夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

長崎派 虎図 

2020-07-24 00:01:00 | 掛け軸
どうも当方では虎や鯉、そして鍾馗様といった日本画の作品に食指が動くようです。虎と言えば、江戸期は佐伯岸駒、近代では大橋翆石が代表的な画家ですね。虎の作品のみならず、動物を描いた作品が好きな愛好家ならこの二人が描いた虎の作品は必ずや蒐集対象にはなるでしょう。



さて本日は作品中には印章のみであり、作者は不明ですが、南蘋派、長崎派の画家の作品と思われる虎を描いた作品の紹介です。本ブログにおいては長崎派の虎の作品は本日の作品で2作品目となります。

江戸時代、第8代将軍徳川吉宗は、当時の絵画の主流派であった狩野派に飽き足らず、中国絵画、特に宋・元時代の絵画の技法を日本画に取り込もうとしました。そして、宋・元画の技法に通じた清朝の宮廷絵師、沈南蘋(シン ナンピン)を長崎に呼び寄せました。これが南蘋派、つまり長崎派の始まりとされています。

長崎派 虎図 作者不明 
紙本水墨淡彩軸装 軸先骨 誂箱 印章在
全体サイズ:縦1741*横331 画サイズ:縦*横

 

南蘋は、1731年から33年にかけて、長崎の唐人屋敷(唐館)に約2年間滞在しました。そして、唐通詞(幕府お抱えの中国語通訳)の息子であった神代甚左衛門(くましろ じんざえもん)をだたひとり、弟子としました。神代は、南蘋の帰国後その弟子の高乾にも師事して南蘋風の技法を身につけ、中国名風に熊斐(ゆうひ)と名乗って南蘋風の絵画(南蘋画)を多く描きました。また、多くの日本人絵師を弟子にとり、南蘋派を日本に広めました。

南蘋の絵画は、精緻で写実的な彩色画で花鳥を描くことを特徴とします。それまでの日本絵画にはない、カラフルでメリハリのはっきりした表現は、多くの絵師の心をつかみました。南蘋画に影響を受けた絵師には、円山応挙や伊藤若冲、与謝蕪村、渡辺崋山、司馬江漢といった、そうそうたる面々が名前を連ねていることは周知の事実です。

熊斐らの南蘋風の絵画の代表的な画題のひとつが「虎図」です。南蘋のただひとりの弟子、熊斐の作品も有名です。日本には生息していない虎を、宋・元画などを参考としながら見事な筆致で表現しており、ユーモラスな表情が作品の魅力となっています。一説には、日本には生息していない虎を描くために、ネコを参考にしたためにこうなったんだとか。虎党だけじゃなくて、ネコ好きさんも必見ですね!?

虎の顔を大きく描き、虎の体が画面からはみだし、尾が上や下から覗いている構図は南蘋風の作品にはたいへん多いようです。



画面に動きを持たせ、ダイナミックに見せるこの構図はなにか広まった代表的な作例があるのでしょう。



日本ではまだ見たことのない虎を描いた画家の心中はどうだったのでしょうか? 残念ながら本作品には印章が押印されていますが、作者の詳細は判明していません。



長崎派で虎の作品と言えば片山楊谷ですね。ちなみに片山楊谷の作品を紹介しますと、本日紹介する作例は下記の2作品です。

参考作品 虎図 片山楊谷筆 その1



参考までに片山楊谷の画歴は下記の通りです。

*********************************************

片山楊谷:(かたやま ようこく) 宝暦10年(1760年)~享和元年8月24日(1801年10月1日))。江戸時代中期に活躍した長崎派の絵師。

長崎出身。本姓は洞、名は貞雄、通称は宗馬。楊谷は号で、初号に洞勸、別号は画禅窟。一説に「名は温、一に義夫、字は玉如。父は長崎で医者をしていた洞雄山、あるいは洞雄敬の子として生まれる。一説に父が中国人で、母は日本人とも言われるが定かではない。幼少時に父を亡くしている。

