息子にひと部屋を明け渡す準備中です。日常使っていた食器棚を整理してると平野庫太郎氏のコーヒーカップのお皿が出てきました。カップだけ使用していたので皿だけを失念していたようです。
平野庫太郎氏のこの作品はとても人気が高いものでしたが、まとめて注文しても五客揃えるのが大変でした。こだわりのある先生はちょっとでも不揃いだと売ってくれませんでした。さらには使用後に目立ってくる貫入が気に入らず、貫入の入らない同じような練り込みのコーヒーカップを製作していましたが、小生には入手できないうちに先生は亡くなってしまいました。
上記は亡くなった家内と30年ほど使った津軽塗の椀ですが、これも食器棚から出てきたものです。さすがに磨いてもそれほどきれいにはなりませんでした。
上記の作品は敷用の津軽塗・・・。
きれいに磨いて再利用・・。整理するということは思い出に踏ん切りをつけることでもあり、寂しい感じがするものです。
本日は本ブログで何度か取り上げてきた狩野素川の作品の紹介です。
松双鳥図 狩野素川筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:横435*縦1460 画サイズ:横325*縦540
狩野素川は正式には「狩野章信」というのが本式の名称でしょう。いくつかの作品を本ブログで紹介していますが、久方ぶりの紹介ですので、改めて「狩野章信」の来歴を記すると下記のようになります。
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狩野章信:(かのう おさのぶ)明和2年(1765年)~文政9年10月2日(1826年11月1日)。江戸時代中期から後期に活躍した狩野派の絵師。江戸幕府御用絵師を勤める表絵師浅草猿屋町代地狩野家5代目。
浅草猿屋町代地狩野家は、狩野永徳の弟子・祖酉秀信を祖とする表絵師の家系である。狩野章信は4代目の狩野賢信(かたのぶ)の子。一説では宇多川徳元の子とされる。4代目の(寿石)賢信から浅草猿屋町代地狩野家を継いだ。
木挽町(こびきちょう)狩野家の伊川に匹敵する実力者といわれた。文政9年10月2日死去。62歳。名は彰信。通称は仙次郎,外記。別号に大玄斎。
文献資料には下記のものがあります。
1800年(寛政12年)数え36歳で若隠居し、花街での遊蕩を好んだ。吉原の老妓の門弟も多かったという。粉本に依らない軽妙洒脱な画風で人気を博し、当時の狩野派内で最も有力だった狩野栄信のライバルと言われた。居宅に高楼を建てる趣味人で、『画道伝授口訣』という著作もある。
号について
幼名は仙次郎、のち外記。名は彰信、50代で章信と改める。号は大玄齋、素川(そせん)だが、章信と署名するようになってからは、両者とも用いなくなったという。
狩野派にありながら浮世絵美人画にも学んだ、洒脱で機知に富んだ独特の画風は「素川風」と評された。章信はいつも手ぬぐいを頭に被り脱がなかったという逸話が残りますが、これは田沼候に招かれる際の出来事が元になっているという。自分は寒がりなので頭巾を外せないが、それでも良ければ参上すると答のが認められ、諸人がこれを真似たという。文政9年(1826年)死去、62歳。
弟子に、6代目の寿石圭信、川越城の杉戸絵を手掛けた舩津蘭山など。また、増上寺の「五百羅漢図」で知られる狩野一信も章信に学んだと言われる。
*なお狩野派にはもうひとり「素川」と号する画家がいます。全くの別人です。
狩野信政:(かのう-のぶまさ) 1607~1658 江戸時代前期の画家。慶長12年生まれ。狩野祖酉(そゆう)の長男。狩野孝信の娘婿,のち探幽の娘婿となる。東福門院の御用絵師をつとめ,代表作に聖衆来迎寺客殿の障壁画がある。明暦4年4月15日死去。52歳。通称は外記。号は素川。
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幼名は仙次郎、のち外記。名は彰信、50代で章信と改めており、号は大玄齋、素川(そせん)ですが、章信と署名するようになってからは、両者とも用いなくなったとされています。狩野素川の作品は50歳代からは「狩野彰信」として覚えておく必要がありますね。
本作品は落款に「狩野素川」とあることから、50歳代で「章信」となる前の作と推定されます。下記の写真左が本作品の落款と印章で、中央と右の写真は上記資料の落款と印章です。印章は一致すると推定して間違いないでしょう。
生存中には著名な画家である木挽町(こびきちょう)狩野家の伊川(狩野栄信)に匹敵する実力者といわれたそうです。本ブログにも狩野栄信の作品は紹介されていますが、概略の来歴は下記のとおりです。狩野栄信が10歳年上になりますが、活躍した時期はほぼ重複しており、互いにライバル意識はあったのでしょう。
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狩野栄信:(かのう ながのぶ)安永4年8月30日(1775年9月24日)~文政11年7月4日(1828年8月14日)。
