長子として生まれた。横山家は加賀藩家老横山党と同族で平安時代前期の公卿・小野篁の後裔と伝えられ、後に小野へ改姓した。
当初家業を継ぐべく彦根藩医に医術を学ぶが、本人の好む所でなかったことから、近村の儒者・大岡右仲(松堂)に経書史書を学び、文政9年(1826年)に父と共に京都において頼山陽に面謁し朱子学漢詩を学ぶことを決意した。
天保元年(1830年)、九州への漫遊の途上彦根に立ち寄った梁川星巌に会し入門を許され、翌年江戸に向かい、尾藤水竹・藤森弘庵・林大学頭に師事し、梁川星巌が起こした玉池吟社の社友となり頭角を現した。
江戸において生地の領主である松平信古の求めに応じ三河吉田藩儒者となり藩政に関与、後に正式に藩士(60石取り)に取り立てられた。
天保9年(1839年)、水戸に出遊し、藤田東湖・武田耕雲斎と交友し徳川斉昭と面閲を得て、勤皇の念を篤くし、師・梁川星巌、頼三樹三郎、藤森天山、勝野台山等と共に国事に奔走していたところ、安政の大獄が起こり吉田藩は湖山の身を守るため敢えて吉田城内に幽閉した。
桜田門外の変後、幽閉を解かれた湖山は吉田に留まり藩政に関与し、後に京二条家より招かれると藩主と共に上京、朝廷より国事掛に命じられ、幕末より勤皇の士として巖谷一六等と奔走した。
明治維新後は従五位に叙せられ、新政府の総裁局権参事・記録局主任となったが、明治6年(1873年)の廃藩置県の後、家督を子息に譲り、東京で詩酒自適の生活を送った。その間、政府の再要請を固辞し、詩壇の重鎮として詩作を続けた。
明治16年(1883年)、明治天皇より硯を賜り、感激して書斎を賜硯楼と名付けた。
明治43年(1910年)4月10日、太東岬の別宅において老衰により死去。享年97。
湖山は少壮より経世の志し有り詩を以って家名の有ることを欲せず。詩は豪胆淡雅・格調が高いと評されている。
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小野湖山は「少壮より経世の志し有り詩を以って家名の有ることを欲せず。詩は豪胆淡雅・格調が高いと評されている。」という人物のようですが、独立採算的な自分の利しか考えない輩の多い現代ではこのような人物は少なくなりました。
*ところで川合玉堂の明治33年の作の当方の所蔵作品「清潭香魚図」の巻き止めに「「庚子(かのえね、こうし)六月為諭吉 欸冬鮎図 玉堂筆 小湖誌」とあります。同じ時期に寺崎廣業、福沢諭吉、川合玉堂らが小野湖山と関わっていることになります。
**さて、自宅の床の間の壁際から筍が芽を出し、これに因んで漢詩人小野湖山から自宅(画室名)「騰竜軒」、別号「天籟山人」、画塾「天籟画塾」としてとありますが、どういうことでしょうか?? なにか有名な漢詩と関連があるのかな??? このことは今少し時間をかけて調べてみたいと思います。
遊びはいろいろと考えて調べるのが面白い、幾つになっても同じようです。
ところで寺崎廣業の鳥谷幡山鑑定箱入の同程度の作品がネットオークションで10万円以上で落札していました。ん~、評価が上がった?? 資料価値的にはこちらの方が高い作品です。
ただ撃つのはつまらないと自分で的を工夫したようです。これはえらい!