1772年(安永元年)13歳で諸国を巡歴して、19歳の時には既に5人の弟子がいるほどの腕前だった。17歳で鳥取の興禅寺に逗留して絵を描き、のちに法美郡桂木村の医師・中山東川の娘を妻とする。若桜藩主・池田定常に絵を気に入られ、貞経は楊谷を引き止めるため、1792年(寛政4年)鳥取藩士で茶道役の片山家に夫婦とも養子とした。翌年家督を継ぎ、亡くなるまで9年間務めた。

1795年(寛政7年)湯治のため藩の許しを得て京都に行き、画名を得たという。円山応挙に弟子入りを請うと、応挙はその画才を見て驚嘆し、弟子ではなく友人として迎えた。また、学芸を好んだ妙法院門主真仁法親王の前で席画を披露する。更にその兄・光格天皇は楊谷を宮中に招き、従五位下の位階を与え楊谷に数十幅の画作を依頼する。楊谷が画を完成させ披露すると、天皇はその出来に満足し褒美として名硯・石王寺硯を与えた。楊谷はこれを愛用し一生肌身離さなかったいわれる。

1800年(寛政12年)但馬の山路寺で数多くの障壁画を手掛け、現在兵庫県指定文化財になっている。ところが、但馬の湯村温泉で入浴中、突然発病してにて死亡。享年42。菩提寺は鳥取の興禅寺、または長崎の大音寺。

画風は費漢源に近く、その弟子に画法を学んだと推測される。しかし、沈南蘋や他の長崎派の画風も摂取していったことが観察できる。特にその虎の絵は、虎の毛を細い線で丹念に表し、「楊谷の毛描き」と呼ばれている。

*********************************************

42歳で亡くなっていますので、遺された作品の数はかなり少ないものと思われます。それ故、人気も高く片山楊谷の作品は古画のコレクターには垂涎の作品です。なんでも鑑定団に贋作が出品されましたが、安河内氏が「片山楊谷の贋作は初めてみました。」と驚いていたように作品が少なく著名なのですが、贋作は少ないようです。

参考作品 虎図 片山楊谷筆 その2



長崎派の影響を受けた画家の作品は当方の所蔵作品には下記の作品があります。

他の所蔵作品より               
虎図 渡辺秀詮筆
紙本着色軸装 軸先木製
全体サイズ:縦1950*横717 画サイズ:縦1240*横581



「渡辺秀詮者長崎之人也就沈南蘋学画殊能虎鳥取藩画師楊谷之師也 □井書屋蔵」と巻止めに記されていますが、詳細は不明な画家です。



本ブログでおなじみに天龍道人もまた長崎派の影響を受けた作品が数多くあります。

他の所蔵作品より                       
虎図 天龍道人筆 71歳
絹本着色
全体サイズ:縦1450*横370 画サイズ:縦*横



天龍道人は肥前鹿島(佐賀県鹿島市)の出身で、一説では九州鍋島藩(佐賀)の支藩・鹿島藩家老の板部堅忠の子とされています。沈南蘋派に属し、熊斐を師とする資料があり、熊斐の描いた絵を参考にして描かれた可能性があります。

他には下記の作品があります。浮世絵師の美人画を得意とする菊川英山にとっては虎を描いた非常に珍しい作品です。

竹に虎図 菊川英山作
浮世絵版画2枚繋額装裏打 226*705



江戸期の画家では円山応挙、伊藤若冲、曽我蕭白など著名な画家の作品ばかり注目されますが、もっとマイナーな画家で面白い作品が市場にはたくさんあります。掛け軸や浮世絵などが求めやすくなっているこの時期に、数度の美術館行を止めて、そのお値段で実際の作品を入手した方がよほど美術鑑賞になるものと思います。



残念ながら本作品は保存状態がよくありません。改装して保存箱を誂える必要がありますね。改装するとかなり見栄えのする作品となるでしょう。改装後の作品紹介は後日また・・・。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。