陶磁器の作品の多さには枚挙のいとまがない。小生のように陶磁器蒐集をしている者でさえ未知の分野の陶磁器群はたくさんあります。そのひとつに萬古焼があります。
今回は興味本位で入手した作品をもとにほんの少し萬古焼について調べてみました。
萬古焼 石榴文盃洗
合箱入
口径*高さ*高台径
萬古焼は簡単に記述すると下記のような記事の焼き物のようです。
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萬古焼(ばんこやき、万古焼):陶磁器・焼き物の一つで、葉長石(ペタライト)を使用して耐熱性に優れた特徴を持つ。陶器と磁器の間の性質を持つ半磁器(炻器)に分類される。三重県四日市市の代表的な地場産業であり、1979年(昭和54年)1月12日から伝統工芸品に指定されている。その耐熱性の特長を活かした紫泥の急須や土鍋が有名であり、特に土鍋の国内シェアは、7、8割を占めると言われている。また、豚を模った蚊遣器「蚊遣豚」でも有名である。四日市市内の橋北地区と海蔵地区で萬古焼が盛んである。四日市市指定無形文化財。
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要は急須や土瓶で有名な焼き物? 歴史は古いようです。なんでも鑑定団に最近出品された森有節の作品は再興萬古焼で「桑名萬古焼」に分類されるようです。
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桑名の豪商沼波弄山(ぬなみろうざん)が、元文年間(1736年〜1740年)に朝明郡小向(あさけぐん おぶけ、現在の三重郡朝日町小向)で創始。弄山が、自身の作品に「萬古」または「萬古不易」の印を押したのが、名前の由来である。(弄山の時代の作品は、現代では古萬古と呼ばれる)
弄山の没後、一時途絶えるものの、天保年間(1830年〜1843年)に森有節(本名は与五左衛門)らによって再興された(桑名萬古焼)。また、射和村の竹川竹斎は射和萬古を、弄山の弟子の沼波瑞牙が津で安東焼(後の阿漕焼)を興した。四日市萬古焼は山中忠左衛門の尽力によって興り、阿倉川や末広に最初の窯が建った。
明治時代には山中忠左衛門らによって洋皿やコーヒーカップ等の洋食器の研究や地域住民への製作指導、海外輸出も行われるようになった。陶土として使っていた四日市の土は赤土であり、輸出向けの白地の食器を作ることが困難であったため、日本各地から陶土・陶石を移入して対応した。
昭和に入る頃には日本国内から萬古焼の陶土に適した土がなくなってしまったが、国産振興四日市大博覧会を通して朝鮮に適した陶土があることが分かり、取引の具体化が始まった。
輸出の最盛期であった1980年(昭和55年)には出荷額が202億円に上ったが、1998年(平成10年)には85億円まで落ち込んだ。一方国内向けの出荷額はほぼ横ばいを続けている。2016年(平成28年)5月26日から5月27日にかけて開催された第42回先進国首脳会議(伊勢志摩サミット)では、萬古焼の盃が首脳陣の乾杯の際に使用された。
市内陶栄町には萬古神社が築かれ、森や山中の記念碑が建てられている。また5月第2週の土日には萬古祭りが開かれ、様々な陶器が売られている。
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歴史を詳しく調べていくと下記の記事がありました。