江戸時代後期の絵師で、木挽町(こびきちょう)家狩野派8代目の絵師である。幼名は英二郎。号については法眼時代は伊川、法印叙任後は伊川院、玄賞斎。院号と合わせて伊川院栄信と表記されることも多い。
父は狩野惟信。子に木挽町を継いだ長男狩野養信、朝岡氏に養子入りし『古画備考』を著した次男朝岡興禎、浜町狩野家を継いだ五男狩野董川中信、宗家の中橋狩野家に入りフェノロサと親交のあった六男狩野永悳立信がいる。
狩野養川院惟信の子として江戸に生まれる。天明5年(1785年)11歳で奥絵師として勤め始め、享和2年(1802年)に法眼に叙す。文化5年(1808年)父惟信が死ぬと家督を継ぐ。同年、朝鮮通信使への贈答用屏風絵制作の棟梁となり、自身も2双制作する。文化13年(1816年)に法印となる。茶道を能くし、松平不昧の恩顧を受けたといわれる。息子養信の『公用日記』では、能鑑賞会などの公務をしばしばサボって息子に押し付ける、調子のよい一面が記されている。
こうした一方で画才には恵まれたらしく、現存する作品は秀作・力作が多い。中国名画の場面を幾つか組み合わせて一画面を構成し、新画題を作る手法を確立、清代絵画に学んで遠近法をも取り入れて爽快で奥行きある画面空間を作るのに成功している。更に家祖狩野尚信風の瀟洒な水墨画の再興や、長崎派や南蘋派の影響を思わせる極彩色の着色画、大和絵の細密濃彩の画法の積極的な摂取など、次代養信によって展開される要素をすべて準備したと言える。
弟子に菊田伊洲、菊田伊徳など。
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本ブログにて狩野栄信として紹介した作品には下記の作品があります。
夏景山水図双幅 狩野伊川院筆 その2
紙本水墨軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1720*横481 画サイズ:縦904*横363
住吉図 狩野栄信筆 その1
絹本着色淡軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1980*横480 画サイズ:縦1070*横340
狩野素川(章信)と狩野栄信(栄川院)・・・、二人の画風は当時の狩野派を代表する画家ですが、一般的にはまったく違う画風のように評価されるようです。ただ狩野派の画風という観点からすると共通する事項が多くあり、今まで取り上げてきた狩野素川の作品を改めて振り返ってみましょう。
一番最初に紹介した作品は少し大きめの横幅の作品ですが、狩野素川としては真面目?に描いている作品であり、狩野派らしい作品と言えましょう。「夏景山水図双幅 狩野伊川院筆 その2」と共通する点が多いですね。
瀟相八景図 狩野素川筆 その1
絹本水墨淡彩軸装 軸先鹿骨 合箱
全体サイズ:横940*縦1520 画サイズ:横750*横505
下記の作品は橘千蔭による賛のある珍しい作品ですが、即興的に描かれています。洒脱で機知に富んだ独特の画風と言えましょう。
雪松図 狩野素川筆・橘千蔭賛 その2
紙本水墨軸装 軸先木製 所蔵識箱
横310*縦1710 画サイズ:横288*縦960
以下の3作品は依頼されて描いた吉祥図的な作品と思われ、粉本に依らない軽妙洒脱な画風の典型と言えましょう。ただ「住吉図 狩野栄信筆 その1」と似ている構図をとっています。
富岳図 狩野素川筆 その3
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 誂箱
全体サイズ:横350*縦1677 画サイズ:横318*縦905
このような作品は武士階級よりも花街で知り合った人々に依頼されて描いたのかもしれません。
宝舟図 狩野素川筆 その4
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:横430*縦1620 画サイズ:横805*横315
これらの作品は依頼されて描いた吉祥図のように思われますね。
七福神之図 三幅対 狩野素川筆 その5
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
各々全体サイズ:横335*縦1660 画サイズ:横840*横320
上記の狩野栄信と狩野素川の両方の作品を観比べてみても共通した狩野派の当時の画風がうかがえます。
また本日の作品は狩野栄信の来歴にあるように当時流行していた「長崎派や南蘋派の影響」の見られる作風です。
互いにライバル心があって、お互いに同じ作行を持っている点が多いと思います。
素人の考えですが、狩野素川(章信)と狩野栄信(栄川院)のライバルという観点から特集してみたら面白いかもしれません。
狩野派の古いしきたりに生きた画家の側面と、常に新しいものを取り入れて飛躍を目指す葛藤があったのでしょう。
