立雛図は本作品で蒐集した作品が四作品目となります。投稿していないのは鏑木清方と国井幸雪の作品です。土佐光孚の作品はすでに投稿してあり、下記に紹介しています。
本作品はカビが作品を汚していますが、ぎりぎり改装しないまでもといったところです。暫く掛けたままで雨漏りしたのか、結露のせいなのか、ともかく掛け軸には湿気は禁物です。
立雛図 鈴木松年筆 その4
絹本着色軸装 軸先塗 合箱入
全体サイズ:縦1885*横518 画サイズ:縦1024*横396
鈴木松年の初号は百僊(ひゃくせん)であり、32歳頃に松年に改めるため、本作品は32歳前の作品と推察されます。印章は「世」と「賢」の朱文白方印の累印であり、名の賢(一部資料では謙)を用いています。このような知識がないと作者が不明なまま貴重な作品を見落とすこととなります。
若い鈴木松年の面白い作品といえますが、いかにもシミがもったいないです。
鈴木松年:嘉永元年(1848)、鈴木百年の長男として京都で出生をした。名は賢、字は百僊。鈴木家の先祖は、播州赤穂大石家に通じると云われている。父百年は、南宋画風の山水花鳥画を得意とする画家であり、当時主流であった四条派と並ぶほどにその画風が流行したことから、鈴木派を唱えたほどである。
松年は、この父の影響を受け画家となったが、気性が激しく、周囲の者とたびたび対立を起こした。弟子の中には上村松園や土田麦僊等がいたが、竹内栖鳳のもとへと去っていった。
松年も父同様、山水画や他に人物画をも得意とし、国内外の博覧会、絵画共進会で活躍、京都画壇に重きを成す。豪放剛健な作風による山水・花鳥・人物画を能くした。江戸時代の異相の画家である曽我蕭白の再来とも云われ、激しい気性そのままに天竜寺天井画の龍などを描いている。
代表作として、海外の博覧会に出品した「雪景山水図」「嵐山春景」「松燗水聲」等の作品がある。松年は大正7年(1918)1月29日、京都において69歳の生涯を閉じた。
上村松園との関係:上村松園の長男松篁の父親は鈴木松年と推察されてます。松園(本名:津禰=ツネ)は日本最初の画学校に12歳で入学しますが、内弟子で修行する道を選び、翌年画学校を退学して、鈴木松年に師事し、彼女は腕をあげ「松園」の号を与えられた。
その後、松園は幾度となく師匠を変えていっています。20歳からは、確かに竹内栖鳳に師事をしています。しかし、松年との繋がりは保たれていました。27歳の時、妊娠しましたが、先方に家庭があるため松園は多くを語っていません。彼女は未婚の母の道を選び、世間の冷たい視線に耐えながら長男松篁を出産し、松篁も長じて、日本画家になり文化勲章を受章しています。
下記は収納されいる箱ですが、このような杉箱には良いものが収められていることが多いです。陶磁器にも共通しています。ただ、湿気には弱い。
立雛図は以前に下記の作品を投稿しています。この作品は今、染み抜きと改装の修理を依頼しています。
立雛之絵 土佐光孚筆絹本水墨着色軸装 軸先塗
全体サイズ:縦1770*横468 画サイズ:縦947*横343
本作品は真作に相違ありませんが、改装するかどうか判断に迷っています。改装するとなると太巻きにして保存するのが良いのですが・・。
改装するかどうかの判断はその価値基準によります。価値基準はその評価額、歴史的な価値、資料的価値などですが、本作品は若いころの鈴木松年の作品という資料的な価値基準が重きをなすようです。
若い頃の作品を探してみますと思文閣の墨蹟資料目録に一点掲載されていました。
鴉 鈴木松年筆
思文閣墨蹟資料目録 第467号 作品NO52
残念ながら印章は若いときのものなので同一のものの確認には至っていませんが、落款から同時期の作品と思われます。
本画サイズが横600*縦1290と大き目ですが、思文閣の作品には本紙にしみと折れがあるとのこと。
出来もさることながら歴史的・資料的な価値を重んじての価格といえます。
真作と明らかに断定でき、それなりの評価の高い作品は公開を避けていますが、本ブログは不明な点がある作品をメインに投稿しています。さて、本作品の改装や如何・・。当方の仕分けや如何・・