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室町時代に、楽市楽座の自由商業都市として栄えた桑名の有力な回船問屋沼波家[ぬなみけ]は、陶器専属の問屋で、当時茶碗として有名だった伊勢天目を扱った。その沼波家が江戸時代に作り始めたのが萬古焼である。屋号の萬古屋から命名した「萬古」「萬古不易[ばんこふえき]」の名は、何時の世までも栄える優れた焼き物という意味であり、伝統は現在に受け継がれている。特に、数の少ない萬古焼は超人気があります。
沼波家の跡取りとして享保三年(一七一八)に生まれた五左衛門弄山[ろうざん]は、幼いころから茶道に精進した茶人で、その茶趣味が嵩じて朝日町小向[おぶけ]に萬古焼を開窯したのは元文年間(一七三四~四〇)のことである。陶法は、京焼技法に習い、特に尾形乾山に多くを学んだ。内外の茶碗の写し物をはじめ、華麗な色絵を主体とした優美な作品を生み出した。これらの作品を古萬古と呼ぶ。
弄山によって始まった萬古焼は、陶器問屋沼波家の今川橋詰にあった江戸店で売り出された。当時の焼き物の中にあって際立った斬新さの古萬古は、有産階級や知識人の間で人気が上がり、遂に将軍家からの注文を受けることになると、江戸小梅の地に窯を設け、宝歴年間(一七五一~六三)には、弄山夫婦も江戸に移った。これを江戸萬古という。
はじめ有名茶陶の写しものから出発した古萬古は、上絵付けによる赤絵ものに特色を発揮した。当時は、八代将軍吉宗による洋書解禁の令によって、入ってきた蘭書による蘭学の広がりをみた時期があった。平賀源内を代表とする当時の知識人は、競って外国の文物に憧れていた。弄山も同様の知識人で、オランダや異国の風物を描いたり、作品の形に工夫を凝らした。
古萬古の優品は、上絵の具による赤絵ものに多い。図柄のベースは、更紗模様である。更紗とは、外国より入ってきた染物のことで、当時のファッションであった。更紗柄の中に支那風景、麒麟、飛龍などの想像の動物を描き、オランダの銅版画を写したライオン、象、オウムなどの絵やオランダ文字を配した作品もある。透明な絵具による異国情緒の世界だ。
古萬古は、「萬古[ばんこ]」「萬古不易[ばんこふえき]」の印を押したが、それは沼波家の屋号に俳聖芭蕉の「不易流行」の考えを加味したものである。萬古印は、裸のものと小判型のものの大小があって、字体が微妙に異なる。全て楷書である。他に異形の篆書体のものがあり、茶陶の写し物に多く用いている。原則として、古萬古は有印であるが、中に無印のものも存在する。
古萬古が後継者のないままに廃絶してから、三〇数年後、桑名の古物商森有節、千秋の兄弟によって、古萬古ゆかりの朝日町小向で再興された。手器用な兄弟の工芸的手腕を見込んで、弄山の子孫が勧めた為と伝えられる。兄の有節は木工を得意とし、弟の千秋は発明工夫の天才であった。兄弟の協力によって天保二年に築窯し翌年(一八三二)に開窯した。
*なんでも鑑定団に出品された森有節の作品は下記の写真です。
「なんでも鑑定団の評:初代森有節の作品に間違いない。たいへん趣があり、かつ珍しいのは楽家九代了入の黒楽を写した黒楽茶碗。了入は箆使いの名手だが、それをあえて手捏ねだけで立ち上げて写している。ふっくらとして大らか。高台の見込みに了入の晩年の隠居印が押してある。これだけだと了入と間違えるため、茶碗の中の見込みに萬古の小さい判が押してある。実に真面目で演出が巧み。真ん中は普遍的な萬古の鉢。外側を飛翔する鶴、中にひっそりと咲く蘭、動と静の対比が見事にこもっている。水指は萬古特有のふっくらとした感じに盛り上げの絵が良い。この絵付の命は葉の影にある南天の赤い実2つ。この赤い実がきゅっと締めている。それぞれ「摘山堂 萬古有節」と書いてある。おそらく明治時代の二代有節の筆。共箱に準じると考えてよい。萬古は散逸しているため、名器が3点揃うというのは珍しい。」
