一応作品整理のためのブログの投稿ですが、額の作品と陶磁器の作品はほぼ整理が完了し、残る掛け軸も目途がついてきました。あとは資料をまとめあげる段階であり、よほど予定外の作品の入手がない限りブログの訪問者が100万を達成した頃が目安になってきました。紆余曲折しながら、少ない知識でおおよぞ10年かかり、我ながらこつこつとよくまとめたものと思います。またガラクタばかりの作品、稚拙な文章にお付き合いいただいた読者にも感謝いたします。
さて当方では「ド~ン」とした作品がお気に入り、最近の展示はバーナードリーチの蛸図の皿。
皿もでかい方がいい。真贋は二の次ではないのですが、迫力のある作品が蒐集対象です。ただ飾る際に特大の皿立ての入手にも苦労しますし、保存用の箱も費用がかり、さらに何といっても置き場所が苦労しますので他の人にはあまりお勧めできませんね。
下記の作品は古武雄の大皿。
本日の作品紹介ですが、我が郷里でよく目にする馬鹿でかい蕗・・、この作品を買わずして何を買う? と気負いこんで入手した作品です。
秋田富貴に蛙 市川米庵・大窪詩仏他合作
紙本漆絵軸装 大窪詩仏賛 軸先加工木 誂箱
全体サイズ:横1950*縦700 画サイズ:横1230*縦570
蕗は描いたものではなく拓本でしょうね。
そこに市川米庵と大窪詩佛が賛を沿え、「義寛」(詳細は不明)が蛙の絵を描いたもののようです。
市河米庵の経歴は下記のとおりです。
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市河米庵:(いちかわ べいあん)安永8年9月16日(1779年10月25日)~安政5年7月18日(1858年8月26日))。江戸時代後期の日本の書家、漢詩人。 名は三亥、字は孔陽、号は米庵のほかに楽斎・百筆斎・亦顛道人・小山林堂・金洞山人・金羽山人・西野子など。通称は小左衛門。漢詩人の市河寛斎の長子。安永8年(1779年)、己亥九月亥の日(9月16日)の亥の刻に江戸日本橋桶町に生まれたので三亥と名付けられた。
父や林述斎・柴野栗山に師事し、書は長崎に遊学し清国の胡兆新に学ぶ。その後、宋代の書家 米芾や顔真卿らの書を敬慕し、その筆法を研鑽する。米庵という号は米芾に因んでいる。
隷書・楷書を得意とし、寛政11年(1799年)、20歳の時に書塾 小山林堂を開いた。その後、和泉橋藤堂侯西門前に大きな屋敷を構え、門人は延べ5千人に達したという。尾張藩徳川氏、筑前福岡藩黒田氏、津藩藤堂氏、徳山藩毛利氏、鯖江藩間部氏などの大名にも指南を行った。 書の流派である江戸唐様派の大家。同じく江戸で門戸を張った巻菱湖(1777年 - 1843年)、京都の貫名海屋(1778年 - 1863年)とともに幕末の三筆に数えられる。文化8年(1811年)に富山藩に仕えたが、文政4年(1821年)に家禄300石をもって加賀藩前田家に仕え、江戸と金沢を往復し指導に当たった。 余技に篆刻を嗜み、印譜『爽軒試銕』がある。文房清玩に凝り唐晋の書画の蒐蔵と研究で知られる。また煎茶を嗜み、松井釣古の主人であった加賀屋清兵衛に楓川亭と命名している。『米庵墨談』など多数の著述がある。
継子に恵まれずはじめ稲毛屋山の子恭斎(きょうさい、1796年 - 1833年)を養子に迎えるが夭折してしまい、次いで遂庵(いちかわ すいあん、1804年 - 1884年)を迎えた。しかし、米庵が60歳のときに長子、万庵(いちかわ まんあん、1838年 - 1907年)を授かる。1858年歿、享年80。西日暮里本行寺に墓がある。 石碑の文字も多くを手がけ、現在全国に50基以上の石碑が確認されている。
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蕗の茎の部分に市河米庵の賛がありますが、解読できていません。
大窪詩仏の来歴は下記のとおりです。釧雲泉と旅したことは本ブログで紹介しれています。秋田藩と縁があったことで本作品が出来あったかもしれませんね。
