家内が習っている茶道は遠州流ですので、遠州流に因んだ書をときおり家内が入手しています。今回も家内が「この書どう?」と聞いてきたので、「いいんじゃない・。」と回答したら、入手したようです。
五行一行書(鮎魚上竿頭) 小堀宗明筆 その3
水墨軸装 茶掛 共箱
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横*縦
書かれているのは「鮎魚上竿頭」らしい・・。「鮎魚」はどうもナマズのことらしい。調べてみると下記のような意味があるようです。
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鮎魚上竿頭:(鮎魚上竹竿とも)
「志有るも成らざる者なり。若し其の図はかりごとを壮さかんにして、龍門に一躍する則ときんば、其の志、或いは成ること有らんか。鮎よ鮎よ。勉旃つとめよ。「鮎魚(ナマズ)上竹竿とは、その志があっても成就できないことである。しかし、龍門の滝を登る鯉が龍と化するような壮大な企てをもってすれば、あるいは成就することもあろう。ナマズよ、努めるがよい」ということである。
*常識的に考えるならば、「鯉が龍に進化する」という俗説があると同じように「ナマズが竹(竿)に登るわけはないのだが、中国では古くは、ナマズは竹に登るという俗説があったとされます。
**「鮎魚上竹竿」という語には「上れない」「上れるが、いつまでかかるか分からない」「追いつけぬほどのスピードで上る」という三つの意味が混在しているようです。
***「鮎魚上竹竿」の語は禅録ではしばしば用いられ、その用例も豊富であるが、その意味するところは一義に集約できないとされます。
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「壮大な企てをもってすれば、あるいは成就することもあろう。」という意味でしょうか?
思い起こすのは吉田松陰の言葉ですが「夢なきところに理想なし 理想なきところに計画なし 計画なきところに実行なし 実行なきところに成功なし ゆえに夢なきところに成功なし」とか「大谷翔平の二刀流」ですね。「壮大な企て(ある意味で夢のような話)」と持たないといけないということでしょうかね。「無理だと思ってあきらめるな。」ということでしょう。
書いたのは遠州流11世の小堀宗明氏です。
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11世小堀宗明:正徳 晴義 号・宗明 其心庵 一貫子 昭和37年6月21日没(享年75才)
明治21年(1888)、父宗有31歳の時、東京で誕生。東京美術学校に入学し、彫刻・塑像を習得し、日本画も狩野探令に師事しています。
22歳で、父の死と共に家督を継いでおり、広徳寺福富以清和尚より、「其心」の庵号として贈られ、自らも一貫子と号しています。
益田鈍はじめ大正茶人たちとの交流も厚く、三井泰山、団伊能、近藤滋弥等、東京における茶道界の重鎮を門弟とし、泰和会を創始し、石黒況翁の後援をえて、遠州茶道の一般普及に力を入れました。また父宗有の時にまったく行わなかった、出張教授を行い、各大名城下町に受け継いでいた流門の師弟を訪ね、流儀発展に大いに貢献しています。戦後における東京茶道界・東茶会・好日会・止水会等の組織に参加、東京・鎌倉における茶道界向上に大いに活躍しました。
遠州以来の好みの窯の復興にも努力し、茶道美術の指導にも力を入れ、自らも、絵画・書・茶杓などの多くの作品を遺していますが、特に茶碗や香合などの造形美術に優れた技能を示しています。75歳で東京にて没しています。
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近代の遠州流の書では、定家流を能くし、現代における定家流の第一人者とも高く評価されている小堀宗慶の端正な書を好まれる方が多いのかもしれませんが、当方では小堀宗明氏の作品が多くなっています。