骨董市では掛け軸が皆無となり、骨董店でも主体は陶磁器、日本画も額装のものが売買対象となっており、インターネットオークションでも出品されるものは贋作ばかりでめぼしいものが無くなり、掛け軸の需要はますます無くなっているようですが、やはりいいものはいいという作品の紹介です。
雪景山水図 天野方壷筆 その4(真作整理番号)
絖本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2030*横680 画サイズ:縦1460*横500
丁丑:1877年 明治10年。天野方壷は1824年生まれであるから54歳の頃に作となります。
「絖本」に描かれた力作となります。
「渓山積雪図」という作品が「思文閣 墨蹟資料目録「和の美」第475号 作品NO37」として掲載されていますが、その作品と同等の出来栄えかと思われます。
漢詩は難解でなんとか下記まで判読できましたが、これ以上は後学とせざるません。意味は?
天風夜撼玻璃國 四面沈々元気黒 □林
野□曙雞遠 世界江山盡瑶毛 山翁□檻
□蒼□ 一鳥不鳴山外□ 冷光十里断人跡
玉樹皜々横山門 渓寒沙□水煙□ 仙□
犯暁停夙□ 雪中忽□清冷橋 詩□老
玄憑誰寄
丁丑十月方壷寫
*印章は本ブログですでに紹介してある「鯉」・「四幅対の秋」と同一印章が押印されています。
天野方壷が師事した画家は本ブログでもお馴染みの画家が多いです。
「文人画家の中林竹洞や、書家としても有名な儒者の貫名海屋に学んだのち、関西から山陽山陰を経て九州四国まで数年にわたり西日本各地を歴遊し、勝景、奇景を写生したり古画書を模写したりして修行を続けました. 21歳のとき一旦は京都に戻り、日根対山に師事しましたが間もなく京都を発って関東へ旅行、江戸に至り、渡辺華山高弟の椿椿山に学んだあと、蝦夷地にまで行って海岸の勝景を写生しております。さらに、長崎で木下逸雲に学び、明治維新後、明治3年47歳の時には中国上海に渡航し、胡公寿にも師事しました。」という経歴があります。
また天野方壷と交際のあった文人画の巨匠、富岡鉄斎は、私的な筆録(メモ帳)の中で方壷のことを「画匠」と記していて、かなり高く評価していたことが窺えます。
幕末、明治の激動期、若くして郷里を飛び出し、京都に定住したとはいえ、中国並びに日本各地を絵筆一本で渡り歩き、旅先で没したいわば遍歴の画人であり、その詳細はわからない。だが、彼の遺墨は、県内はもとより全国各地に散在し、熱狂的な支持者により今も多く珍重・秘蔵されているとのことです。
俗塵を離れ、気宇広大で自在の境を行き、四条派の修練も経ているだけに確かな写実に裏付けられ、いわゆる文人画の域を脱し、本格的な専門画人であることを十分示している画力があります。中国で彼と同門の安田老山は、帰朝後東都の南画を風靡し、純中国風を鼓吹し「いやしくも和臭あるものは絵にあらず」といっているが、さすがに同門、俗塵離れをした方壷の作風は、当時南画の尖端を行く作家にふさわしい貫禄を示していると言えます。
一人の門弟ももたず、専らおのが画業に専念した画家です。その間、どれほど郷里に滞在し、どれだけの影響力を持ち得たのか。その点資料が乏しく推測の域を出ませんが、彼は、専ら作品により郷土人士の心をとらえ、今に残る多くの遺墨によっても、それを裏付けるに十分といえるでしょう。
歴遊を続け、明治28年旅先の岐阜で逝去しました。享年72歳でした。墓は京都市上賀茂の霊源寺にあります。
「瀧見観世音像図」、「鯉之図」、「春夏秋冬四幅」と本ブログで紹介してきましたが、天野方壷という画家はもっと評価されてよい画家の一人に相違ないでしょう。
旧蔵者などが箱に記されていますが詳細は良く解りません。
軽視され続けられた南画、そして現代では掛け軸自体が疎んじられる傾向にありますが、このような作品はもっと大切にされていくべきものでしょう。
雪景山水図 天野方壷筆 その4(真作整理番号)
絖本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2030*横680 画サイズ:縦1460*横500
丁丑:1877年 明治10年。天野方壷は1824年生まれであるから54歳の頃に作となります。
「絖本」に描かれた力作となります。
「渓山積雪図」という作品が「思文閣 墨蹟資料目録「和の美」第475号 作品NO37」として掲載されていますが、その作品と同等の出来栄えかと思われます。
漢詩は難解でなんとか下記まで判読できましたが、これ以上は後学とせざるません。意味は?