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大窪詩仏:(おおくぼしぶつ)明和4年(1767年)~天保8年2月11日(1837年3月17日))。江戸時代後期の漢詩人である。書画も能くした。常陸国久慈郡袋田村(現 茨城県久慈郡大子町)に生まれる。 名は行(こう)、字は天民(てんみん)、通称を柳太郎、のちに行光、号は詩仏のほかに柳侘(りゅうたく)、痩梅(そうばい)、江山翁(こうざんおう)、玉地樵者、艇棲主、含雪、縁雨亭主、柳庵、婁庵、詩聖堂(しせいどう)、江山書屋(こうざんしょや)、既醉亭(きすいてい)、痩梅庵(そうばいあん)とも号した。号の詩仏は唐詩人 杜甫が「詩名仏」と称されたことによるものか、あるいは清の袁枚の号に因むと言われる。
少年期:詩仏が10歳の頃、隣家が火事となり大騒動になっていても、それに気付かず読書しつづけたという逸話が残っている。父の大窪宗春光近は桜岡家の婿養子となったが離縁になり、詩仏を引き取って実家のある常陸国多賀郡大久保村に戻った。このため詩仏も大窪姓に復する。代々大窪家は医を生業としており、宗春は田舎で身を沈めることを潔しとしなかったため、数年後単身で江戸にて小児科医を開業する。江戸では名医として評判となり大いに繁盛した。
修業時代:詩仏は15歳頃、江戸日本橋新銀町で開業する父の元に身を置き、医術を学び、剃髪し宗盧と号した。21歳頃より山本北山の門人 山中天水の塾 晴霞亭に通い儒学を学び、市河寛斎の江湖詩社にも参加して清新性霊派の新風の中、詩作を始める。24歳のとき父が亡くなるが、医業を継がず詩人として身を立てる決意をする。同年、師の天水が33歳で死去し、中野素堂の紹介で山本北山の奚疑塾に入門する。
活動期:25歳の時、市河寛斎が富山藩に仕官した後、江湖詩社に活気がなくなってくると、先輩の柏木如亭と向島に二痩社を開いた。詩仏の別号 痩梅、如亭が痩竹と号したことに因んだ命名である。この二痩社には百人を超える門人が集った。その後、自らの詩集や啓蒙書などを活発に刊行する。また各地を遊歴し、文雅を好む地方の豪商などに寄食しながら詩を教え、書画の揮毫などで潤筆料を稼いだ。その足跡は東海道、京都、伊勢、信州、上州に及ぶ。
絶頂期:文化3年(1806年)3月、39歳の時丙寅の火災と呼ばれる江戸の大火に罹災。家を焼失した詩仏は復興費用の捻出のため画家の釧雲泉と信越地方に遊歴し、秋に帰ると神田お玉ヶ池に家を新築、詩聖堂(現 東京都千代田区岩本町2丁目付近)と称した。しだいに訪問客が増え、それにともなってこの詩聖堂に度重なる増築を加え、豪奢な構えとなっていく。文化7年正月、『詩聖堂詩集初編』を出版し、江戸詩壇の中で確固たる地位を築く。この頃、頼山陽などと交流する。
珍事:文化13年(1816年)、書画番付騒動が起こり、これに巻き込まれる。これは当時の江戸の学者や文人達を相撲の番付に見立てて格付けした「都下名流品題」という一枚刷を巡り、あちこちで格付けの不当が言い立てられ始めたことによる。東の関脇に詩仏が格付けされており、親友の菊池五山とともにこの戯れ事の黒幕と目されてしまった。大田錦城らと大きく悶着したが、後援者である増山雪斎の調停でなんとか治まった。真相ははっきりしないが詩仏の関与は濃厚と見られる。この後、詩仏は信越へ遊歴し、ほとぼりを冷ましている。
仕官:地方に遊歴してもしだいに振るわなくなったことに焦りを感じたためか、詩仏は文政8年(1825年)、59歳にして秋田藩に出仕する。ほとんど拘束を受けない条件で江戸の藩校 日知館の教授として俸禄を給されたので生活そのものは変らなかった。
不運:文政12年(1829年)は63歳になる詩仏にとって運の悪い年だった。3月の江戸の大火(己丑の大火)で詩聖堂を全焼し、秋田藩邸に仮住まいを余儀なくされた。下谷練塀小路に小宅を構えることは出来たが、二度と詩聖堂を復興することは出来なかった。ついでこの冬、二人の幼女を残して妻が先立つ。
