最近の週末は天気が良いと落花生の天日干しです。落花生は非常に手間のかかる穀物です。採れた後は選別、落花生の仕分け、天日干し、さらに仕分け、殻除去、仕分け、燻りとその手間たるや販売コストに合わないのである。野菜が高いと消費者は苦情を言うが、今の販売価格では維持できないのが農業の実態らしのようです。
さて、五月の節句でもないのに本日は「鐘馗」様の作品の紹介です。最近はとくに入手の難しい平福穂庵の作品です。
鐘馗図 平福穂庵筆 その12
紙本水墨軸装 軸先象牙 平福百穂鑑定箱
全体サイズ:横420*縦1940 画サイズ:横300*縦900
円山四条派の流れをくむ写生体で平福穂庵の魅力一杯の水墨作品。平福穂庵は、明治時代前半の日本画の混乱期に近代日本画の方向性を示した先駆者の一人であり、写生を重んじるその精神は、子の平福百穂に受け継がれていきます。そして、平福穂庵がつけた中央画壇への道筋を足掛かりに、寺崎広業や平福百穂がその才能を開花させたと言えるでしょう。
平福百穂が父である平福穂庵の鑑定をするかというと、これは非常に珍しい箱書です。他の作品の箱書と比較すると下の写真のようになります。珍しいですが、ないことはない鑑定箱書です。
このようなデータは蒐集したことによって積み重ねられてきます。
印章と落款は資料と比較すると下記のとおりです。今はデータさえあればすぐに検索して照合できるので便利ですが、あくまで写真データですので、幾つかの実物を比較しておく必要はあります。
ただし、資料にばかりかかりっきりでいても判断できるものではないように思います。
本ブログに幾度の投稿されいる寺崎廣業と平福穂庵の関係を述べます。寺崎廣業が鹿角の登記所に勤めていた22歳の明治21年、平福穂庵の勧めで寺崎廣業は 上京し、穂庵邸に寄宿するようになります。このときに寺崎廣業は力強く躍動する線やみずみずしい写生表現に、穂庵から大きく影響を受けています。
本作品と同じ画題の寺崎廣業が描いた「鐘馗図」の作品にそのことをうかがいしることができます。
落款からは明治20年代の寺崎廣業の作品と推測されます。この時期の作品で遺っている作品は非常に少ないと思われます。
本日の平福穂庵の作品と近似した描線といえます。
両作品を比較してみましょう。
穂庵は寺崎廣業の郷里での師である画家、小室怡々斎に遠慮して、寺崎廣業を客分として迎えたようです。
寺崎廣業は忙しい平福穂庵の仕事を手伝いながら学び、穂庵はまた口癖のように「古画を模倣せよ」と指導したと伝えられています。
しかし、平福穂庵の苦しい暮らしぶりを見て、5ヶ月の修行の後、再び寺崎廣業は遊歴の旅に出ています。その直後に寺崎廣業はもう一人の師である南画家の菅原白龍に出会っています。
*余談ですが、平福穂庵と菅原白龍は本ブログでお馴染みの渡辺省亭と親交のあった数少ない画家です。
平福穂庵から寺崎廣業、そして穂庵を父とする平福百穂とのつながりを理解する上でこれらの作品は非常に参考になります。ちなみに寺崎廣業とのライバルというと横山大観になりますね。
鍾馗図 伝横山大観筆
絹本着色軸装合箱(署名有)二重箱軸先鹿骨
全体サイズ:横505*縦2050 画サイズ:横373*縦1167
あくまでも「伝」です。お遊びで購入した作品ですが、自由奔放な描き方で出来はいいですね。
箱書から察すると、進呈作品としてどなたかに依頼されて描かれたように推察されますが・・。
初期の頃の落款と思われます。
現在は掛け軸の作品はインターネットオークションにて数千円で面白い作品が入手できます。下記の作品もまたインターネットオークションで入手した作品です。
江戸期くらいはありそう?