古萬古の時代に比べて、世情は大きく変わりつつあった。抹茶趣味に代わって煎茶が流行し、外国憧憬より国粋を尊ぶ国学が盛んとなった。それに応える為に、華麗な粉彩による大和絵の絵付けと、煎茶に必要な急須を木型で成型する法を考案して、東海道の旅人の土産物として売り出した。その特異性は大人気となり繁盛した。桑名藩主はこれを保護奨励した。
急須作りに、有節は得意な木工の技を駆使して、提灯作りの木枠からヒントを得た精巧な内型を作った。心棒と八枚に分解するこの型に、棒で伸ばした薄い土を貼り付けて成形する。型に刻まれた竜の紋様が急須の内面に現われる考案は、意表を衝くものであった。一ケ所でないと外れない蓋、ぐるぐる回る蓋の摘み、取っ手の遊環などは千秋の考案である。
尾張の画家田中訥言の提唱した復古大和絵の妙手、帆山唯念が桑名にいた。花乃舎に学んだ兄弟は、大和絵の花鳥の絵を艶やかな粉彩絵の具で描いた。この絵の具は、不透明で、重ね塗りや盛絵ができる。そのベースは、白絵土による白である。これに顔料を点じて各種の色彩をだす。中でも金を原料とする腥臙脂釉のピンク色は、艶やかだ。
几帳面な有節は、自身で銘印を刻んだと伝えられる。素人ながら印は完璧である。古萬古の印を踏襲「萬古不易」丸型篆書の「萬古」があるが、字体が優しい。普通の「萬古」印は、裸印は少なく、中型の小判印を多用し、「摘山[てきざん]」「有節]「萬古有節」があり「日本有節」の印は、海外への発展を希求したものだ。千秋には別種の印がある。
有節の考案した木型成型の急須は、よく売れた。その秘密にしていた陶法が、桑名の木型師佐藤久米造に漏れると、それを模倣追随した沢山の有節亜流の陶芸家が桑名周辺に現われて売り出した。中には有節萬古と一味違うたたみ作り、土型成型の精巧なものを作る者がいた。布山、孫三郎らである。幕末から明治初年にかけて、最も盛業であった。
古萬古の沼波家の姻戚にあたる南勢射和の経世家竹川竹斎が、安政三年(一八五六)に射和萬古を開窯した。彼は有節萬古の成功に目を付け、殖産事業にしようと、資力を注ぎ、井田吉六、奥田弥助、近藤勇、服部閑鵞らの名工を雇い入れての陶業であった。だが、製品は優れていたが、格別の特色がないために、目論見通りに捌けず、七年で廃窯となった。
古萬古の陶工良介が津の藤堂藩に招かれ、安東の地で古萬古の姉妹品に「古安東」を産み出したが、わずかで廃業した。これを惜しんだ津の油屋倉田久八が「再興安東」を始めたのは、嘉永六年(一八五三)のことである。射和萬古の職長もした信楽の陶工上島弥兵衛の協力を得た。後に「阿漕焼」と改名し、窯主が度々変わって現在に至る。
四日市には、有節萬古より前の文政一二年(一八二九年)に信楽焼風の雑器窯が東阿倉川唯福寺に始まっていた。海蔵庵窯という。後に、ここに来て焼き物の手ほどきを受けた末永の庄屋山中忠左衛門は、有節萬古に憧れていた。嘉永6年(1853)には、邸内に窯を築いて、有節萬古の研究に本腰を入れた。その20年に及ぶ苦労が四日市萬古の始まりである。
以下省略
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ともかく歴史は長い 解ったようでよく解らない分野のようです。
当方で紹介している作品がどの製作時期なのかがよくわかりません。
よってブログの題も「氏素性の解らぬ」とさせていただきました。
見込みの絵柄も桃? 石榴? と不明です。
ただこの枯淡のようなたたずまいが気に入っています。どうも萬古焼の化粧臭いような色合いの作品は正直なところ好きにはなれないところがあります。
高台の底には「萬古」の印がありますが、この印からも時代の判明は当方には資料がなくよく解っていません。
形からは盃洗と思われますが、萬古焼の盃洗は数が少ないようです。はたしてこの作品はどの時代でどのような価値があるものでのでしょうか?