晩年:晩年の詩仏は江戸詩壇の泰斗として敬われ、交友も活発であったがかつての華やかさは次第に失われていった。肉体的にも衰えが目立ち、65歳で秋田に旅した帰路には脚気が悪化し養子の謙介に迎えに来てもらわねばならなかった。
天保8年2月(1837年)、自宅で没する。享年71。浅草松葉町の光感寺に葬られる。後に藤沢市本町に改葬された。
人物像:詩仏は穏やかで物事に頓着しない性格で少しも驕ることがなかった。また人付き合いがよく、酒を好んだこともあり、多くの文人墨客と交流し、当時の詩壇のアイドル的な人気を獲得した。
業績・評価:市河寛斎、柏木如亭、菊池五山と並んで江戸の四詩家と称せられ、また、画家の清水天民、儒者の並河天民、詩人の大窪天民(別号)で三天民と評される。蜀山人は「詩は詩仏、書は米庵に狂歌俺、芸者小万に料理八百善」、「詩は詩仏、三味は芸者よ、歌は俺」などといって激賞した。
師の山本北山は、「詩仏は清新性霊の新詩風の中で育ち、古文辞格調派の毒に染まっていない」として大いに期待しエールを送っている。詩仏の詩は范成大、楊万里、陸游など南宋三大家の影響が強いといわれる。詩はいたずらに難解であるべきでなく平淡であることを貴しとし、清新であり機知に富んでいながら尚、わかりやすい詩をめざした。このように写実的な詩風を好んだため、特に詠物詩を得意とした。
書画:七行絶句三行草書「残雪不消猶待伴」
孫過庭に影響され草書を能くした。また画については蘇軾に私淑し、墨竹図をもっとも得意とした。墨竹の四葉が対生する様は「詩仏の蜻蛉葉」と称され尊ばれ、多くの人から書画の揮毫を求められ、潤筆料を稼いだ。
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蛙描いた画家は全く不明です。
能書きは別として実にユーモラスな作品です。
このような合作は駄作が多いのですが、本作品は実に見ごたえのある作品だと思います。
箱もなく打ち捨られたかのごとく売られていた作品ですが、我が展示室で蘇った作品のひとつではないでしょうか? さて保存箱の段取りをしましょう。ともかく大きな作品は費用がかかります。
さて当方では「ド~ン」とした作品がお気に入り、最近の展示はバーナードリーチの蛸図の皿。
皿もでかい方がいい。真贋は二の次ではないのですが、迫力のある作品が蒐集対象です。ただ飾る際に特大の皿立ての入手にも苦労しますし、保存用の箱も費用がかり、さらに何といっても置き場所が苦労しますので他の人にはあまりお勧めできませんね。
下記の作品は古武雄の大皿。
本日の作品紹介ですが、我が郷里でよく目にする馬鹿でかい蕗・・、この作品を買わずして何を買う? と気負いこんで入手した作品です。
秋田富貴に蛙 市川米庵・大窪詩仏他合作
紙本漆絵軸装 大窪詩仏賛 軸先加工木 誂箱
全体サイズ:横1950*縦700 画サイズ:横1230*縦570
蕗は描いたものではなく拓本でしょうね。
そこに市川米庵と大窪詩佛が賛を沿え、「義寛」(詳細は不明)が蛙の絵を描いたもののようです。
市河米庵の経歴は下記のとおりです。
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市河米庵:(いちかわ べいあん)安永8年9月16日(1779年10月25日)~安政5年7月18日(1858年8月26日))。江戸時代後期の日本の書家、漢詩人。 名は三亥、字は孔陽、号は米庵のほかに楽斎・百筆斎・亦顛道人・小山林堂・金洞山人・金羽山人・西野子など。通称は小左衛門。漢詩人の市河寛斎の長子。安永8年(1779年)、己亥九月亥の日(9月16日)の亥の刻に江戸日本橋桶町に生まれたので三亥と名付けられた。
父や林述斎・柴野栗山に師事し、書は長崎に遊学し清国の胡兆新に学ぶ。その後、宋代の書家 米芾や顔真卿らの書を敬慕し、その筆法を研鑽する。米庵という号は米芾に因んでいる。