天風夜撼玻璃國 四面沈々元気黒 □林
野□曙雞遠 世界江山盡瑶毛 山翁□檻
□蒼□ 一鳥不鳴山外□ 冷光十里断人跡
玉樹皜々横山門 渓寒沙□水煙□ 仙□
犯暁停夙□ 雪中忽□清冷橋 詩□老
玄憑誰寄
丁丑十月方壷寫
*印章は本ブログですでに紹介してある「鯉」・「四幅対の秋」と同一印章が押印されています。
天野方壷が師事した画家は本ブログでもお馴染みの画家が多いです。
「文人画家の中林竹洞や、書家としても有名な儒者の貫名海屋に学んだのち、関西から山陽山陰を経て九州四国まで数年にわたり西日本各地を歴遊し、勝景、奇景を写生したり古画書を模写したりして修行を続けました. 21歳のとき一旦は京都に戻り、日根対山に師事しましたが間もなく京都を発って関東へ旅行、江戸に至り、渡辺華山高弟の椿椿山に学んだあと、蝦夷地にまで行って海岸の勝景を写生しております。さらに、長崎で木下逸雲に学び、明治維新後、明治3年47歳の時には中国上海に渡航し、胡公寿にも師事しました。」という経歴があります。
また天野方壷と交際のあった文人画の巨匠、富岡鉄斎は、私的な筆録(メモ帳)の中で方壷のことを「画匠」と記していて、かなり高く評価していたことが窺えます。
幕末、明治の激動期、若くして郷里を飛び出し、京都に定住したとはいえ、中国並びに日本各地を絵筆一本で渡り歩き、旅先で没したいわば遍歴の画人であり、その詳細はわからない。だが、彼の遺墨は、県内はもとより全国各地に散在し、熱狂的な支持者により今も多く珍重・秘蔵されているとのことです。
俗塵を離れ、気宇広大で自在の境を行き、四条派の修練も経ているだけに確かな写実に裏付けられ、いわゆる文人画の域を脱し、本格的な専門画人であることを十分示している画力があります。中国で彼と同門の安田老山は、帰朝後東都の南画を風靡し、純中国風を鼓吹し「いやしくも和臭あるものは絵にあらず」といっているが、さすがに同門、俗塵離れをした方壷の作風は、当時南画の尖端を行く作家にふさわしい貫禄を示していると言えます。
一人の門弟ももたず、専らおのが画業に専念した画家です。その間、どれほど郷里に滞在し、どれだけの影響力を持ち得たのか。その点資料が乏しく推測の域を出ませんが、彼は、専ら作品により郷土人士の心をとらえ、今に残る多くの遺墨によっても、それを裏付けるに十分といえるでしょう。
歴遊を続け、明治28年旅先の岐阜で逝去しました。享年72歳でした。墓は京都市上賀茂の霊源寺にあります。
「瀧見観世音像図」、「鯉之図」、「春夏秋冬四幅」と本ブログで紹介してきましたが、天野方壷という画家はもっと評価されてよい画家の一人に相違ないでしょう。
旧蔵者などが箱に記されていますが詳細は良く解りません。
軽視され続けられた南画、そして現代では掛け軸自体が疎んじられる傾向にありますが、このような作品はもっと大切にされていくべきものでしょう。