贋作考
青磁茶碗 伝板谷波山作
共箱
口径135~136*高台径60*高さ79
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板谷 波山(いたや はざん):1872年4月10日〈明治5年3月3日〉~1963年〈昭和38年〉10月10日)。明治後期から昭和中期にかけて活動した日本の陶芸家。本名は板谷嘉七。号は、始め「勤川」、のち「波山」。「勤川」は故郷を流れる五行川の別名「勤行川(ごんぎょうがわ)」に、「波山」は故郷の名山である「筑波山」に因む。日本の近代陶芸の開拓者であり、陶芸家としては初の文化勲章受章者である。理想の陶磁器づくりのためには一切の妥協を許さなかった波山の生涯は映画化もされている。日本の陶芸は縄文時代からの長い歴史をもつが、「職人」ではない「芸術家」としての「陶芸家」が登場するのは近代になってからであった。波山は、正規の美術教育を受けた「アーティスト」としての陶芸家としては、日本におけるのちの最も初期の存在である。陶芸家の社会的地位を高め、日本近代陶芸の発達を促した先覚者として高く評価されている。
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板谷波山こと板谷嘉七は、1872年(明治5年)、茨城県真壁郡の下館城下(町制施行前の真壁郡下館町字田町、現在の筑西市甲866番地)にて、醤油醸造業と雑貨店を営む旧家・板谷家の主人であり、商才のみならず文化人としても多才であった善吉(板谷増太郎善吉)とその妻・宇多(うた)の三男として生まれた。
上京して2年後の1889年(明治22年)9月、18歳の嘉七は東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科に入学し、岡倉覚三(天心)、高村光雲らの指導を受けた。1894年(明治27年)に東京美術学校を卒業した後、1896年(明治29年)、金沢の石川県工業学校に彫刻科の主任教諭として採用された。同校で陶芸の指導を担当するようになった嘉七は、このことをきっかけとしてようやく本格的に作陶に打ち込み始め、1898年(明治31年)もしくは翌1899年(明治32年)には最初の号である「勤川」を名乗り始めた。
1903年(明治36年)に工業学校の職を辞し、家族と共に上京した彼は、同年11月、東京府北豊島郡滝野川村(現・東京都北区田端)に極めて粗末な住家と窯場小屋を築き、苦しい生活の中で作陶の研究に打ち込み始めた。1906年(明治39年)4月、初窯を焼き上げて好成績を得る。号を「勤川」から終生用いることとなる「波山」に改めたのはこの頃であった。
波山は1908年(明治41年)の日本美術協会展における受賞以来、数々の賞を受賞し、1917年(大正6年)の第57回日本美術協会展では、出品した「珍果花文花瓶」が同展最高の賞である1等賞金牌(きんはい、金メダル)を受賞している。その後、1929年(昭和4年)には帝国美術院会員、1934年(昭和9年)12月3日には帝室技芸員になっている。
第二次世界大戦後の1953年(昭和28年)には陶芸家として初めて文化勲章を受章。1960年(昭和35年)には重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)の候補となるが、これは辞退している。波山の「自分は単なる伝統文化の継承者ではなく、芸術家である」という自負が辞退の理由であったと言われている。
1963年(昭和38年)1月6日、53年の長きにわたって助手を務めてきた片腕というべき轆轤師(ろくろし)・現田市松(げんだ いちまつ)が満78歳(数え年79)で死去すると、波山は仕事の上でも精神的打撃を受けたと見られ、春のうちに病いを得て、4月2日、順天堂病院に入院する。手術を経て6月に退院するも、10月10日、工房のある田端にて生涯を終えた。享年92、満91歳。絶作(最後の作品)となった「椿文茶碗」は没年の作品であり、彼の技巧が死の直前まで衰えていなかったことを示している。墓所はJR山手線田端駅近くの大龍寺境内にある。
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轆轤(ろくろ)師・現田市松
波山の作品には青磁、白磁、彩磁(多色を用いた磁器)などがあるが、いずれも造形や色彩に完璧を期した格調の高いものである。波山の独自の創案によるものに葆光釉(ほこうゆう)という釉(うわぐすり)がある。これは、器の表面に様々な色の顔料で絵付けをした後、全体をマット(つや消し)の不透明釉で被うものである。この技法により、従来の色絵磁器とは異なった、ソフトで微妙な色調や絵画的・幻想的な表現が可能になった。前述の第57回日本美術協会展出品作「珍果文花瓶」もこの技法によるもので、美術学校時代に習得した彫刻技術を生かして模様を薄肉彫で表した後、繊細な筆で絵付けをし、葆光釉をかけたものである。
