これからは実力勝負の時代・・・、切磋琢磨、自己研鑽しなくてはなりません。
そのためには相手を知ること・・、相手とは顧客とライバルのこと。
そのためには極力相手のところへ赴くこと、勝負をたくさんすること、勝つ技術を向上させることです。これをず~っと2年半言い続け、実践続け、まだまだ続ける。
これを妨げる最大の難関は後継者作り・・、継続は力なり・・、企業存続は厳しい
本日は真贋はともかく養由基という弓の名人を描いた作品です。
養由基は1本の矢で複数の兵を倒す妙技を発揮し、敵を近寄せなかったともいう。そうなりたいものです。目下的中率(勝率)は3割台
養由基 伝駒井源筆
紙本淡彩 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1920*横610 画サイズ:縦1210*横490
本作品も落款には「寛政丙辰初秋」とあり寛政8年(1976年)秋の描かれた作品であり、源が亡くなる前年49歳の作品と思われますが・・。
養由基:楚国の人であり荘王・共王に丈夫として仕え、射術の妙によって有名となる。その弓勢の強さは甲冑7枚を貫き、蜻蛉の羽根を射ることができ、また100歩離れて柳の葉を射て百発百中であったともいう。楚王はかつて白猿を飼い自分で射てみたが、白猿は飛んでくる矢を捕らえて戯れたので、養由基を召して射させることにした。
養由基が弓をととのえて矢をつがえ、まだ発しないうちに白猿は泣き叫んで木にしがみついたという。また共王が戦に敗れたとき、養由基は1本の矢で複数の兵を倒す妙技を発揮し、敵を近寄せなかったともいう。
駒井源:延享4年(1747年6月12日)- 寛政9年8月8日(1797年9月27日))は、江戸時代中期の絵師。姓は駒井、本姓は源、名はで、駒井源と表記されることも多い。字は子韞(しおん)、通称は幸之助。円山応挙の高弟で、長沢芦雪と共に二哲と評された。芦雪とは対照的に師の画風を最も忠実に継承し、特に清楚な唐美人図で知られる。京都で根付彫り職人の子として生まれる。早くから応挙に学んだと推測され、明和6年(1769年)以降、応挙と共に「駒井」なる者の名が発見できる。現在確認されている最も初期の作品は明和7年(1770年)作の「後三年合戦絵巻」模本(東京富士美術館)が知られているが、20代ではこれと「十二類絵巻」の模写作品しか残っていない。安永4年(1775年)源29歳時の『平安人物誌』では、島田元直と共に掲載されており、応挙門下で早くから頭角を表したことが確認できる。寛政2年(1790年)応挙一門と御所造営に参加する。応挙晩年は体力が衰えた応挙の代わりに絵具を溶いたという。源の晩年も病気がちで、円山派の跡取りで応挙の子・円山応瑞の後見人役を望まれていたが、師を追うように2年後亡くなった。源の早過ぎる死が、後の円山派が振るわない一因になったとも言われる。
本作品の真贋については下記の文章を参考に
偽印章
江戸時代に活躍した文人画家の贋作づくりに使用したとみられるニセ落款が 京都市内で大量に見つかった。 ニセ落款は、俳諧師としても知られる与謝蕪村(1716-83年)をはじめ17人にものぼっており、 専門家は「使い込んだ精巧なニセ印がこれだけ見つかるのは極めて珍しい。
おそらく大正時代の贋作グループが残したものではないだろうか」と話している。
ニセ落款は京都市内で開かれた骨董市で見つかった。 すべて木製で、蕪村のほか、頼山陽らと親交のあった浦上春琴(1779-1846年)、 円山応挙門十哲の一人で唐美人を得意とした駒井源(1747-97年)ら 江戸時代に活躍した有名文人画家たちが中心になっている。 中でも蕪村のニセ落款は、蕪村が40代のころに使用していた雅号「朝滄(ちょうそう)」と刻印されている。 当時の蕪村は、京都のしがらみから逃れ、丹後宮津(京都府宮津市)に滞在して画業に専念していた充実期にあたる。 また春琴のニセ落款「睡庵」は、晩年に用いた雅号で、山水、花鳥画は評価が高い。 それぞれ印の欠け具合なども精巧にまねられている。 大正時代には、江戸期の画家の評価が急速に高まり、高値で売買されていたことから、 無名画家、表具師、画商の三者が共謀した贋作グループが暗躍していた。
「書画鑑定指針」(昭和7年発行)には、与謝蕪村の『梅谿図』が大正12年に8180円、 浦上春琴の『秋景山水』が大正14年に2789円、 駒井源の『楊貴妃』が大正13年に4600円で取引された記録が残っている。 当時は自転車が約70円の時代で、蕪村らの作品は相当高額だったことから、贋作グループに狙われたとみられる。
近世の画家に詳しい明尾圭造・芦屋市立美術博物館学芸課長の話
「大正期にはかなりの数の贋作集団が存在し、現在でも良い表具を身にまとった贋作がたくさん残っている。 使い込まれたニセ落款が、人間の欲を物語っていておもしろい。
