先日投稿した下記の蒔絵の棗の作品に、会社にいる小生に家内からメール・・。どうも隠し文字?があるらしいと・・。作品を肉眼で見ていると解らなかったようですが、ブログ掲載のために反射を防いで斜めに撮影したことによって気がつきました。
蒔絵平棗 銘「有明」
塗二重箱
最大胴径83*底径49*高さ57
たしかになにやら書いてあります。判読不能・・・。
二カ所、否三か所あるようですが、製作した時に描いたのか、はたまたその後なのかは解りません。
*詳細は明日のブログにて・・。
さて本日は気軽に入手できる色紙の作品において金島桂華と野口弥太郎の作品が入手できましたので紹介します。
本作品で金島桂華の作品は4作品目の投稿となります。
色紙 桃 金島桂華筆 80歳頃
紙本水彩色紙 色紙 タトウ入
画サイズ:縦270*横240
金島桂華の画歴は下記のとおりです。
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金島桂華:(かなしま けいか)1892年6月29日~1974年9月14日)。日本画家、日本芸術院会員。福山市名誉市民。広島県生まれ、広島県安那郡湯田村(現・福山市神辺町湯野)に父儀一郎、母シナの長男として生まれる。本名は政太(まさた)。
絵の勉強は平井直水に師事、竹内栖鳳主催の竹杖会では西山翠嶂、西村五雲、橋本関雪、土田麦僊や小野竹喬、徳岡神泉、池田遙邨あるいは大村廣陽と同門です。橋本とは1917年、共に揚子江を旅しています。
私塾の衣笠会を主催し、藤島博文など後進の育成に努め、四条派と院体風を取り入れた花鳥画を得意としました。万鉄五郎とは金島の妻が加わった参禅の会を介して知己を得ています。
1925年帝展で「芥子」が特選、1927年「鳴子九皐」(宮内省買い上げ)、1928年「牡丹」で特選。1929年には小野竹喬や大村廣陽とともに帝展無鑑査に推薦されています。
1930年から1939年まで京都市立美術工芸学校教諭を務める間、1934年帝展審査員に推されました。
1930年代半ばから日本画壇を支えるために力を貸し、「国防費献金京都日本画家有志会」の設立メンバーの一員として1937年8月、石崎光瑤、登内微笑、堂本印象、中村大三郎、宇田荻邨、山口華楊、梥本一洋、福田平八郎とともに作家に呼びかけ、寄贈された作品の頒布会を開きました。これを「京都日本画家献画運動」と呼び、およそ80名から寄せられた作品の代金をまとめて1万円(当時)としています。献金は第十六師団を通じて陸軍に寄せられました。
日展では1950年に運営会参事に加わると第8回出品作「鯉」に対して芸能選奨美術文部大臣賞を受賞。
1960年理事、1969年同じく顧問に就く。
第9回出品作「冬田」に対し1954年に日本芸術院賞を受け、1959年になると児玉希望、小糸源太とともに3月に第一部新補充会員に序せられます。ところがこのとき日本画分野の審査で金島と同票だった宇田荻邨は有資格者でありながら、年長の金島のみ当選させたと松林桂月と鏑木清方、安田靫彦が抗議しています。本来であれば選外となった場合は改めて推薦を受け審査の対象となるところ、宇田を日本美術院初の保留会員として扱い、欠員を生じたとき無投票で当選させることが決まっています。
1974年9月14日、肝性脳症のため京都市内の病院で死去、享年82歳。
1966年勲三等瑞宝章受章、1969年京都市文化功労賞受賞。四条派と院体風を取り入れた花鳥画を得意とし、重厚な装飾性の強い花鳥画を描いています。
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四条派と院体風を取り入れた花鳥画を得意とし、晩年の作品はとく重厚な装飾性の強い花鳥画を描いているようです。現在では同様の花鳥画を描く山口華楊に比して評価は低いようですが、根強い人気があります。
印章は白文朱方印「政(本名は政太のよる)」が押印されています。
落款の書体は晩年の80歳のものに近いようですし、作風からも晩年の作と推定されます。
上記の作品は80歳の年期ある作品で落款の書体が近似しています。
風景 野口彌太郎筆
紙本水彩色紙 色紙 タトウ入
画サイズ:縦270*横240
野口彌太郎の画歴は下記のとおりです。
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野口弥太郎:(のぐち やたろう 野口彌太郎) 1899年10月1日 ~1976年3月23日。日本の洋画家、日本芸術院会員。1899年(明治32年)東京・本郷に生まれ。
1920年、関西学院中学部卒後、川端画塾に学び、1922年、二科展で初入選。
1926年、「一九三〇年協会」会員となる。
1929年(昭和4年)30歳でフランスに渡り、4年間の滞欧生活を送りました。サロン・ドートンヌに出品。
1933年、帰国、独立美術協会会員となる。ヨーロッパで学んだフォービズム的体質と洗練された色彩感覚をもって戦後の洋画壇における具象系の代表作家としてその地位を築きました。
戦後、1949年から日本大学芸術学部教授。
1960年(昭和35年)再度渡欧し、スペイン絵画と出会った時には、「これだな。と身近に感じるものを覚えた。」と語っているようにスペイン系絵画の中に東洋的精神に通じるものを実感したようです。そして骨太い筆触による大胆な空間構成を会得しました。また、ベラスケスやゴヤの作品の影響もあり、ヨーロッパの美を描くなかで、黒色の美しい階調に魅入られています。
独立展に出品を続け、1962年、国際形象展同人。
1964年、「セビラの行列」で毎日芸術賞受賞、1970年、日大を辞める。
1972年、紺綬褒章受章。1973年、芸術選奨文部大臣賞受賞。1975年、勲三等瑞宝章受章、日本芸術院会員。
晩年は、南画風の筆触を通して、日本的フォービズムの典型を示すとともに、1976年(昭和51年)春、76歳の生涯を閉じるまで長崎の画家たちに中央画壇、特に独立美術の空気を送り込み、近代日本洋画の先駆者としてすばらしい画業を残しました。父親は元第一銀行常務取締役の野口弥三。
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画風からは晩年の作と推定されます。
色紙の水彩画の作品ですが、野口彌太郎の特色が良く出ている作品だと思います。
どこか日本画の南画風の筆触が感じられ、油絵の日本的フォービズムとの融合が見られます。
このような日本画家や洋画家の色紙の作品が数千円で入手できるのはコレクターにとってはとても幸いなことです。
ちなみに野口彌太郎作品もなんでも鑑定団に出品されています。
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参考作品
なんでも鑑定団出品作 2018年12月11日放送
評:90万円 野口らしい良い作品。1930年代初頭、フランスから留学を終えて帰国した。日本的フォービスムというのが大きな特徴。描かれているのは函館の港。明るく強い色を好んで使って、平面的かつ細部を簡略化するという特徴が良く出ている。厚塗りな分、どうしても絵具が全体的に割れてしまっている。綺麗な状態なら100万円
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色紙の作品は飾る場所や額を変えてみたりしていろいろと楽しめます。
色紙でも評価の高い作品は湿気を防ぐためにも引き出しや箱の入れ、湿気の少ない場所に保管しましょう。
ひと作品が数千円から一万円程度が手頃な色紙のお値段ですが、色紙と言えどもきちんとした鑑識眼が必要です。