的に当てたのを動画に撮り、これをスローで再生するという・・、さらに逆スローで再生・・。これは家内がやり、息子と大喜び
さて我が郷里の画家、寺崎廣業の作品の当方の所蔵については、各時期をまんべんなく蒐集し100作品ほどになりました。これからは厳選した作品にのみ蒐集対象としていこうとしていますが、本作品は寺崎廣業と漢詩人「小野湖山」の関連を示す作品として貴重であるため入手した作品です。
老松垂蔦図 寺崎廣業筆 明治33(1900年)年頃
絹本水墨軸装 軸先木製 識箱
全体サイズ:縦1730*横475 画サイズ:縦990*横355
小野湖山と寺崎廣業との関連では下記の史実があります。明治34年5月に自宅の床の間の壁際から筍が芽を出し、これに因んで漢詩人小野湖山から画室名「騰竜軒」、別名「天籟山人」をもらい、1901年(明治34年)に画塾の名称も宗山画塾を「天籟画塾」と改称しています。ことから寺崎廣業と小野湖山とは深い親交があったことが窺えます。
本作品は「二本廣業」の落款や印章から明治30年前後の作と推定されます。この頃の作品には多作になる前なのか、佳作が多い時期です。
箱の書付や巻止には寺崎廣業と小野湖山の関連性を示す記述はなく、唯一落款部分に「祝 湖山先生長壽 廣業 押印」とあるのみですが、自宅(画室名)「騰竜軒」、別号「天籟山人」を賜った御礼に描いた作品と推察してます。
箱書:「廣業畫伯古松垂蔦 □□其之三」
箱裏:「寺崎是先子之□□大正二季之□□□改装製□遂題 不□国弘」
巻止:「廣業畫伯古松垂蔦」
小野湖山の来歴は下記のとおりです。
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小野 湖山:(おの こざん)文化11年1月12日(1814年3月3日) - 1910年(明治43年)4月10日)は、幕末から明治時代の漢詩人。名は長愿・字は舒公、通称は仙助・侗之助、別号に玉池仙史と称した。大沼枕山、鱸松塘とともに、明治の三詩人と称された。近江国の生まれ。
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本作品を明治34年(1901年)に描いたとすると、小野湖山は87歳に頃ですね。当時はかなりの長寿と言えるでしょう。
詳細の来歴は下記のとおりです。
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補足
文化11年1月12日(1814年3月3日)、三河吉田藩領であった近江国浅井郡高畑村(現滋賀県長浜市高畑町)に、医師・横山玄篤(東湖)の長子として生まれた。横山家は加賀藩家老横山党と同族で平安時代前期の公卿・小野篁の後裔と伝えられ、後に小野へ改姓した。
当初家業を継ぐべく彦根藩医に医術を学ぶが、本人の好む所でなかったことから、近村の儒者・大岡右仲(松堂)に経書史書を学び、文政9年(1826年)に父と共に京都において頼山陽に面謁し朱子学漢詩を学ぶことを決意した。
天保元年(1830年)、九州への漫遊の途上彦根に立ち寄った梁川星巌に会し入門を許され、翌年江戸に向かい、尾藤水竹・藤森弘庵・林大学頭に師事し、梁川星巌が起こした玉池吟社の社友となり頭角を現した。
江戸において生地の領主である松平信古の求めに応じ三河吉田藩儒者となり藩政に関与、後に正式に藩士(60石取り)に取り立てられた。
天保9年(1839年)、水戸に出遊し、藤田東湖・武田耕雲斎と交友し徳川斉昭と面閲を得て、勤皇の念を篤くし、師・梁川星巌、頼三樹三郎、藤森天山、勝野台山等と共に国事に奔走していたところ、安政の大獄が起こり吉田藩は湖山の身を守るため敢えて吉田城内に幽閉した。
桜田門外の変後、幽閉を解かれた湖山は吉田に留まり藩政に関与し、後に京二条家より招かれると藩主と共に上京、朝廷より国事掛に命じられ、幕末より勤皇の士として巖谷一六等と奔走した。
明治維新後は従五位に叙せられ、新政府の総裁局権参事・記録局主任となったが、明治6年(1873年)の廃藩置県の後、家督を子息に譲り、東京で詩酒自適の生活を送った。その間、政府の再要請を固辞し、詩壇の重鎮として詩作を続けた。
明治16年(1883年)、明治天皇より硯を賜り、感激して書斎を賜硯楼と名付けた。
明治43年(1910年)4月10日、太東岬の別宅において老衰により死去。享年97。
湖山は少壮より経世の志し有り詩を以って家名の有ることを欲せず。詩は豪胆淡雅・格調が高いと評されている。
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小野湖山は「少壮より経世の志し有り詩を以って家名の有ることを欲せず。詩は豪胆淡雅・格調が高いと評されている。」という人物のようですが、独立採算的な自分の利しか考えない輩の多い現代ではこのような人物は少なくなりました。
*ところで川合玉堂の明治33年の作の当方の所蔵作品「清潭香魚図」の巻き止めに「「庚子(かのえね、こうし)六月為諭吉 欸冬鮎図 玉堂筆 小湖誌」とあります。同じ時期に寺崎廣業、福沢諭吉、川合玉堂らが小野湖山と関わっていることになります。
**さて、自宅の床の間の壁際から筍が芽を出し、これに因んで漢詩人小野湖山から自宅(画室名)「騰竜軒」、別号「天籟山人」、画塾「天籟画塾」としてとありますが、どういうことでしょうか?? なにか有名な漢詩と関連があるのかな??? このことは今少し時間をかけて調べてみたいと思います。
遊びはいろいろと考えて調べるのが面白い、幾つになっても同じようです。
ところで寺崎廣業の鳥谷幡山鑑定箱入の同程度の作品がネットオークションで10万円以上で落札していました。ん~、評価が上がった?? 資料価値的にはこちらの方が高い作品です。