今回は興味本位で入手した作品をもとにほんの少し萬古焼について調べてみました。
萬古焼 石榴文盃洗
合箱入
口径*高さ*高台径
萬古焼は簡単に記述すると下記のような記事の焼き物のようです。
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萬古焼(ばんこやき、万古焼):陶磁器・焼き物の一つで、葉長石(ペタライト)を使用して耐熱性に優れた特徴を持つ。陶器と磁器の間の性質を持つ半磁器(炻器)に分類される。三重県四日市市の代表的な地場産業であり、1979年(昭和54年)1月12日から伝統工芸品に指定されている。その耐熱性の特長を活かした紫泥の急須や土鍋が有名であり、特に土鍋の国内シェアは、7、8割を占めると言われている。また、豚を模った蚊遣器「蚊遣豚」でも有名である。四日市市内の橋北地区と海蔵地区で萬古焼が盛んである。四日市市指定無形文化財。
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要は急須や土瓶で有名な焼き物? 歴史は古いようです。なんでも鑑定団に最近出品された森有節の作品は再興萬古焼で「桑名萬古焼」に分類されるようです。
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桑名の豪商沼波弄山(ぬなみろうざん)が、元文年間(1736年〜1740年)に朝明郡小向(あさけぐん おぶけ、現在の三重郡朝日町小向)で創始。弄山が、自身の作品に「萬古」または「萬古不易」の印を押したのが、名前の由来である。(弄山の時代の作品は、現代では古萬古と呼ばれる)
弄山の没後、一時途絶えるものの、天保年間(1830年〜1843年)に森有節(本名は与五左衛門)らによって再興された(桑名萬古焼)。また、射和村の竹川竹斎は射和萬古を、弄山の弟子の沼波瑞牙が津で安東焼(後の阿漕焼)を興した。四日市萬古焼は山中忠左衛門の尽力によって興り、阿倉川や末広に最初の窯が建った。
明治時代には山中忠左衛門らによって洋皿やコーヒーカップ等の洋食器の研究や地域住民への製作指導、海外輸出も行われるようになった。陶土として使っていた四日市の土は赤土であり、輸出向けの白地の食器を作ることが困難であったため、日本各地から陶土・陶石を移入して対応した。
昭和に入る頃には日本国内から萬古焼の陶土に適した土がなくなってしまったが、国産振興四日市大博覧会を通して朝鮮に適した陶土があることが分かり、取引の具体化が始まった。
輸出の最盛期であった1980年(昭和55年)には出荷額が202億円に上ったが、1998年(平成10年)には85億円まで落ち込んだ。一方国内向けの出荷額はほぼ横ばいを続けている。2016年(平成28年)5月26日から5月27日にかけて開催された第42回先進国首脳会議(伊勢志摩サミット)では、萬古焼の盃が首脳陣の乾杯の際に使用された。
市内陶栄町には萬古神社が築かれ、森や山中の記念碑が建てられている。また5月第2週の土日には萬古祭りが開かれ、様々な陶器が売られている。
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歴史を詳しく調べていくと下記の記事がありました。
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室町時代に、楽市楽座の自由商業都市として栄えた桑名の有力な回船問屋沼波家[ぬなみけ]は、陶器専属の問屋で、当時茶碗として有名だった伊勢天目を扱った。その沼波家が江戸時代に作り始めたのが萬古焼である。屋号の萬古屋から命名した「萬古」「萬古不易[ばんこふえき]」の名は、何時の世までも栄える優れた焼き物という意味であり、伝統は現在に受け継がれている。特に、数の少ない萬古焼は超人気があります。
