年始に亡くなった妻の郷里の菩提寺を訪ねると位牌堂が新しく建て直されており、住職に新しくなった位牌堂を案内していただきました。その位牌堂の天井絵を描いた画家のひとりに池上秀畝がいます。時間がなくどの絵を池上秀畝が描いたかまではしっかり見られませんでしたが、今度の休暇にはしっかり見てこようかと思っています。
位牌堂にては亡くなった妻の実家が地元の本家ということもあり、位牌堂の中で場所はいいところに位牌が安置されています。天井絵はうまく撮影できなかったので後日改めて撮影させていただこうと思います。
さてそこで本日は池上秀畝の作品の紹介です。
柳ニ五位鷺 池上秀畝筆 その5
絹本水墨淡彩 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦2210*横663 画サイズ:縦1370*横522
五位鷺の名は「平家物語」(巻第五 朝敵揃)の作中において、醍醐天皇の宣旨に従い捕らえられたため正五位を与えられたという故事が和名の由来になっています。
『平家物語』(巻五 朝敵揃):昔は宣旨を向かって読みければ、枯れたる草木もたちまちに花咲き実なり、飛ぶ鳥も従ひき。近頃のことぞかし。延喜の帝神泉苑へ行幸なつて、池の汀に鷺の居たりけるを、六位を召して、「あの鷺捕ってまゐれ」と仰せければ、いかんが捕らるべきとは思へども、綸言なれば歩み向かふ。鷺羽づくろひして立たんとす。「宣旨ぞ」と仰すれば、ひらんで飛び去らず。すなはちこれを捕ってまゐらせたりければ、「汝が宣旨に従ひてまゐりたるこそ神妙なれ。やがて五位になせ」とて、鷺を五位にぞなされける。今日より後、鷺の中の王たるべしといふ御札を、みづから遊ばいて、頸かけてぞ放たせたまふ。まつたくこれは鷺の御料にはあらず、ただ王威の程を知ろ示さんがためなり。
意味:天皇が御所の南に造営された神泉苑に行幸されたとき、水際に鷺がいたので、六位の側近に捕らえるように命じられました。鷺は飛び立とうとしたのですが、天皇の御命令であるぞと言うと、畏まって捕らえられたので、天皇はお喜びになり、五位の位を授けられました。そして鷺の中の王という札を頸にかけて放したというのです。この逸話は王威の盛んなことを示すためであったと思われます。自然さえ王威に靡く程に勢いがあったことを物語るものとして、挿入されたものと推察sれています。延喜の帝とは醍醐天皇のことで、古来、天皇親政が行われた理想的な時代と理解されてきました。たしかに政務を代行する摂政官爆破空位でしたから、形式的には天皇親政に見えますが、実際には左大臣藤原時平が右大臣菅原道真を大宰府に左遷して、実権を握っていました。それでも最後の班田が行われたり、『延喜式』の編纂が行われたり、銭貨の鋳造をするなど、律令体制債権のための最後の努力がなされた時期でもありましたから、後世にはそのように王威を美化して伝えられたのでしょう。
ちなみに「六位」と呼ばれた側近は、おそらく「六位の蔵人」のことでしょう。普通は五位以上が昇殿を許される、所謂貴族なのですが、天皇の側近を務める六位の蔵人は、六位ではあっても特別に昇殿が許されました。ですから六位の蔵人は特例ですが、一般には六位と五位とでは、単に一ランク違うということではなく、昇殿を許されるか否かという、大変大きな差異がありました。その五位に鷺が与えられたと言うことは、特別なことだったのでしょう。そして鷺を捕らえた六位の蔵人が五位に昇進するというおまけまで付きました。
優雅という点では、ゴイサギは白鷺に劣るかもしれません。夜間、飛翔中に「クワッ」とカラスのような大きな声で鳴くことから「ヨガラス(夜烏)」と呼ぶ地方があります。昼も夜も周回飛翔をして、水辺の茂みに潜んでいます。
池上秀畝の鷺を描いた本作品は代表作といっていいでしょう。
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池上秀畝:長野県上伊那郡高遠町(現在の伊那市)に紙商兼小間物屋の次男として生れる。本名は國三郎。祖父池上休柳は、家業は番頭に任せて高遠藩御用絵師に狩野派を学び、慶応2年(1866年)には自らの画論『松柳問答』を刊行、その翌年亡くなっている。