・・・・・・・・・・・・インターネットからの情報です。
そのためには相手を知ること・・、相手とは顧客とライバルのこと。
そのためには極力相手のところへ赴くこと、勝負をたくさんすること、勝つ技術を向上させることです。これをず~っと2年半言い続け、実践続け、まだまだ続ける。
これを妨げる最大の難関は後継者作り・・、継続は力なり・・、企業存続は厳しい
本日は真贋はともかく養由基という弓の名人を描いた作品です。
養由基は1本の矢で複数の兵を倒す妙技を発揮し、敵を近寄せなかったともいう。そうなりたいものです。目下的中率(勝率)は3割台
養由基 伝駒井源筆
紙本淡彩 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1920*横610 画サイズ:縦1210*横490
本作品も落款には「寛政丙辰初秋」とあり寛政8年(1976年)秋の描かれた作品であり、源が亡くなる前年49歳の作品と思われますが・・。
養由基:楚国の人であり荘王・共王に丈夫として仕え、射術の妙によって有名となる。その弓勢の強さは甲冑7枚を貫き、蜻蛉の羽根を射ることができ、また100歩離れて柳の葉を射て百発百中であったともいう。楚王はかつて白猿を飼い自分で射てみたが、白猿は飛んでくる矢を捕らえて戯れたので、養由基を召して射させることにした。
養由基が弓をととのえて矢をつがえ、まだ発しないうちに白猿は泣き叫んで木にしがみついたという。また共王が戦に敗れたとき、養由基は1本の矢で複数の兵を倒す妙技を発揮し、敵を近寄せなかったともいう。
駒井源:延享4年(1747年6月12日)- 寛政9年8月8日(1797年9月27日))は、江戸時代中期の絵師。姓は駒井、本姓は源、名はで、駒井源と表記されることも多い。字は子韞(しおん)、通称は幸之助。円山応挙の高弟で、長沢芦雪と共に二哲と評された。芦雪とは対照的に師の画風を最も忠実に継承し、特に清楚な唐美人図で知られる。京都で根付彫り職人の子として生まれる。早くから応挙に学んだと推測され、明和6年(1769年)以降、応挙と共に「駒井」なる者の名が発見できる。現在確認されている最も初期の作品は明和7年(1770年)作の「後三年合戦絵巻」模本(東京富士美術館)が知られているが、20代ではこれと「十二類絵巻」の模写作品しか残っていない。安永4年(1775年)源29歳時の『平安人物誌』では、島田元直と共に掲載されており、応挙門下で早くから頭角を表したことが確認できる。寛政2年(1790年)応挙一門と御所造営に参加する。応挙晩年は体力が衰えた応挙の代わりに絵具を溶いたという。源の晩年も病気がちで、円山派の跡取りで応挙の子・円山応瑞の後見人役を望まれていたが、師を追うように2年後亡くなった。源の早過ぎる死が、後の円山派が振るわない一因になったとも言われる。
本作品の真贋については下記の文章を参考に
偽印章
江戸時代に活躍した文人画家の贋作づくりに使用したとみられるニセ落款が 京都市内で大量に見つかった。 ニセ落款は、俳諧師としても知られる与謝蕪村(1716-83年)をはじめ17人にものぼっており、 専門家は「使い込んだ精巧なニセ印がこれだけ見つかるのは極めて珍しい。
おそらく大正時代の贋作グループが残したものではないだろうか」と話している。
ニセ落款は京都市内で開かれた骨董市で見つかった。 すべて木製で、蕪村のほか、頼山陽らと親交のあった浦上春琴(1779-1846年)、 円山応挙門十哲の一人で唐美人を得意とした駒井源(1747-97年)ら 江戸時代に活躍した有名文人画家たちが中心になっている。 中でも蕪村のニセ落款は、蕪村が40代のころに使用していた雅号「朝滄(ちょうそう)」と刻印されている。 当時の蕪村は、京都のしがらみから逃れ、丹後宮津(京都府宮津市)に滞在して画業に専念していた充実期にあたる。 また春琴のニセ落款「睡庵」は、晩年に用いた雅号で、山水、花鳥画は評価が高い。 それぞれ印の欠け具合なども精巧にまねられている。 大正時代には、江戸期の画家の評価が急速に高まり、高値で売買されていたことから、 無名画家、表具師、画商の三者が共謀した贋作グループが暗躍していた。
「書画鑑定指針」(昭和7年発行)には、与謝蕪村の『梅谿図』が大正12年に8180円、 浦上春琴の『秋景山水』が大正14年に2789円、 駒井源の『楊貴妃』が大正13年に4600円で取引された記録が残っている。 当時は自転車が約70円の時代で、蕪村らの作品は相当高額だったことから、贋作グループに狙われたとみられる。
近世の画家に詳しい明尾圭造・芦屋市立美術博物館学芸課長の話
「大正期にはかなりの数の贋作集団が存在し、現在でも良い表具を身にまとった贋作がたくさん残っている。 使い込まれたニセ落款が、人間の欲を物語っていておもしろい。
・・・・・・・・・・・・インターネットからの情報です。