本作品はカビが作品を汚していますが、ぎりぎり改装しないまでもといったところです。暫く掛けたままで雨漏りしたのか、結露のせいなのか、ともかく掛け軸には湿気は禁物です。
立雛図 鈴木松年筆 その4
絹本着色軸装 軸先塗 合箱入
全体サイズ:縦1885*横518 画サイズ:縦1024*横396
鈴木松年の初号は百僊(ひゃくせん)であり、32歳頃に松年に改めるため、本作品は32歳前の作品と推察されます。印章は「世」と「賢」の朱文白方印の累印であり、名の賢(一部資料では謙)を用いています。このような知識がないと作者が不明なまま貴重な作品を見落とすこととなります。
若い鈴木松年の面白い作品といえますが、いかにもシミがもったいないです。
鈴木松年:嘉永元年(1848)、鈴木百年の長男として京都で出生をした。名は賢、字は百僊。鈴木家の先祖は、播州赤穂大石家に通じると云われている。父百年は、南宋画風の山水花鳥画を得意とする画家であり、当時主流であった四条派と並ぶほどにその画風が流行したことから、鈴木派を唱えたほどである。
松年は、この父の影響を受け画家となったが、気性が激しく、周囲の者とたびたび対立を起こした。弟子の中には上村松園や土田麦僊等がいたが、竹内栖鳳のもとへと去っていった。
松年も父同様、山水画や他に人物画をも得意とし、国内外の博覧会、絵画共進会で活躍、京都画壇に重きを成す。豪放剛健な作風による山水・花鳥・人物画を能くした。江戸時代の異相の画家である曽我蕭白の再来とも云われ、激しい気性そのままに天竜寺天井画の龍などを描いている。
代表作として、海外の博覧会に出品した「雪景山水図」「嵐山春景」「松燗水聲」等の作品がある。松年は大正7年(1918)1月29日、京都において69歳の生涯を閉じた。
上村松園との関係:上村松園の長男松篁の父親は鈴木松年と推察されてます。松園(本名:津禰=ツネ)は日本最初の画学校に12歳で入学しますが、内弟子で修行する道を選び、翌年画学校を退学して、鈴木松年に師事し、彼女は腕をあげ「松園」の号を与えられた。
その後、松園は幾度となく師匠を変えていっています。20歳からは、確かに竹内栖鳳に師事をしています。しかし、松年との繋がりは保たれていました。27歳の時、妊娠しましたが、先方に家庭があるため松園は多くを語っていません。彼女は未婚の母の道を選び、世間の冷たい視線に耐えながら長男松篁を出産し、松篁も長じて、日本画家になり文化勲章を受章しています。
下記は収納されいる箱ですが、このような杉箱には良いものが収められていることが多いです。陶磁器にも共通しています。ただ、湿気には弱い。
立雛図は以前に下記の作品を投稿しています。この作品は今、染み抜きと改装の修理を依頼しています。
立雛之絵 土佐光孚筆絹本水墨着色軸装 軸先塗
全体サイズ:縦1770*横468 画サイズ:縦947*横343
本作品は真作に相違ありませんが、改装するかどうか判断に迷っています。改装するとなると太巻きにして保存するのが良いのですが・・。
改装するかどうかの判断はその価値基準によります。価値基準はその評価額、歴史的な価値、資料的価値などですが、本作品は若いころの鈴木松年の作品という資料的な価値基準が重きをなすようです。
若い頃の作品を探してみますと思文閣の墨蹟資料目録に一点掲載されていました。
鴉 鈴木松年筆
思文閣墨蹟資料目録 第467号 作品NO52
残念ながら印章は若いときのものなので同一のものの確認には至っていませんが、落款から同時期の作品と思われます。
本画サイズが横600*縦1290と大き目ですが、思文閣の作品には本紙にしみと折れがあるとのこと。
出来もさることながら歴史的・資料的な価値を重んじての価格といえます。
真作と明らかに断定でき、それなりの評価の高い作品は公開を避けていますが、本ブログは不明な点がある作品をメインに投稿しています。さて、本作品の改装や如何・・。当方の仕分けや如何・・