父池上秀華も、岡本豊彦から四条派を学び、祖父と同様、俳句や短歌を詠み、茶道や華道に凝るといった趣味三昧の生活ぶりだったという。のちに秀畝が口述筆記させた自伝では、生まれた時からこのような環境だったので、絵の描き方を自然に覚えたと語っている。
明治22年(1889年)15歳で小学校を卒業後、本格的に絵師になるために父と共に上京。瀧和亭、川辺御楯を訪ねるが父は気に入らず、結局親戚から紹介され当時無名だった荒木寛畝の最初の門人・内弟子となり文人画を学ぶ。
明治39年(1906年)同じ門下生の大岡豊子(緑畝)と結婚。同年、詩画堂塾と称していた寛畝塾は、新たに詩画会を起こし、太平洋戦争で自然解散する昭和17年まで続けられるが、秀畝はその中心人物となる。
1916年から3年連続で文展特選となるも、1918年同志と共に新結社を結び、文展審査に不満を示し、文展改革の口火を切る。1919年、発足したばかりの帝展で無鑑査となる。1933年、帝展審査員。伝神洞画塾を主宰し後進の指導に尽力した。
晩年になっても力作を次々と発表したが、第二次世界大戦のさなか狭心症にて70歳で没する。戒名は清高院殿韓山秀畝大居士。谷中霊園に葬られ、菩提寺はその近くの天台宗東叡山津梁院。昭和25年(1950年)伊那公園に、池上家三代の絵師を顕彰する『画人三代碑』が建てられた。
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秀畝が描いた鷺は極めて写実的です。あえて例えるなら「鷺の肖像画」とでも言えば良いでしょうか、その写実力の精度の高さには唸らされるばかりです。
当方で現在所蔵している作品には下記の作品があります。
鵜 池上秀畝筆
紙本水墨淡彩 軸先象牙 堀田秀叢鑑定箱
全体サイズ:縦2145*横405 画サイズ:縦1250*横270
月下双雁 池上秀畝筆
絹本着色絹装軸 合箱
画サイズ:横413*縦1117
白衣大士像 池上秀畝筆
紙本水墨淡彩 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦2060*横420 画サイズ:縦1250*横300
展示室に飾られた写真は下記の写真です。
手前は古信楽壷(室町時代)です。
位牌堂にては亡くなった妻の実家が地元の本家ということもあり、位牌堂の中で場所はいいところに位牌が安置されています。天井絵はうまく撮影できなかったので後日改めて撮影させていただこうと思います。
さてそこで本日は池上秀畝の作品の紹介です。
柳ニ五位鷺 池上秀畝筆 その5
絹本水墨淡彩 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦2210*横663 画サイズ:縦1370*横522
五位鷺の名は「平家物語」(巻第五 朝敵揃)の作中において、醍醐天皇の宣旨に従い捕らえられたため正五位を与えられたという故事が和名の由来になっています。
『平家物語』(巻五 朝敵揃):昔は宣旨を向かって読みければ、枯れたる草木もたちまちに花咲き実なり、飛ぶ鳥も従ひき。近頃のことぞかし。延喜の帝神泉苑へ行幸なつて、池の汀に鷺の居たりけるを、六位を召して、「あの鷺捕ってまゐれ」と仰せければ、いかんが捕らるべきとは思へども、綸言なれば歩み向かふ。鷺羽づくろひして立たんとす。「宣旨ぞ」と仰すれば、ひらんで飛び去らず。すなはちこれを捕ってまゐらせたりければ、「汝が宣旨に従ひてまゐりたるこそ神妙なれ。やがて五位になせ」とて、鷺を五位にぞなされける。今日より後、鷺の中の王たるべしといふ御札を、みづから遊ばいて、頸かけてぞ放たせたまふ。まつたくこれは鷺の御料にはあらず、ただ王威の程を知ろ示さんがためなり。