本作品は狩野素川の作品の中でも傑出した作品だと思います。しばし展示室にて鑑賞中・・・。
平野庫太郎氏のこの作品はとても人気が高いものでしたが、まとめて注文しても五客揃えるのが大変でした。こだわりのある先生はちょっとでも不揃いだと売ってくれませんでした。さらには使用後に目立ってくる貫入が気に入らず、貫入の入らない同じような練り込みのコーヒーカップを製作していましたが、小生には入手できないうちに先生は亡くなってしまいました。
上記は亡くなった家内と30年ほど使った津軽塗の椀ですが、これも食器棚から出てきたものです。さすがに磨いてもそれほどきれいにはなりませんでした。
上記の作品は敷用の津軽塗・・・。
きれいに磨いて再利用・・。整理するということは思い出に踏ん切りをつけることでもあり、寂しい感じがするものです。
本日は本ブログで何度か取り上げてきた狩野素川の作品の紹介です。
松双鳥図 狩野素川筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:横435*縦1460 画サイズ:横325*縦540
狩野素川は正式には「狩野章信」というのが本式の名称でしょう。いくつかの作品を本ブログで紹介していますが、久方ぶりの紹介ですので、改めて「狩野章信」の来歴を記すると下記のようになります。
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狩野章信:(かのう おさのぶ)明和2年(1765年)~文政9年10月2日(1826年11月1日)。江戸時代中期から後期に活躍した狩野派の絵師。江戸幕府御用絵師を勤める表絵師浅草猿屋町代地狩野家5代目。
浅草猿屋町代地狩野家は、狩野永徳の弟子・祖酉秀信を祖とする表絵師の家系である。狩野章信は4代目の狩野賢信(かたのぶ)の子。一説では宇多川徳元の子とされる。4代目の(寿石)賢信から浅草猿屋町代地狩野家を継いだ。
木挽町(こびきちょう)狩野家の伊川に匹敵する実力者といわれた。文政9年10月2日死去。62歳。名は彰信。通称は仙次郎,外記。別号に大玄斎。
文献資料には下記のものがあります。
1800年(寛政12年)数え36歳で若隠居し、花街での遊蕩を好んだ。吉原の老妓の門弟も多かったという。粉本に依らない軽妙洒脱な画風で人気を博し、当時の狩野派内で最も有力だった狩野栄信のライバルと言われた。居宅に高楼を建てる趣味人で、『画道伝授口訣』という著作もある。
号について
幼名は仙次郎、のち外記。名は彰信、50代で章信と改める。号は大玄齋、素川(そせん)だが、章信と署名するようになってからは、両者とも用いなくなったという。
狩野派にありながら浮世絵美人画にも学んだ、洒脱で機知に富んだ独特の画風は「素川風」と評された。章信はいつも手ぬぐいを頭に被り脱がなかったという逸話が残りますが、これは田沼候に招かれる際の出来事が元になっているという。自分は寒がりなので頭巾を外せないが、それでも良ければ参上すると答のが認められ、諸人がこれを真似たという。文政9年(1826年)死去、62歳。
弟子に、6代目の寿石圭信、川越城の杉戸絵を手掛けた舩津蘭山など。また、増上寺の「五百羅漢図」で知られる狩野一信も章信に学んだと言われる。
*なお狩野派にはもうひとり「素川」と号する画家がいます。全くの別人です。
狩野信政:(かのう-のぶまさ) 1607~1658 江戸時代前期の画家。慶長12年生まれ。狩野祖酉(そゆう)の長男。狩野孝信の娘婿,のち探幽の娘婿となる。東福門院の御用絵師をつとめ,代表作に聖衆来迎寺客殿の障壁画がある。明暦4年4月15日死去。52歳。通称は外記。号は素川。
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幼名は仙次郎、のち外記。名は彰信、50代で章信と改めており、号は大玄齋、素川(そせん)ですが、章信と署名するようになってからは、両者とも用いなくなったとされています。狩野素川の作品は50歳代からは「狩野彰信」として覚えておく必要がありますね。
本作品は落款に「狩野素川」とあることから、50歳代で「章信」となる前の作と推定されます。下記の写真左が本作品の落款と印章で、中央と右の写真は上記資料の落款と印章です。印章は一致すると推定して間違いないでしょう。
生存中には著名な画家である木挽町(こびきちょう)狩野家の伊川(狩野栄信)に匹敵する実力者といわれたそうです。本ブログにも狩野栄信の作品は紹介されていますが、概略の来歴は下記のとおりです。狩野栄信が10歳年上になりますが、活躍した時期はほぼ重複しており、互いにライバル意識はあったのでしょう。
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狩野栄信:(かのう ながのぶ)安永4年8月30日(1775年9月24日)~文政11年7月4日(1828年8月14日)。