沼波家の跡取りとして享保三年(一七一八)に生まれた五左衛門弄山[ろうざん]は、幼いころから茶道に精進した茶人で、その茶趣味が嵩じて朝日町小向[おぶけ]に萬古焼を開窯したのは元文年間(一七三四~四〇)のことである。陶法は、京焼技法に習い、特に尾形乾山に多くを学んだ。内外の茶碗の写し物をはじめ、華麗な色絵を主体とした優美な作品を生み出した。これらの作品を古萬古と呼ぶ。
弄山によって始まった萬古焼は、陶器問屋沼波家の今川橋詰にあった江戸店で売り出された。当時の焼き物の中にあって際立った斬新さの古萬古は、有産階級や知識人の間で人気が上がり、遂に将軍家からの注文を受けることになると、江戸小梅の地に窯を設け、宝歴年間(一七五一~六三)には、弄山夫婦も江戸に移った。これを江戸萬古という。
はじめ有名茶陶の写しものから出発した古萬古は、上絵付けによる赤絵ものに特色を発揮した。当時は、八代将軍吉宗による洋書解禁の令によって、入ってきた蘭書による蘭学の広がりをみた時期があった。平賀源内を代表とする当時の知識人は、競って外国の文物に憧れていた。弄山も同様の知識人で、オランダや異国の風物を描いたり、作品の形に工夫を凝らした。
古萬古の優品は、上絵の具による赤絵ものに多い。図柄のベースは、更紗模様である。更紗とは、外国より入ってきた染物のことで、当時のファッションであった。更紗柄の中に支那風景、麒麟、飛龍などの想像の動物を描き、オランダの銅版画を写したライオン、象、オウムなどの絵やオランダ文字を配した作品もある。透明な絵具による異国情緒の世界だ。
古萬古は、「萬古[ばんこ]」「萬古不易[ばんこふえき]」の印を押したが、それは沼波家の屋号に俳聖芭蕉の「不易流行」の考えを加味したものである。萬古印は、裸のものと小判型のものの大小があって、字体が微妙に異なる。全て楷書である。他に異形の篆書体のものがあり、茶陶の写し物に多く用いている。原則として、古萬古は有印であるが、中に無印のものも存在する。
古萬古が後継者のないままに廃絶してから、三〇数年後、桑名の古物商森有節、千秋の兄弟によって、古萬古ゆかりの朝日町小向で再興された。手器用な兄弟の工芸的手腕を見込んで、弄山の子孫が勧めた為と伝えられる。兄の有節は木工を得意とし、弟の千秋は発明工夫の天才であった。兄弟の協力によって天保二年に築窯し翌年(一八三二)に開窯した。
*なんでも鑑定団に出品された森有節の作品は下記の写真です。
「なんでも鑑定団の評:初代森有節の作品に間違いない。たいへん趣があり、かつ珍しいのは楽家九代了入の黒楽を写した黒楽茶碗。了入は箆使いの名手だが、それをあえて手捏ねだけで立ち上げて写している。ふっくらとして大らか。高台の見込みに了入の晩年の隠居印が押してある。これだけだと了入と間違えるため、茶碗の中の見込みに萬古の小さい判が押してある。実に真面目で演出が巧み。真ん中は普遍的な萬古の鉢。外側を飛翔する鶴、中にひっそりと咲く蘭、動と静の対比が見事にこもっている。水指は萬古特有のふっくらとした感じに盛り上げの絵が良い。この絵付の命は葉の影にある南天の赤い実2つ。この赤い実がきゅっと締めている。それぞれ「摘山堂 萬古有節」と書いてある。おそらく明治時代の二代有節の筆。共箱に準じると考えてよい。萬古は散逸しているため、名器が3点揃うというのは珍しい。」