波山は完璧な器形を追求するため、あえて轆轤師を使っていた。初窯制作期の1903年(明治36年)から中国に招聘される1910年(大正9年)まで勤めた佐賀県有田出身の深海三次郎(ふかみ みつじろう)と、その後任に当たった石川県小松出身の現田市松がそれで、とりわけ現田は波山の晩年に至るまで半世紀以上にわたるパートナーであった。
「珍果文花瓶」は2002年(平成14年)、国の重要文化財に指定された。これは、同年に指定された宮川香山の作品と共に、明治以降の陶磁器としては初めての国の重要文化財指定物件となった。また、茨城県筑西市にある波山の生家は茨城県指定史跡として板谷波山記念館内で保存公開されている。
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観音像・香炉と鳩杖
波山は、東京田端で長きにわたり陶芸品の制作活動に打ち込みながら、生まれ故郷の下館にも想いを寄せ続けていた。故郷に帰省した際には、文化財の修復や保存、工芸展や観能会の開催、小学校の運動会への寄付をしたり、祇園祭のお囃子の伝授を行ったりもしていた。
1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発し、下館の町で戦死者が出始めた(下館から出征した最初の戦死者は波山の実家「板善」の縁者であったといわれる)。波山は各遺族宅へ自ら弔問に訪れ、「忠勇義士」の文字を刻んだ自作の白磁香炉を霊前に供えた(その数は42点にものぼるといわれる)。
その後戦死者はさらに増え続けていったため、波山は香炉の贈呈について中断し、あらためて戦後に自作の白磁観音像を贈ることとし、1951年(昭和26年)4月29日と1956年(昭和31年)7月10日の2回にわたり、故人の名前と波山の銘が記された桐箱に収められた観音坐像が、計271名の遺族へ贈られた。
また1933年(昭和8年)、実家「板善」を継いだ義兄が82才となり、自作の鳩杖を祝物として贈ろうと考えたことをきっかけとして「兄だけでなく故郷旧知の方々にも同じく祝物を」と考え、下館町の80才以上すべての高齢者に自作の鳩杖が贈呈された。こちらも、絹の袋に入れてから桐箱へ収め、さらに熨斗付きの奉書でつつみ水引で結んだものを、自らが一軒一軒を回り、直接本人に手渡している。鳩の部分には鋳物と白磁の2種類あるが「最初は私得意の焼物で鳩を作ろうかと思いましたが疵(きず)でも出来るといけぬと(思い)、合金の鋳物にしました。杖は狂いの出ぬよう南洋産の木を用い、女の方には赤みのところ、男の方には黒味を使いました」と波山は語っている(太平洋戦争中、鋳物から白磁に、桐箱から和紙の袋に変わった)。以来、自らの住まいと窯が東京大空襲で破壊され、故郷へ疎開していたあいだも含めて休むことなく、自らが80才となる1951年(昭和26年)まで私費で毎年続けた。
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良く出来ている青磁のお茶碗ですが、このようなピンホールのある作品を板谷波山が後世に遺したか否かがひっかかります。
ただ伝世の一級の青磁といえどもこのようなピンホールや釉薬の垂れ幕状のものはつきものですが・・。作品への印も見慣れた印とは違う印のようですが、当方ではこの印は確認できていません。
茶碗の参考作品としては下記の作品があります。
参考作品
黒飴釉茶碗 黒飴瓷
2013年01月10日「なんでも鑑定団」出品
「妥協を一切許さず、わずかな傷やムラがあれば打ち壊した。その為1年に発表できる作品はわずか20点ほどであった。波山が目指したものは焼物における絵画性を確立することで、すなわち江戸時代から脈々と受け継がれてきた伝統的な色絵では、明確な輪郭線で絢爛豪華な絵付けを施してきたが、波山はこれを否定し色彩の微妙な変化やグラデーションによる可能性を模索した。」と説明されています。
さらには「昭和10年代の前半、60代半ごろの最も円熟した時期の作品。波山はこの時期になると形を際立たせる為に、ほとんど装飾というものをやめてしまう。箱の表には「黒飴瓷・こくたいじ」とある。飴釉は大変不安定でムラが出来やすい。」と説明されています。
紹介されている記事には下記の天目茶碗がありました。
「形を際立たせる」とはまさに言いえて妙なる作品です。完全無比なる轆轤形成と釉薬の仕上がりです。
作品の表の箱書と本作品と同時期の青磁香炉の落款と印章は下記のとおりです。
上記の箱の写真と比較しても・・・・、 ここまでの贋作ならお見事!