意味:天皇が御所の南に造営された神泉苑に行幸されたとき、水際に鷺がいたので、六位の側近に捕らえるように命じられました。鷺は飛び立とうとしたのですが、天皇の御命令であるぞと言うと、畏まって捕らえられたので、天皇はお喜びになり、五位の位を授けられました。そして鷺の中の王という札を頸にかけて放したというのです。この逸話は王威の盛んなことを示すためであったと思われます。自然さえ王威に靡く程に勢いがあったことを物語るものとして、挿入されたものと推察sれています。延喜の帝とは醍醐天皇のことで、古来、天皇親政が行われた理想的な時代と理解されてきました。たしかに政務を代行する摂政官爆破空位でしたから、形式的には天皇親政に見えますが、実際には左大臣藤原時平が右大臣菅原道真を大宰府に左遷して、実権を握っていました。それでも最後の班田が行われたり、『延喜式』の編纂が行われたり、銭貨の鋳造をするなど、律令体制債権のための最後の努力がなされた時期でもありましたから、後世にはそのように王威を美化して伝えられたのでしょう。
ちなみに「六位」と呼ばれた側近は、おそらく「六位の蔵人」のことでしょう。普通は五位以上が昇殿を許される、所謂貴族なのですが、天皇の側近を務める六位の蔵人は、六位ではあっても特別に昇殿が許されました。ですから六位の蔵人は特例ですが、一般には六位と五位とでは、単に一ランク違うということではなく、昇殿を許されるか否かという、大変大きな差異がありました。その五位に鷺が与えられたと言うことは、特別なことだったのでしょう。そして鷺を捕らえた六位の蔵人が五位に昇進するというおまけまで付きました。
優雅という点では、ゴイサギは白鷺に劣るかもしれません。夜間、飛翔中に「クワッ」とカラスのような大きな声で鳴くことから「ヨガラス(夜烏)」と呼ぶ地方があります。昼も夜も周回飛翔をして、水辺の茂みに潜んでいます。
池上秀畝の鷺を描いた本作品は代表作といっていいでしょう。
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池上秀畝:長野県上伊那郡高遠町(現在の伊那市)に紙商兼小間物屋の次男として生れる。本名は國三郎。祖父池上休柳は、家業は番頭に任せて高遠藩御用絵師に狩野派を学び、慶応2年(1866年)には自らの画論『松柳問答』を刊行、その翌年亡くなっている。
父池上秀華も、岡本豊彦から四条派を学び、祖父と同様、俳句や短歌を詠み、茶道や華道に凝るといった趣味三昧の生活ぶりだったという。のちに秀畝が口述筆記させた自伝では、生まれた時からこのような環境だったので、絵の描き方を自然に覚えたと語っている。
明治22年(1889年)15歳で小学校を卒業後、本格的に絵師になるために父と共に上京。瀧和亭、川辺御楯を訪ねるが父は気に入らず、結局親戚から紹介され当時無名だった荒木寛畝の最初の門人・内弟子となり文人画を学ぶ。
明治39年(1906年)同じ門下生の大岡豊子(緑畝)と結婚。同年、詩画堂塾と称していた寛畝塾は、新たに詩画会を起こし、太平洋戦争で自然解散する昭和17年まで続けられるが、秀畝はその中心人物となる。
1916年から3年連続で文展特選となるも、1918年同志と共に新結社を結び、文展審査に不満を示し、文展改革の口火を切る。1919年、発足したばかりの帝展で無鑑査となる。1933年、帝展審査員。伝神洞画塾を主宰し後進の指導に尽力した。
晩年になっても力作を次々と発表したが、第二次世界大戦のさなか狭心症にて70歳で没する。戒名は清高院殿韓山秀畝大居士。谷中霊園に葬られ、菩提寺はその近くの天台宗東叡山津梁院。昭和25年(1950年)伊那公園に、池上家三代の絵師を顕彰する『画人三代碑』が建てられた。
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秀畝が描いた鷺は極めて写実的です。あえて例えるなら「鷺の肖像画」とでも言えば良いでしょうか、その写実力の精度の高さには唸らされるばかりです。
当方で現在所蔵している作品には下記の作品があります。
鵜 池上秀畝筆
紙本水墨淡彩 軸先象牙 堀田秀叢鑑定箱
全体サイズ:縦2145*横405 画サイズ:縦1250*横270
月下双雁 池上秀畝筆
絹本着色絹装軸 合箱
画サイズ:横413*縦1117
白衣大士像 池上秀畝筆
紙本水墨淡彩 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦2060*横420 画サイズ:縦1250*横300
展示室に飾られた写真は下記の写真です。
手前は古信楽壷(室町時代)です。