鐘馗図 無落款
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙加工 合箱タトウ
全体サイズ:横938*縦253 画サイズ:横193*縦253
軸は改装されています。
誰が描いたかはまったく不明ですが、昔から端午の節句にはどの家でも「鐘馗図」を飾ったのでしょう。
鍾馗は、主に中国の民間伝承に伝わる道教系の神であり、日本では、疱瘡除けや学業成就に効があるとされ、端午の節句に絵や人形を奉納したりしていました。また、鍾馗の図像は魔よけの効験があるとされ、旗、屏風、掛け軸として飾ったり、屋根の上に鍾馗の像を載せたりする風習が古くからあります。
一幅くらいは一軒の家に欲しい画題の作品であり、選ぶなら魔よけになる「効験あらたかな作品」がいいですね。
さて、五月の節句でもないのに本日は「鐘馗」様の作品の紹介です。最近はとくに入手の難しい平福穂庵の作品です。
鐘馗図 平福穂庵筆 その12
紙本水墨軸装 軸先象牙 平福百穂鑑定箱
全体サイズ:横420*縦1940 画サイズ:横300*縦900
円山四条派の流れをくむ写生体で平福穂庵の魅力一杯の水墨作品。平福穂庵は、明治時代前半の日本画の混乱期に近代日本画の方向性を示した先駆者の一人であり、写生を重んじるその精神は、子の平福百穂に受け継がれていきます。そして、平福穂庵がつけた中央画壇への道筋を足掛かりに、寺崎広業や平福百穂がその才能を開花させたと言えるでしょう。
平福百穂が父である平福穂庵の鑑定をするかというと、これは非常に珍しい箱書です。他の作品の箱書と比較すると下の写真のようになります。珍しいですが、ないことはない鑑定箱書です。
このようなデータは蒐集したことによって積み重ねられてきます。
印章と落款は資料と比較すると下記のとおりです。今はデータさえあればすぐに検索して照合できるので便利ですが、あくまで写真データですので、幾つかの実物を比較しておく必要はあります。
ただし、資料にばかりかかりっきりでいても判断できるものではないように思います。
本ブログに幾度の投稿されいる寺崎廣業と平福穂庵の関係を述べます。寺崎廣業が鹿角の登記所に勤めていた22歳の明治21年、平福穂庵の勧めで寺崎廣業は 上京し、穂庵邸に寄宿するようになります。このときに寺崎廣業は力強く躍動する線やみずみずしい写生表現に、穂庵から大きく影響を受けています。
本作品と同じ画題の寺崎廣業が描いた「鐘馗図」の作品にそのことをうかがいしることができます。
落款からは明治20年代の寺崎廣業の作品と推測されます。この時期の作品で遺っている作品は非常に少ないと思われます。
本日の平福穂庵の作品と近似した描線といえます。
両作品を比較してみましょう。
穂庵は寺崎廣業の郷里での師である画家、小室怡々斎に遠慮して、寺崎廣業を客分として迎えたようです。
寺崎廣業は忙しい平福穂庵の仕事を手伝いながら学び、穂庵はまた口癖のように「古画を模倣せよ」と指導したと伝えられています。
しかし、平福穂庵の苦しい暮らしぶりを見て、5ヶ月の修行の後、再び寺崎廣業は遊歴の旅に出ています。その直後に寺崎廣業はもう一人の師である南画家の菅原白龍に出会っています。
*余談ですが、平福穂庵と菅原白龍は本ブログでお馴染みの渡辺省亭と親交のあった数少ない画家です。
平福穂庵から寺崎廣業、そして穂庵を父とする平福百穂とのつながりを理解する上でこれらの作品は非常に参考になります。ちなみに寺崎廣業とのライバルというと横山大観になりますね。
鍾馗図 伝横山大観筆
絹本着色軸装合箱(署名有)二重箱軸先鹿骨
全体サイズ:横505*縦2050 画サイズ:横373*縦1167
あくまでも「伝」です。お遊びで購入した作品ですが、自由奔放な描き方で出来はいいですね。
箱書から察すると、進呈作品としてどなたかに依頼されて描かれたように推察されますが・・。
初期の頃の落款と思われます。
現在は掛け軸の作品はインターネットオークションにて数千円で面白い作品が入手できます。下記の作品もまたインターネットオークションで入手した作品です。
江戸期くらいはありそう?
鐘馗図 無落款
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙加工 合箱タトウ
全体サイズ:横938*縦253 画サイズ:横193*縦253
軸は改装されています。
誰が描いたかはまったく不明ですが、昔から端午の節句にはどの家でも「鐘馗図」を飾ったのでしょう。
鍾馗は、主に中国の民間伝承に伝わる道教系の神であり、日本では、疱瘡除けや学業成就に効があるとされ、端午の節句に絵や人形を奉納したりしていました。また、鍾馗の図像は魔よけの効験があるとされ、旗、屏風、掛け軸として飾ったり、屋根の上に鍾馗の像を載せたりする風習が古くからあります。
一幅くらいは一軒の家に欲しい画題の作品であり、選ぶなら魔よけになる「効験あらたかな作品」がいいですね。