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平福百穂はよく鶴を描いた作品を遺していますが、本日紹介する作品は色紙程度の大きさの小作品です。
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汀之鶴 平福百穂筆 昭和5年頃
紙本水墨軸装 軸先象牙 平福一郎鑑定箱 塗二重箱
全体サイズ:横460*縦1935 画サイズ:横210*縦240
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落款や印章、そして筆致から晩年の昭和時代の作品と推定しています。
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平福百穂の大きな作品はなかなか市場に出回らず、このような小作品程度の作品は市場によくあります。お値段は数万円程度で入手可能ですね。残念ながら共箱ではなく、子息で長男の平福一郎の鑑定箱に収納されています。塗の共箱に納められています。
*平福百穂の所定鑑定人である長男の平福一郎は東大医科卒の医師で、河北総合病院、自衛隊病院の院長を務めています。
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作品中に押印されている印章は「三宿艸堂 (三宿草堂)」(白文朱方印)ですが、この印の「三宿」は本ブログにてすでに他の記事で記述されているように、1919年(大正8年)に 東京世田谷三宿(みしゅく)に画室を設けたことによるのだろうと思います。ただしこの際に用いた画塾名は「白田舎」であり、この名の印はまた別にあります。この印を押印し始めたのは1927年(昭和2年)1月、さらに新居を落成し移転した頃からかもしれません。
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上記写真の鑑定箱書は子息の平福一郎によるのですが、平福一郎の鑑定箱書きにも贋作がありますので要注意です。凝った?ものには工藝印刷の良くできた作品にこの贋の鑑定箱に入れた作品もありますし、本物の箱に工藝作品を入れている作品もあります。工芸品であるが、正当な工芸品として「平福一郎識」という箱書を鑑定書として誤解(意図的か?)されている方もいます。
ところで平福百穂の作品に「荒磯」(大正15年作)という著名な作品がありますが、本作品と同時頃に描いた「荒磯」という作品が昭和4年に大倉喜七郎(大倉財閥2代目総帥)から当時のイタリアの首相ムッソリーニに贈られています。そういう時代であったのですね・・![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_5.gif)
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