隷書・楷書を得意とし、寛政11年(1799年)、20歳の時に書塾 小山林堂を開いた。その後、和泉橋藤堂侯西門前に大きな屋敷を構え、門人は延べ5千人に達したという。尾張藩徳川氏、筑前福岡藩黒田氏、津藩藤堂氏、徳山藩毛利氏、鯖江藩間部氏などの大名にも指南を行った。 書の流派である江戸唐様派の大家。同じく江戸で門戸を張った巻菱湖(1777年 - 1843年)、京都の貫名海屋(1778年 - 1863年)とともに幕末の三筆に数えられる。文化8年(1811年)に富山藩に仕えたが、文政4年(1821年)に家禄300石をもって加賀藩前田家に仕え、江戸と金沢を往復し指導に当たった。 余技に篆刻を嗜み、印譜『爽軒試銕』がある。文房清玩に凝り唐晋の書画の蒐蔵と研究で知られる。また煎茶を嗜み、松井釣古の主人であった加賀屋清兵衛に楓川亭と命名している。『米庵墨談』など多数の著述がある。
継子に恵まれずはじめ稲毛屋山の子恭斎(きょうさい、1796年 - 1833年)を養子に迎えるが夭折してしまい、次いで遂庵(いちかわ すいあん、1804年 - 1884年)を迎えた。しかし、米庵が60歳のときに長子、万庵(いちかわ まんあん、1838年 - 1907年)を授かる。1858年歿、享年80。西日暮里本行寺に墓がある。 石碑の文字も多くを手がけ、現在全国に50基以上の石碑が確認されている。
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蕗の茎の部分に市河米庵の賛がありますが、解読できていません。
大窪詩仏の来歴は下記のとおりです。釧雲泉と旅したことは本ブログで紹介しれています。秋田藩と縁があったことで本作品が出来あったかもしれませんね。
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大窪詩仏:(おおくぼしぶつ)明和4年(1767年)~天保8年2月11日(1837年3月17日))。江戸時代後期の漢詩人である。書画も能くした。常陸国久慈郡袋田村(現 茨城県久慈郡大子町)に生まれる。 名は行(こう)、字は天民(てんみん)、通称を柳太郎、のちに行光、号は詩仏のほかに柳侘(りゅうたく)、痩梅(そうばい)、江山翁(こうざんおう)、玉地樵者、艇棲主、含雪、縁雨亭主、柳庵、婁庵、詩聖堂(しせいどう)、江山書屋(こうざんしょや)、既醉亭(きすいてい)、痩梅庵(そうばいあん)とも号した。号の詩仏は唐詩人 杜甫が「詩名仏」と称されたことによるものか、あるいは清の袁枚の号に因むと言われる。
少年期:詩仏が10歳の頃、隣家が火事となり大騒動になっていても、それに気付かず読書しつづけたという逸話が残っている。父の大窪宗春光近は桜岡家の婿養子となったが離縁になり、詩仏を引き取って実家のある常陸国多賀郡大久保村に戻った。このため詩仏も大窪姓に復する。代々大窪家は医を生業としており、宗春は田舎で身を沈めることを潔しとしなかったため、数年後単身で江戸にて小児科医を開業する。江戸では名医として評判となり大いに繁盛した。
修業時代:詩仏は15歳頃、江戸日本橋新銀町で開業する父の元に身を置き、医術を学び、剃髪し宗盧と号した。21歳頃より山本北山の門人 山中天水の塾 晴霞亭に通い儒学を学び、市河寛斎の江湖詩社にも参加して清新性霊派の新風の中、詩作を始める。24歳のとき父が亡くなるが、医業を継がず詩人として身を立てる決意をする。同年、師の天水が33歳で死去し、中野素堂の紹介で山本北山の奚疑塾に入門する。
活動期:25歳の時、市河寛斎が富山藩に仕官した後、江湖詩社に活気がなくなってくると、先輩の柏木如亭と向島に二痩社を開いた。詩仏の別号 痩梅、如亭が痩竹と号したことに因んだ命名である。この二痩社には百人を超える門人が集った。その後、自らの詩集や啓蒙書などを活発に刊行する。また各地を遊歴し、文雅を好む地方の豪商などに寄食しながら詩を教え、書画の揮毫などで潤筆料を稼いだ。その足跡は東海道、京都、伊勢、信州、上州に及ぶ。