*申し訳ありませんが本日の作品は当方では真作とは断定していない作品です。
青磁茶碗 伝板谷波山作
共箱
口径135~136*高台径60*高さ79
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板谷 波山(いたや はざん):1872年4月10日〈明治5年3月3日〉~1963年〈昭和38年〉10月10日)。明治後期から昭和中期にかけて活動した日本の陶芸家。本名は板谷嘉七。号は、始め「勤川」、のち「波山」。「勤川」は故郷を流れる五行川の別名「勤行川(ごんぎょうがわ)」に、「波山」は故郷の名山である「筑波山」に因む。日本の近代陶芸の開拓者であり、陶芸家としては初の文化勲章受章者である。理想の陶磁器づくりのためには一切の妥協を許さなかった波山の生涯は映画化もされている。日本の陶芸は縄文時代からの長い歴史をもつが、「職人」ではない「芸術家」としての「陶芸家」が登場するのは近代になってからであった。波山は、正規の美術教育を受けた「アーティスト」としての陶芸家としては、日本におけるのちの最も初期の存在である。陶芸家の社会的地位を高め、日本近代陶芸の発達を促した先覚者として高く評価されている。
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板谷波山こと板谷嘉七は、1872年(明治5年)、茨城県真壁郡の下館城下(町制施行前の真壁郡下館町字田町、現在の筑西市甲866番地)にて、醤油醸造業と雑貨店を営む旧家・板谷家の主人であり、商才のみならず文化人としても多才であった善吉(板谷増太郎善吉)とその妻・宇多(うた)の三男として生まれた。
上京して2年後の1889年(明治22年)9月、18歳の嘉七は東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科に入学し、岡倉覚三(天心)、高村光雲らの指導を受けた。1894年(明治27年)に東京美術学校を卒業した後、1896年(明治29年)、金沢の石川県工業学校に彫刻科の主任教諭として採用された。同校で陶芸の指導を担当するようになった嘉七は、このことをきっかけとしてようやく本格的に作陶に打ち込み始め、1898年(明治31年)もしくは翌1899年(明治32年)には最初の号である「勤川」を名乗り始めた。
1903年(明治36年)に工業学校の職を辞し、家族と共に上京した彼は、同年11月、東京府北豊島郡滝野川村(現・東京都北区田端)に極めて粗末な住家と窯場小屋を築き、苦しい生活の中で作陶の研究に打ち込み始めた。1906年(明治39年)4月、初窯を焼き上げて好成績を得る。号を「勤川」から終生用いることとなる「波山」に改めたのはこの頃であった。
波山は1908年(明治41年)の日本美術協会展における受賞以来、数々の賞を受賞し、1917年(大正6年)の第57回日本美術協会展では、出品した「珍果花文花瓶」が同展最高の賞である1等賞金牌(きんはい、金メダル)を受賞している。その後、1929年(昭和4年)には帝国美術院会員、1934年(昭和9年)12月3日には帝室技芸員になっている。
第二次世界大戦後の1953年(昭和28年)には陶芸家として初めて文化勲章を受章。1960年(昭和35年)には重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)の候補となるが、これは辞退している。波山の「自分は単なる伝統文化の継承者ではなく、芸術家である」という自負が辞退の理由であったと言われている。
1963年(昭和38年)1月6日、53年の長きにわたって助手を務めてきた片腕というべき轆轤師(ろくろし)・現田市松(げんだ いちまつ)が満78歳(数え年79)で死去すると、波山は仕事の上でも精神的打撃を受けたと見られ、春のうちに病いを得て、4月2日、順天堂病院に入院する。手術を経て6月に退院するも、10月10日、工房のある田端にて生涯を終えた。享年92、満91歳。絶作(最後の作品)となった「椿文茶碗」は没年の作品であり、彼の技巧が死の直前まで衰えていなかったことを示している。墓所はJR山手線田端駅近くの大龍寺境内にある。
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轆轤(ろくろ)師・現田市松
波山の作品には青磁、白磁、彩磁(多色を用いた磁器)などがあるが、いずれも造形や色彩に完璧を期した格調の高いものである。波山の独自の創案によるものに葆光釉(ほこうゆう)という釉(うわぐすり)がある。これは、器の表面に様々な色の顔料で絵付けをした後、全体をマット(つや消し)の不透明釉で被うものである。この技法により、従来の色絵磁器とは異なった、ソフトで微妙な色調や絵画的・幻想的な表現が可能になった。前述の第57回日本美術協会展出品作「珍果文花瓶」もこの技法によるもので、美術学校時代に習得した彫刻技術を生かして模様を薄肉彫で表した後、繊細な筆で絵付けをし、葆光釉をかけたものである。
