夜噺骨董談義

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湖山遊禽 平福百穂筆 昭和初期頃 その138

2025-01-26 00:01:00 | 掛け軸
平福百穂は近代南画の最後の画家と称されていますが、意外にもその作品群は1916年(大正5年)に金鈴社結成後となる晩年であり、これ以降に中国の画像石や画巻、南画への関心を示す古典回帰が見られる作品を発表しています。本日紹介する作品はその時期にあたりますが、結実した作品は亡くなる直前の1932年(昭和7年)の「小松山」などであり、自然主義と古典が融合した作品を生み出すに至っています。 



湖山遊禽 平福百穂筆 昭和初期頃 その138
絹本淡彩軸装 軸先象牙 共箱 
全体サイズ:縦2180*横550 画サイズ:縦1270*横420

 

つまりは平福百穂の山水画の到達点となる作風の作品は意外に少ないということです。 



本日はその到達点のはしりとなる作風の作品の紹介ですが、この時期の平福百穂は湖を題材とした作品を幾つか遺しているようです。



1933年(昭和8年)10月25日に兄の急逝を受けて秋田県横手町を訪問中、脳溢血で倒れています。東京から三角和正、斎藤茂吉が駆けつけましたが、回復しないまま同年10月30日に死去しています。



この湖が郷里の田沢湖を題材にしたものか、はたまた中国の風景を写したものかは不明ですが、平福百穂は角館を郷里していたので、田沢湖とは縁が深かったようです。



その田沢湖には没後に平福百穂の歌碑が建立されています。



角館出身の平福百穂は、日本画の巨匠としてまたアララギ派の歌人として知られていますが、田沢湖を深く愛し、辰子伝説を墨絵に描き、また白浜や御座石の美しい風景を短歌に詠んでいます。また広い交友を通じて多くの歌人や俳人や画人が田沢湖を訪れています。平福百穂に促されて田沢湖を訪れた伊藤左千夫や斎藤茂吉も伝説に因んだ短歌を詠んでいます。

平福百穂歌碑の碑面の歌は大正15年画伯が国境の仙岩峠を越えてふるさとに帰ったときに、陽春5月の山なみを眺めて作った一連の歌の一首です。万葉仮名で書かれた文字は百穂の自筆のものだそうです。



「いにしえゆ国をさかひす嶺のうえ岩手秋田の国を境す 寒竹集」。昭和9年9月、大曲の文人赤川菊村、田口松圃らによって建立され、当時、村の学童たちが力を合わせて、碑を運んだようです。

 

百穂は、さまざまな面で角館の発展に尽力していますが、特に角館中学校(現角館高等学校)設立の中心的役割を果たしました。角館中学校は武家屋敷通りの北端に建てれましたが、現在は東側の丘陵上に移転しています。当時の中学校跡地には、現在、平福百穂の歌碑、秋田県立角館高等学校跡の碑、島木赤彦の原稿を斎藤茂吉が補筆した角館中学校校歌原稿の碑が立っています。特に、百穂の歌碑は百穂の七回忌にあたって、川合玉堂、鏑木清方、結城素明、川端龍子、田口掬汀が発起人となり、昭和14年9月に建立したものです。



2つの短歌と百穂の半身像が刻まれていますが、その壮麗さから、百穂が角館の人々から深く敬愛されていたことがよくわかります。さらに、昭和63年には、その場所に角館町平福記念美術館が建てられ、百穂とその父である穂庵の絵が展示されていますが、この角館町平福記念美術館は私が所属していた建設会社が在職中に施工しています。



郷里の画家というものはなにかと縁があるもので、蒐集する側がそれもまた愉しみのひとつですね。






















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