絶頂期:文化3年(1806年)3月、39歳の時丙寅の火災と呼ばれる江戸の大火に罹災。家を焼失した詩仏は復興費用の捻出のため画家の釧雲泉と信越地方に遊歴し、秋に帰ると神田お玉ヶ池に家を新築、詩聖堂(現 東京都千代田区岩本町2丁目付近)と称した。しだいに訪問客が増え、それにともなってこの詩聖堂に度重なる増築を加え、豪奢な構えとなっていく。文化7年正月、『詩聖堂詩集初編』を出版し、江戸詩壇の中で確固たる地位を築く。この頃、頼山陽などと交流する。
珍事:文化13年(1816年)、書画番付騒動が起こり、これに巻き込まれる。これは当時の江戸の学者や文人達を相撲の番付に見立てて格付けした「都下名流品題」という一枚刷を巡り、あちこちで格付けの不当が言い立てられ始めたことによる。東の関脇に詩仏が格付けされており、親友の菊池五山とともにこの戯れ事の黒幕と目されてしまった。大田錦城らと大きく悶着したが、後援者である増山雪斎の調停でなんとか治まった。真相ははっきりしないが詩仏の関与は濃厚と見られる。この後、詩仏は信越へ遊歴し、ほとぼりを冷ましている。
仕官:地方に遊歴してもしだいに振るわなくなったことに焦りを感じたためか、詩仏は文政8年(1825年)、59歳にして秋田藩に出仕する。ほとんど拘束を受けない条件で江戸の藩校 日知館の教授として俸禄を給されたので生活そのものは変らなかった。
不運:文政12年(1829年)は63歳になる詩仏にとって運の悪い年だった。3月の江戸の大火(己丑の大火)で詩聖堂を全焼し、秋田藩邸に仮住まいを余儀なくされた。下谷練塀小路に小宅を構えることは出来たが、二度と詩聖堂を復興することは出来なかった。ついでこの冬、二人の幼女を残して妻が先立つ。
晩年:晩年の詩仏は江戸詩壇の泰斗として敬われ、交友も活発であったがかつての華やかさは次第に失われていった。肉体的にも衰えが目立ち、65歳で秋田に旅した帰路には脚気が悪化し養子の謙介に迎えに来てもらわねばならなかった。
天保8年2月(1837年)、自宅で没する。享年71。浅草松葉町の光感寺に葬られる。後に藤沢市本町に改葬された。
人物像:詩仏は穏やかで物事に頓着しない性格で少しも驕ることがなかった。また人付き合いがよく、酒を好んだこともあり、多くの文人墨客と交流し、当時の詩壇のアイドル的な人気を獲得した。
業績・評価:市河寛斎、柏木如亭、菊池五山と並んで江戸の四詩家と称せられ、また、画家の清水天民、儒者の並河天民、詩人の大窪天民(別号)で三天民と評される。蜀山人は「詩は詩仏、書は米庵に狂歌俺、芸者小万に料理八百善」、「詩は詩仏、三味は芸者よ、歌は俺」などといって激賞した。
師の山本北山は、「詩仏は清新性霊の新詩風の中で育ち、古文辞格調派の毒に染まっていない」として大いに期待しエールを送っている。詩仏の詩は范成大、楊万里、陸游など南宋三大家の影響が強いといわれる。詩はいたずらに難解であるべきでなく平淡であることを貴しとし、清新であり機知に富んでいながら尚、わかりやすい詩をめざした。このように写実的な詩風を好んだため、特に詠物詩を得意とした。
書画:七行絶句三行草書「残雪不消猶待伴」
孫過庭に影響され草書を能くした。また画については蘇軾に私淑し、墨竹図をもっとも得意とした。墨竹の四葉が対生する様は「詩仏の蜻蛉葉」と称され尊ばれ、多くの人から書画の揮毫を求められ、潤筆料を稼いだ。
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蛙描いた画家は全く不明です。
能書きは別として実にユーモラスな作品です。
このような合作は駄作が多いのですが、本作品は実に見ごたえのある作品だと思います。
箱もなく打ち捨られたかのごとく売られていた作品ですが、我が展示室で蘇った作品のひとつではないでしょうか? さて保存箱の段取りをしましょう。ともかく大きな作品は費用がかかります。