週末は家内と息子でプラレタリュームの組み立て・・。ちょっと難しい組み立てで一度挫折してからの再挑戦のようです。今度はうまく組み立てが完了し、寝る頃にはベッドもカーテン、天井も含めて息子の部屋全面が銀河世界となりました。写真では解りづらいですが、けっこうきれいで、息子はプラレタリュームの電気をつけたまま眠りについたようです。
さて本日は本ブログにて幾度か紹介している萬古焼の作品紹介です。
萬古焼 その4 色絵鶴香合 森有節作
共箱(有節2代目の書付?)
幅*奥行*高さ70
森 有節の陶歴は下記の通りです。
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森 有節:(もり ゆうせつ)1808年(文化5年)~ 1882年(明治15年)4月25日)。
日本の江戸末期の萬古焼の陶工職人家。萬古焼中興の祖。本名は与五左衛門。号は摘山堂。伊勢国桑名(現在の三重県桑名市田町)に生まれた。生涯の最初の時期に伊勢国桑名(三重県桑名市)で「松本屋」という古物屋を営む。江戸時代中期の元文年間(1736年~1740年)、伊勢国朝日小向に窯を開いた古い萬古焼(ばんこやき)の創始者であり桑名の豪商人・沼波弄山の遠縁に当たる山田彦右衛門から勧められ、古い萬古焼の発祥の土地の伊勢国朝日小向(地名になる)で有節の弟、与平(本名・千秋、号は陽楓軒)と共に江戸時代後期の1831年(天保2年)に萬古焼を再興した。有節萬古焼や朝日萬古焼と呼ばれた古い万古焼の製品と同様に名谷山の白土と赤土を使い古いタイプの萬古焼製品を模写作した。時代の流に合わせて煎茶器に生産の主流を変えて、上絵付も硬彩から軟彩へ変わり、粉彩・十錦手の上絵釉は艶やかで、金を原料とする鮮やかな桜色の森有節独特の腥臙脂釉の開発にも成功した。このピンクの発色は森有節が手掛ける萬古焼製品独特の製品であった。また急須や土瓶は木型を使った成形に特殊な木型を使用し、ある一定の大量生産を可能とし、薄作りや蓋の摘みのつくりにも新風を取り入れ、庶民など町人などの間で人気を博した。1867年(慶応3年)には国産陶器職取締役を任命された。1882年(明治15年)4月25日、没。享年75。作品には「万古」「日本有節」「万古有節」「千秋不易」などの印を用いた。
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→本作品の箱書には「陶器師 森有節 押印「有節」の二重丸印 「萬古不易」の角印」とあり初代森有節による箱書と推定されます。
*三代有節は、二代有節の長男俊夫が襲名。原料の調達が困難な時代にも、初代・二代の技術を忠実に守り作陶しています。昭和16年(1941)に57歳で没。印銘は底に枠無「有節」印を捺す。(下写真は鶴香合裏の初代の印)
森有節の陶歴の補足
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古萬古が後継者のないままに廃絶してから、三〇数年後、桑名の古物商森有節、千秋の兄弟によって、古萬古ゆかりの朝日町小向で再興された。手器用な兄弟の工芸的手腕を見込んで、弄山の子孫が勧めた為と伝えられる。兄の有節は木工を得意とし、弟の千秋は発明工夫の天才であった。兄弟の協力によって天保二年に築窯し翌年(一八三二)に開窯した。
古萬古の時代に比べて、世情は大きく変わりつつあった。抹茶趣味に代わって煎茶が流行し、外国憧憬より国粋を尊ぶ国学が盛んとなった。それに応える為に、華麗な粉彩による大和絵の絵付けと、煎茶に必要な急須を木型で成型する法を考案して、東海道の旅人の土産物として売り出した。その特異性は大人気となり繁盛した。桑名藩主はこれを保護奨励した。
急須作りに、有節は得意な木工の技を駆使して、提灯作りの木枠からヒントを得た精巧な内型を作った。心棒と八枚に分解するこの型に、棒で伸ばした薄い土を貼り付けて成形する。型に刻まれた竜の紋様が急須の内面に現われる考案は、意表を衝くものであった。一ケ所でないと外れない蓋、ぐるぐる回る蓋の摘み、取っ手の遊環などは千秋の考案である。
尾張の画家田中訥言の提唱した復古大和絵の妙手、帆山唯念が桑名にいた。花乃舎に学んだ兄弟は、大和絵の花鳥の絵を艶やかな粉彩絵の具で描いた。この絵の具は、不透明で、重ね塗りや盛絵ができる。そのベースは、白絵土による白である。これに顔料を点じて各種の色彩をだす。中でも金を原料とする腥臙脂釉のピンク色は、艶やかだ。
几帳面な有節は、自身で銘印を刻んだと伝えられる。素人ながら印は完璧である。古萬古の印を踏襲「萬古不易」丸型篆書の「萬古」があるが、字体が優しい。普通の「萬古」印は、裸印は少なく、中型の小判印を多用し、「摘山[てきざん]」「有節]「萬古有節」があり「日本有節」の印は、海外への発展を希求したものだ。千秋には別種の印がある。
有節の考案した木型成型の急須は、よく売れた。その秘密にしていた陶法が、桑名の木型師佐藤久米造に漏れると、それを模倣追随した沢山の有節亜流の陶芸家が桑名周辺に現われて売り出した。中には有節萬古と一味違うたたみ作り、土型成型の精巧なものを作る者がいた。布山、孫三郎らである。幕末から明治初年にかけて、最も盛業であった。
古萬古の沼波家の姻戚にあたる南勢射和の経世家竹川竹斎が、安政3年(1856年)に射和萬古を開窯した。彼は有節萬古の成功に目を付け、殖産事業にしようと、資力を注ぎ、井田吉六、奥田弥助、近藤勇、服部閑鵞らの名工を雇い入れての陶業であった。だが、製品は優れていたが、格別の特色がないために、目論見通りに捌けず、七年で廃窯となった。