古萬古の時代に比べて、世情は大きく変わりつつあった。抹茶趣味に代わって煎茶が流行し、外国憧憬より国粋を尊ぶ国学が盛んとなった。それに応える為に、華麗な粉彩による大和絵の絵付けと、煎茶に必要な急須を木型で成型する法を考案して、東海道の旅人の土産物として売り出した。その特異性は大人気となり繁盛した。桑名藩主はこれを保護奨励した。
急須作りに、有節は得意な木工の技を駆使して、提灯作りの木枠からヒントを得た精巧な内型を作った。心棒と八枚に分解するこの型に、棒で伸ばした薄い土を貼り付けて成形する。型に刻まれた竜の紋様が急須の内面に現われる考案は、意表を衝くものであった。一ケ所でないと外れない蓋、ぐるぐる回る蓋の摘み、取っ手の遊環などは千秋の考案である。
尾張の画家田中訥言の提唱した復古大和絵の妙手、帆山唯念が桑名にいた。花乃舎に学んだ兄弟は、大和絵の花鳥の絵を艶やかな粉彩絵の具で描いた。この絵の具は、不透明で、重ね塗りや盛絵ができる。そのベースは、白絵土による白である。これに顔料を点じて各種の色彩をだす。中でも金を原料とする腥臙脂釉のピンク色は、艶やかだ。
几帳面な有節は、自身で銘印を刻んだと伝えられる。素人ながら印は完璧である。古萬古の印を踏襲「萬古不易」丸型篆書の「萬古」があるが、字体が優しい。普通の「萬古」印は、裸印は少なく、中型の小判印を多用し、「摘山[てきざん]」「有節]「萬古有節」があり「日本有節」の印は、海外への発展を希求したものだ。千秋には別種の印がある。
有節の考案した木型成型の急須は、よく売れた。その秘密にしていた陶法が、桑名の木型師佐藤久米造に漏れると、それを模倣追随した沢山の有節亜流の陶芸家が桑名周辺に現われて売り出した。中には有節萬古と一味違うたたみ作り、土型成型の精巧なものを作る者がいた。布山、孫三郎らである。幕末から明治初年にかけて、最も盛業であった。
古萬古の沼波家の姻戚にあたる南勢射和の経世家竹川竹斎が、安政三年(一八五六)に射和萬古を開窯した。彼は有節萬古の成功に目を付け、殖産事業にしようと、資力を注ぎ、井田吉六、奥田弥助、近藤勇、服部閑鵞らの名工を雇い入れての陶業であった。だが、製品は優れていたが、格別の特色がないために、目論見通りに捌けず、七年で廃窯となった。
古萬古の陶工良介が津の藤堂藩に招かれ、安東の地で古萬古の姉妹品に「古安東」を産み出したが、わずかで廃業した。これを惜しんだ津の油屋倉田久八が「再興安東」を始めたのは、嘉永六年(一八五三)のことである。射和萬古の職長もした信楽の陶工上島弥兵衛の協力を得た。後に「阿漕焼」と改名し、窯主が度々変わって現在に至る。
四日市には、有節萬古より前の文政一二年(一八二九年)に信楽焼風の雑器窯が東阿倉川唯福寺に始まっていた。海蔵庵窯という。後に、ここに来て焼き物の手ほどきを受けた末永の庄屋山中忠左衛門は、有節萬古に憧れていた。嘉永6年(1853)には、邸内に窯を築いて、有節萬古の研究に本腰を入れた。その20年に及ぶ苦労が四日市萬古の始まりである。
以下省略
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ともかく歴史は長い 解ったようでよく解らない分野のようです。
当方で紹介している作品がどの製作時期なのかがよくわかりません。
よってブログの題も「氏素性の解らぬ」とさせていただきました。
見込みの絵柄も桃? 石榴? と不明です。
ただこの枯淡のようなたたずまいが気に入っています。どうも萬古焼の化粧臭いような色合いの作品は正直なところ好きにはなれないところがあります。
高台の底には「萬古」の印がありますが、この印からも時代の判明は当方には資料がなくよく解っていません。
形からは盃洗と思われますが、萬古焼の盃洗は数が少ないようです。はたしてこの作品はどの時代でどのような価値があるものでのでしょうか?