波山は完璧な器形を追求するため、あえて轆轤師を使っていた。初窯制作期の1903年(明治36年)から中国に招聘される1910年(大正9年)まで勤めた佐賀県有田出身の深海三次郎(ふかみ みつじろう)と、その後任に当たった石川県小松出身の現田市松がそれで、とりわけ現田は波山の晩年に至るまで半世紀以上にわたるパートナーであった。
「珍果文花瓶」は2002年(平成14年)、国の重要文化財に指定された。これは、同年に指定された宮川香山の作品と共に、明治以降の陶磁器としては初めての国の重要文化財指定物件となった。また、茨城県筑西市にある波山の生家は茨城県指定史跡として板谷波山記念館内で保存公開されている。
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観音像・香炉と鳩杖
波山は、東京田端で長きにわたり陶芸品の制作活動に打ち込みながら、生まれ故郷の下館にも想いを寄せ続けていた。故郷に帰省した際には、文化財の修復や保存、工芸展や観能会の開催、小学校の運動会への寄付をしたり、祇園祭のお囃子の伝授を行ったりもしていた。
1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発し、下館の町で戦死者が出始めた(下館から出征した最初の戦死者は波山の実家「板善」の縁者であったといわれる)。波山は各遺族宅へ自ら弔問に訪れ、「忠勇義士」の文字を刻んだ自作の白磁香炉を霊前に供えた(その数は42点にものぼるといわれる)。
その後戦死者はさらに増え続けていったため、波山は香炉の贈呈について中断し、あらためて戦後に自作の白磁観音像を贈ることとし、1951年(昭和26年)4月29日と1956年(昭和31年)7月10日の2回にわたり、故人の名前と波山の銘が記された桐箱に収められた観音坐像が、計271名の遺族へ贈られた。
また1933年(昭和8年)、実家「板善」を継いだ義兄が82才となり、自作の鳩杖を祝物として贈ろうと考えたことをきっかけとして「兄だけでなく故郷旧知の方々にも同じく祝物を」と考え、下館町の80才以上すべての高齢者に自作の鳩杖が贈呈された。こちらも、絹の袋に入れてから桐箱へ収め、さらに熨斗付きの奉書でつつみ水引で結んだものを、自らが一軒一軒を回り、直接本人に手渡している。鳩の部分には鋳物と白磁の2種類あるが「最初は私得意の焼物で鳩を作ろうかと思いましたが疵(きず)でも出来るといけぬと(思い)、合金の鋳物にしました。杖は狂いの出ぬよう南洋産の木を用い、女の方には赤みのところ、男の方には黒味を使いました」と波山は語っている(太平洋戦争中、鋳物から白磁に、桐箱から和紙の袋に変わった)。以来、自らの住まいと窯が東京大空襲で破壊され、故郷へ疎開していたあいだも含めて休むことなく、自らが80才となる1951年(昭和26年)まで私費で毎年続けた。
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良く出来ている青磁のお茶碗ですが、このようなピンホールのある作品を板谷波山が後世に遺したか否かがひっかかります。
ただ伝世の一級の青磁といえどもこのようなピンホールや釉薬の垂れ幕状のものはつきものですが・・。作品への印も見慣れた印とは違う印のようですが、当方ではこの印は確認できていません。
茶碗の参考作品としては下記の作品があります。
参考作品
黒飴釉茶碗 黒飴瓷
2013年01月10日「なんでも鑑定団」出品
「妥協を一切許さず、わずかな傷やムラがあれば打ち壊した。その為1年に発表できる作品はわずか20点ほどであった。波山が目指したものは焼物における絵画性を確立することで、すなわち江戸時代から脈々と受け継がれてきた伝統的な色絵では、明確な輪郭線で絢爛豪華な絵付けを施してきたが、波山はこれを否定し色彩の微妙な変化やグラデーションによる可能性を模索した。」と説明されています。
さらには「昭和10年代の前半、60代半ごろの最も円熟した時期の作品。波山はこの時期になると形を際立たせる為に、ほとんど装飾というものをやめてしまう。箱の表には「黒飴瓷・こくたいじ」とある。飴釉は大変不安定でムラが出来やすい。」と説明されています。
紹介されている記事には下記の天目茶碗がありました。
「形を際立たせる」とはまさに言いえて妙なる作品です。完全無比なる轆轤形成と釉薬の仕上がりです。
作品の表の箱書と本作品と同時期の青磁香炉の落款と印章は下記のとおりです。
上記の箱の写真と比較しても・・・・、 ここまでの贋作ならお見事!
*申し訳ありませんが本日の作品は当方では真作とは断定していない作品です。