夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

波上白衣観音圖 天野方壷筆 明治12年 その8

2022-07-25 00:01:00 | 掛け軸
本日は久しぶりに天野方壷の作品の紹介です。すでに本ブログでは天野方壺の観音像を描いた作品は2点紹介されていますが、再評価されるべき画家の一人であろうと当方では推察しています。

天野方壺と交際のあった文人画の巨匠、富岡鉄斎は、私的な筆録(メモ帳)の中で方壷のことを 「画匠」と記していて、かなり高く評価していたことが窺えます。鉄斎といえば「萬巻の書を読み万里の路を行く」を座右の銘として、全国を旅行しましたが、この「万里を行く」(放浪)に関して方壷は鉄斎を凌駕しているかもしれません。



ちなみに天野方壺ほとんど日本全国に足跡を残してますが、明治8年52歳になってようやく京都に居を構え定住しました。定住したのちは、四季の草花を栽培しこれを売って生計を営み、売花翁と号していたほか、京都府画学校(現在 京都市立芸術大学)に出仕を命じられたり、内国絵画共進会に出品したりしながらもやはり歴遊を続け、明治28年旅先の岐阜で逝去しました。享年72歳でした。

波上白衣観音圖 天野方壷筆 明治12年 その8
絖本水墨淡彩軸装 中国風表具 題書杉箱
全体サイズ:縦1880*横545 画サイズ:縦1460*横415

 

愛媛県美術館には天野方壺の作品が42点所蔵されております。平成16年は方壷生誕180年に当たり、これに因んで当美術館分館の萬翠荘において7月17日から8月29日の間展覧会が開催され作品20点が展示されました。



また平成15年の10月3日から12月25日まで福島県の桑折町種徳美術館において天野方壷展が開催され、作品13点が公開されました。



天野方壺は35歳の時、那須山の温泉で洪水に見舞われ、溺死しかかったのですが九死に一生を得ています。しかし、この時携えていた粉本、真景などをことごとく失っています。また、49歳の時東京に寓居中火災に会い、粉本をことごとく焼失しました。那須山の温泉で洪水では死者百余名とされており、このような経験が観音像を描く動機になっているかもしれません。



「魔訶般若波羅密多心経」の賛の最後の落款部分には「明治一二年第五□謹冩 詩書於雲?州松江客次江月一窓斎 白雲外史 方壺和南 押印」とあります。天野方壷は1824年生まれであるから56歳の頃に作となります。



天野方壺は画号としては方壷のほか、盈甫、三津漁者,銭幹、真々,石樵、銭岳、雲眠、白雲外史など多数あり、時々に自分の心境に合った号を付け、楽しんでいたものと思われます。

 

この作品は絖本に描かれた作品で力作なのでしょう。印章も通常よりも多く押印されています。

 

ところで天野方壺(ほうこ)は謎の多い画人とされます。三津の出身であることはたしかとされますが、生涯の事跡については伝説の域を出ないものが多いらしいです。方壺については通説として次のようなことが伝えられています。
「生年は文政11年(1828)。名は俊、通称太吉(別説では吉太)、号は葛竹城、景山山本(大山)、雪眠、方壺、壺道人、白雲外史。若くして三津の絵師、森田樵眠の指導を受け、のち上洛。京都画壇の大御所、中林竹洞の門下に入る。竹洞の没後、30歳のころ、中国に渡り、明・清文人画最後の大家といわれる胡公寿に師事。以後、中国への遊学は数回に及ぶ。英照皇太后(孝明天皇妃)より揮毫を命ぜられたこともあるという。明治27年(1894)12月27日(別説では26日)、岐阜に没す。墓は京都下加茂霊厳寺。」

ところが研究者によると、墓があるとされる霊厳寺という寺は存在せず、岐阜での死亡も不明、中国への遊学も真偽未詳だそうです。
研究者が探索したところでは、次のような諸点が方壺の事歴として挙げられるそうですが・・・。
①三津の新町にあった天野姓の問屋「天清」「天元」「天惣」のうち方壺の出は「天惣」であろうということ。
②23歳頃、三津を出て旅絵師となったということ(方壺作《高浜興居島附近真景図》の賛からの推定)。
③富岡鉄斎と交流があり、鉄斎宅(京都室町通一条下ル薬屋町)から遠くないところに居を構えていたということ。
④明治19年に一時帰郷して三津の豪商(近藤家、川崎屋など)のもとめに応じた作品をいくつか残しているということ。
このように方壺の生涯で今日把握できるのはこうした断片的な事柄とされています。

天野方壺の作品は山水、花鳥、人物、いずれも俗塵を離れ、気宇広大で自在の境をゆくものであると評されていますが、それらの作品は岐阜県内だけでなく、全国各地に散在していて見る機会を得るのは難しいです。松山城天守閣に方壺の代表作《山水花卉図屏風》(六曲一双・明治19年)が長期にわたって展示されていましたが、平成18年に展示終了となっています。

*詳しくは「文人画家天野方壺履歴の概説」という資料があります。

当方では天野方壺の良さそうな作品を蒐集していますが、本日の作品で8作品目となりました。その中で観音像が描かれた他の2作品にも「魔訶般若波羅密多心経」が書かれています。

瀧見(観瀑)観世音像図 天野方壷筆 明治20年 その5
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 極箱
全体サイズ:縦2130*横680 画サイズ:縦1450*横410

 

この作品の賛は左写真で、本日の作品は右写真となります。

 

もう一点は最晩年の作となります。

瀧見観世音像図 天野方壷筆 明治26年 その1
絹本墨淡彩軸装 軸先塗 合箱
全体サイズ:縦1540*横540 画サイズ:縦1100*横410

 

賛は下記の写真です。



このような観音像と密多心経が一体となった作品は定期的に数多く描いたように推測されますが、妻がいたようですが、その描いた動機の背景はよく解りません。



*天野方壺の資料は少ないので研究レポート類はファイリングしています。



日本画の歴史はなにも著名な画家たちばかりの世界ではないようですね。いろんな画歴を調べることが、それを受け継いでいくことが蒐集家達の役目だとも思います。



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