古萬古の陶工良介が津の藤堂藩に招かれ、安東の地で古萬古の姉妹品に「古安東」を産み出したが、わずかで廃業した。これを惜しんだ津の油屋倉田久八が「再興安東」を始めたのは、嘉永6年(1853年)のことである。射和萬古の職長もした信楽の陶工上島弥兵衛の協力を得た。後に「阿漕焼」と改名し、窯主が度々変わって現在に至る。
四日市には、有節萬古より前の文政12年(1829年)に信楽焼風の雑器窯が東阿倉川唯福寺に始まっていた。海蔵庵窯という。後に、ここに来て焼き物の手ほどきを受けた末永の庄屋山中忠左衛門は、有節萬古に憧れていた。嘉永6年(1853年)には、邸内に窯を築いて、有節萬古の研究に本腰を入れた。その20年に及ぶ苦労が四日市萬古の始まりである。
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あまり馴染みのない萬古焼ですが、「なんでも鑑定団」にも出品されており、知ってい方も多くなっているかもしれませんね。
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参考作品 なんでも鑑定団出品作(2018年5月15日放送)
評価金額:300万円
評:初代森有節の作品に間違いない。たいへん趣があり、かつ珍しいのは楽家九代了入の黒楽を写した黒楽茶碗。了入は箆使いの名手だが、それをあえて手捏ねだけで立ち上げて写している。ふっくらとして大らか。高台の見込みに了入の晩年の隠居印が押してある。これだけだと了入と間違えるため、茶碗の中の見込みに萬古の小さい判が押してある。実に真面目で演出が巧み。
真ん中は普遍的な萬古の鉢。外側を飛翔する鶴、中にひっそりと咲く蘭、動と静の対比が見事にこもっている。
水指は萬古特有のふっくらとした感じに盛り上げの絵が良い。この絵付の命は葉の影にある南天の赤い実2つ。この赤い実がきゅっと締めている。それぞれ「摘山堂 萬古有節」と書いてある。おそらく明治時代の二代有節の筆。共箱に準じると考えてよい。
萬古は散逸しているため、名器が3点揃うというのは珍しい。
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さらに萬古焼の補足
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室町時代に、楽市楽座の自由商業都市として栄えた桑名の有力な回船問屋沼波家[ぬなみけ]は、陶器専属の問屋で、当時茶碗として有名だった伊勢天目を扱った。その沼波家が江戸時代に作り始めたのが萬古焼である。屋号の萬古屋から命名した「萬古」「萬古不易[ばんこふえき]」の名は、何時の世までも栄える優れた焼き物という意味であり、伝統は現在に受け継がれている。特に、数の少ない萬古焼は超人気があります。
沼波家の跡取りとして享保三年(一七一八)に生まれた五左衛門弄山[ろうざん]は、幼いころから茶道に精進した茶人で、その茶趣味が嵩じて朝日町小向[おぶけ]に萬古焼を開窯したのは元文年間(一七三四~四〇)のことである。陶法は、京焼技法に習い、特に尾形乾山に多くを学んだ。内外の茶碗の写し物をはじめ、華麗な色絵を主体とした優美な作品を生み出した。古萬古と呼ぶ。
弄山によって始まった萬古焼は、陶器問屋沼波家の今川橋詰にあった江戸店で売り出された。当時の焼き物の中にあって際立った斬新さの古萬古は、有産階級や知識人の間で人気が上がり、遂に将軍家からの注文を受けることになると、江戸小梅の地に窯を設け、宝歴年間(一七五一~六三)には、弄山夫婦も江戸に移った。これを江戸萬古という。
はじめ有名茶陶の写しものから出発した古萬古は、上絵付けによる赤絵ものに特色を発揮した。当時は、八代将軍吉宗による洋書解禁の令によって、入ってきた蘭書による蘭学の広がりをみた時期があった。平賀源内を代表とする当時の知識人は、競って外国の文物に憧れていた。弄山も同様の知識人で、オランダや異国の風物を描いたり、作品の形に工夫を凝らした。
古萬古の優品は、上絵の具による赤絵ものに多い。図柄のベースは、更紗模様である。更紗とは、外国より入ってきた染物のことで、当時のファッションであった。更紗柄の中に支那風景、麒麟、飛龍などの想像の動物を描き、オランダの銅版画を写したライオン、象、オウムなどの絵やオランダ文字を配した作品もある。透明な絵具による異国情緒の世界だ。
古萬古は、「萬古[ばんこ]」「萬古不易[ばんこふえき]」の印を押したが、それは沼波家の屋号に俳聖芭蕉の「不易流行」の考えを加味したものである。萬古印は、裸のものと小判型のものの大小があって、字体が微妙に異なる。全て楷書である。他に異形の篆書体のものがあり、茶陶の写し物に多く用いている。原則として、古萬古は有印であるが、中に無印のものも存在する。
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「鶴香合 摘山堂(初代有節の号)萬古有節造」(二代有節の書と推測されます。)
意外に多い鶴の形の香合・・。
展示室に飾って愉しんでます。
さて本日は今から名古屋ですが、連日の全国行脚、そして時には帰京後に会食とハードスケジュールが続いています。ブログに原稿をまとめる時間も取れない状態ですね。私の頭の中は銀河状態・・・。