江戸時代後期の絵師で、木挽町(こびきちょう)家狩野派8代目の絵師である。幼名は英二郎。号については法眼時代は伊川、法印叙任後は伊川院、玄賞斎。院号と合わせて伊川院栄信と表記されることも多い。
父は狩野惟信。子に木挽町を継いだ長男狩野養信、朝岡氏に養子入りし『古画備考』を著した次男朝岡興禎、浜町狩野家を継いだ五男狩野董川中信、宗家の中橋狩野家に入りフェノロサと親交のあった六男狩野永悳立信がいる。
狩野養川院惟信の子として江戸に生まれる。天明5年(1785年)11歳で奥絵師として勤め始め、享和2年(1802年)に法眼に叙す。文化5年(1808年)父惟信が死ぬと家督を継ぐ。同年、朝鮮通信使への贈答用屏風絵制作の棟梁となり、自身も2双制作する。文化13年(1816年)に法印となる。茶道を能くし、松平不昧の恩顧を受けたといわれる。息子養信の『公用日記』では、能鑑賞会などの公務をしばしばサボって息子に押し付ける、調子のよい一面が記されている。
こうした一方で画才には恵まれたらしく、現存する作品は秀作・力作が多い。中国名画の場面を幾つか組み合わせて一画面を構成し、新画題を作る手法を確立、清代絵画に学んで遠近法をも取り入れて爽快で奥行きある画面空間を作るのに成功している。更に家祖狩野尚信風の瀟洒な水墨画の再興や、長崎派や南蘋派の影響を思わせる極彩色の着色画、大和絵の細密濃彩の画法の積極的な摂取など、次代養信によって展開される要素をすべて準備したと言える。
弟子に菊田伊洲、菊田伊徳など。
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本ブログにて狩野栄信として紹介した作品には下記の作品があります。
夏景山水図双幅 狩野伊川院筆 その2
紙本水墨軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1720*横481 画サイズ:縦904*横363
住吉図 狩野栄信筆 その1
絹本着色淡軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1980*横480 画サイズ:縦1070*横340
狩野素川(章信)と狩野栄信(栄川院)・・・、二人の画風は当時の狩野派を代表する画家ですが、一般的にはまったく違う画風のように評価されるようです。ただ狩野派の画風という観点からすると共通する事項が多くあり、今まで取り上げてきた狩野素川の作品を改めて振り返ってみましょう。
一番最初に紹介した作品は少し大きめの横幅の作品ですが、狩野素川としては真面目?に描いている作品であり、狩野派らしい作品と言えましょう。「夏景山水図双幅 狩野伊川院筆 その2」と共通する点が多いですね。
瀟相八景図 狩野素川筆 その1
絹本水墨淡彩軸装 軸先鹿骨 合箱
全体サイズ:横940*縦1520 画サイズ:横750*横505
下記の作品は橘千蔭による賛のある珍しい作品ですが、即興的に描かれています。洒脱で機知に富んだ独特の画風と言えましょう。
雪松図 狩野素川筆・橘千蔭賛 その2
紙本水墨軸装 軸先木製 所蔵識箱
横310*縦1710 画サイズ:横288*縦960
以下の3作品は依頼されて描いた吉祥図的な作品と思われ、粉本に依らない軽妙洒脱な画風の典型と言えましょう。ただ「住吉図 狩野栄信筆 その1」と似ている構図をとっています。
富岳図 狩野素川筆 その3
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 誂箱
全体サイズ:横350*縦1677 画サイズ:横318*縦905
このような作品は武士階級よりも花街で知り合った人々に依頼されて描いたのかもしれません。
宝舟図 狩野素川筆 その4
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:横430*縦1620 画サイズ:横805*横315
これらの作品は依頼されて描いた吉祥図のように思われますね。
七福神之図 三幅対 狩野素川筆 その5
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
各々全体サイズ:横335*縦1660 画サイズ:横840*横320
上記の狩野栄信と狩野素川の両方の作品を観比べてみても共通した狩野派の当時の画風がうかがえます。
また本日の作品は狩野栄信の来歴にあるように当時流行していた「長崎派や南蘋派の影響」の見られる作風です。
互いにライバル心があって、お互いに同じ作行を持っている点が多いと思います。
素人の考えですが、狩野素川(章信)と狩野栄信(栄川院)のライバルという観点から特集してみたら面白いかもしれません。
狩野派の古いしきたりに生きた画家の側面と、常に新しいものを取り入れて飛躍を目指す葛藤があったのでしょう。
本作品は狩野素川の作品の中でも傑出した作品だと思います。しばし展示室にて鑑賞中・・・。