昨日はザ・キャピトルホテル東急で会食・・満腹
本日は釧雲泉の浅絳(水墨の上に代緒色をかけた技法の山水画のことで、中国では元時代の文人画で行われ、日本でも江戸時代後期の南画家に使われた)による山水画です。
浅絳山水図 その3 釧雲泉筆
水墨紙本緞子軸装 軸先竹製 合箱
全体サイズ:縦1980*横637 画サイズ:縦1305*横530
印章は「□□居士」の白方印、「□□」の白方印が押印されており、賛「江山□雨 丙寅秋七月 雲泉樵人写」とあり、文化4年(1806年)の秋七月の作となる。江戸に在住し結婚したが、結婚生活はうまくいかず、越後へ旅に出た直後の作品と思われます。
良く描けていますが真贋は私には私には解りかねます。
釧雲泉も第3作目となりました。下の作品が過去2回の投稿作品です。
水墨山水図 釧雲泉筆水墨絹本緞子軸装 軸先七宝細工 箱書箱入
全体サイズ:縦1960*横647 画サイズ:縦1225*横494
水墨山水図 釧雲泉筆水墨淡彩紙本緞子軸装 軸先竹製 合箱
全体サイズ:縦1980*横637 画サイズ:縦1305*横530
私の南画のスタートは田能村直入の作品を骨董店で購入した時からです。その作品は又後日投稿したします。
池大雅、青木木米などの浅絳山水画はなかなかいいと思います。投稿した作品は機会があれば、後日撮影し直して投稿したいと思います。
左下には遊印があります。
釧雲泉(くしろうんせん):宝暦9年(1759年)~文化8年11月16日(1811年12月31日))は、江戸時代後期の文人画家である。旅に生き、酒をこよなく愛した孤高の画聖として知られる。江戸後期の南画家。備前、千々石に生まれ、幼少の頃より絵が好きであった。石に砂を塗り竹切れで絵を描いていたと言う。その石と称されているのが橘神社の「釧雲泉之碑」の横に据えてある大石である。幼少の頃、父に従って長崎に遊学し中国人について学問を受ける。絵が上手で山水画は殊のほか素晴らしかった。旅に生き、酒をこよなく愛した孤高の画聖として知られる。父の没後九州を振り出しに四国・中国・近畿・江戸・越後等諸国を巡り歩いた。酒をたしなみ、茶を好み、潔癖な性格で料理、洗濯は自ら行った。気性は几帳面である反面、はなはだ気むずかしく気に入らない客人とは口もきかなかったり、不快な言があると筆を投げ、杯を投げつけすぐに帰らせたと言う。金品のために絵を描くことはなかった。文化8年(1811年)、53歳にて出雲崎で客死。出雲崎浄邦寺山に埋葬された。号の雲泉は雲仙岳に因んだ。名を就、字を仲孚、通称 文平、別号に、魯堂、岱岳、六石、磊落居士(らいらいこじ)などがある。頼山陽、亀田鵬斎等と親交があった。
本日は釧雲泉の浅絳(水墨の上に代緒色をかけた技法の山水画のことで、中国では元時代の文人画で行われ、日本でも江戸時代後期の南画家に使われた)による山水画です。
浅絳山水図 その3 釧雲泉筆
水墨紙本緞子軸装 軸先竹製 合箱
全体サイズ:縦1980*横637 画サイズ:縦1305*横530
印章は「□□居士」の白方印、「□□」の白方印が押印されており、賛「江山□雨 丙寅秋七月 雲泉樵人写」とあり、文化4年(1806年)の秋七月の作となる。江戸に在住し結婚したが、結婚生活はうまくいかず、越後へ旅に出た直後の作品と思われます。
良く描けていますが真贋は私には私には解りかねます。
釧雲泉も第3作目となりました。下の作品が過去2回の投稿作品です。
水墨山水図 釧雲泉筆水墨絹本緞子軸装 軸先七宝細工 箱書箱入
全体サイズ:縦1960*横647 画サイズ:縦1225*横494
水墨山水図 釧雲泉筆水墨淡彩紙本緞子軸装 軸先竹製 合箱
全体サイズ:縦1980*横637 画サイズ:縦1305*横530
私の南画のスタートは田能村直入の作品を骨董店で購入した時からです。その作品は又後日投稿したします。
池大雅、青木木米などの浅絳山水画はなかなかいいと思います。投稿した作品は機会があれば、後日撮影し直して投稿したいと思います。
左下には遊印があります。
釧雲泉(くしろうんせん):宝暦9年(1759年)~文化8年11月16日(1811年12月31日))は、江戸時代後期の文人画家である。旅に生き、酒をこよなく愛した孤高の画聖として知られる。江戸後期の南画家。備前、千々石に生まれ、幼少の頃より絵が好きであった。石に砂を塗り竹切れで絵を描いていたと言う。その石と称されているのが橘神社の「釧雲泉之碑」の横に据えてある大石である。幼少の頃、父に従って長崎に遊学し中国人について学問を受ける。絵が上手で山水画は殊のほか素晴らしかった。旅に生き、酒をこよなく愛した孤高の画聖として知られる。父の没後九州を振り出しに四国・中国・近畿・江戸・越後等諸国を巡り歩いた。酒をたしなみ、茶を好み、潔癖な性格で料理、洗濯は自ら行った。気性は几帳面である反面、はなはだ気むずかしく気に入らない客人とは口もきかなかったり、不快な言があると筆を投げ、杯を投げつけすぐに帰らせたと言う。金品のために絵を描くことはなかった。文化8年(1811年)、53歳にて出雲崎で客死。出雲崎浄邦寺山に埋葬された。号の雲泉は雲仙岳に因んだ。名を就、字を仲孚、通称 文平、別号に、魯堂、岱岳、六石、磊落居士(らいらいこじ)などがある。頼山陽、亀田鵬斎等と親交があった。
釧雲泉に興味を持ったのはここ1年位ですのでこちらはまだまだ不勉強であり、このようなコメントはたいへん勉強になります。
落款の字体から雲泉の真筆に間違いないと私は思います。
印のうち、上に押されている印は「六石居士」で、同一と思われる印は、翌年1807年に書かれた「小景山水」という遺墨集に収録されている作品にも押されています。この時期に使われた印と思われます。
絵の題名は「江山肅雨(しゅくう)」で、遺墨集に同時期に描かれた同題名の掛軸(構図は異なります)が収録されています。
1806年には、記事にあるように江戸から大窪詩仏と共に越後に出かけた時期で、恐らく秋には新潟に到着した頃と思われます(同年中秋の落款の作品には新潟県三条市に於いて描かれたと記載があるものがあります)。
ただ、記事にある結婚の件は、森銑三の記述からするとやや誤りがあります。この越後行きの後、江戸に戻ったあとに、三津という妻を娶り、その後の越後行きの際には妻と共に越後に向かったとあります。ただその際に、先の越後行きの時に現地に女を作っていたという事がわかり、妻は江戸に戻ったのでは、という推測がなされております。
長々と書いてすみませんでしたが、この作品は遺墨集の収録作品との対照を考えると興味深いものだと受け取っております。