市内の祭りに大工さんが駆り出されるなどで我が家の食堂の改装工事は遅々として進みません。
エアコンの漏水被害の拡大、天井の下地の新築時の傾きなどで天井は殆どやり直し。それでもなんとか断熱材の工事まで進みました。
隣の仏間のある部屋を一時的な食堂として使っています。
さて本日の作品紹介です。
沖縄の壺屋焼の作品で面白そうな作品があるとついつい入手してしまいます。本日もそんな沖縄の琉球焼(壺屋焼)の作品のひとつの紹介です。
壺屋焼 黍文様赤絵一輪挿し 浜田庄司作?
誂箱
口径29*最大胴径143*高台径*高さ295
この作品は「黍文様」と沖縄の物産である「麻織布の文様」を形象化したものと思われるデザインから、確証はありませんが沖縄時代の浜田庄司の作の可能性はあります。そうではなくても少なくてもその影響を受けている作品だ思います。
浜田庄司の益子から沖縄への歩みについては下記のような記事がありますので引用します。
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英国のホテルや航路で集めたラベルやシールを貼ったスーツケースを持ってセーターにコールテンのズボンを穿いた垢ぬけした?濱田庄司が、片田舎の益子に入ってきたのは大正13年のこと。
*当方にもその頃の革製のスーツケースがあり、本ブログで紹介していますね。
**おっと、さっそく横道にそれてしまいました。
当時の益子はウシ蛙が鳴く田畑と大甕を主力につくる一筋の煙がみえる登窯だけの半農半陶の村だったそうです。このような田舎では英国帰りの濱田庄司は、よそ者扱いされて部屋も貸してもらえず、旅館暮らしで窯の見学に通わなければならなかったようです。さらに警察や役場の人たちには、共産党員ではないか、スパイではないかと怖れられ、監視されており、そんな不安な日が6年も続いたようです。
現在、益子の現状が一目でわかる益子焼窯元共販センターがあるところに、当時、佐久間福次郎氏の窯があり、濱田庄司はそこで仕事をはじめました。その窯元の息子が当時、24歳の佐久間藤太郎でした。佐久間宅の座敷で起居をともにしながら、一緒に轆轤を廻すなど仕事をするようになります。
この年の12月、物心両面で大きな援助を受ける弁護士・井関双山の仲介で地元の木村和枝と結婚します。濱田庄司は結婚式のとき、英国から持ってきた茶色の霜降りのスーツをダンディーに着こなし、京都から河井寬次郎が駈けつけ、友人代表で参列しました。河井寬次郎は巨大な鉢に中華菜のスープを持ってきて参列者のドキモを抜いたと伝えられています。
益子では住むところもまだなかったので、大正7年に渡英前に訪ねたことがある沖縄を思い出し、寒い冬の間は暖かい沖縄の壺屋へ行き、作陶することにしたそうです。
新垣永徳(1947年没)に世話になり、壷屋で制作しました。ここは東窯(アガリヌカマ)と呼ばれ、赤絵などの上焼(ジョウヤチ)を焼いていた窯です。壺屋の道は古風な石垣に囲まれ、曲がり角にはガジマルがあって今と同じように子供たちが登っていたようです。工場の前は見渡す限り砂糖黍畑が拡がっていました。
京都の陶家のように技法を隠して守ろうとする匂いは少しもなかったそうです。無尽蔵・「沖縄の陶技」にて濱田庄司は次のように追憶しています。「技術の上で受け継いだ伝統は、形の奥の見えないところで深く守られ、たとえば器に絵付してなおよくなるということは私たちにとってはなかなか難しく、気の重いことだが、壺屋の陶工たちは、いつも屈託なく行われてどれも愉しい。蹴轆轤での形作りも、釉の合わせ方でも、何という爽やかさで片付けられているのだろうかと羨ましかった。」
琉球赤絵方壺(琉球壷屋時代) 浜田庄司作
配給制といわれた琉球独特の化粧土が闊達な筆使いの赤絵に映える。仕事場の前に拡がる砂糖黍畑、その見渡す限りの光景に、濱田は興味を覚えて、ある模様を生みだすこととなった。子供の頃から画家を夢見ていた濱田庄司のトレードマークとなった「糖黍文」で、また沖縄の物産である麻織布にも魅せられ、形象化しました。
琉球窯面取赤繪茶碗 壺屋時代?
その後、妻子と共に一年以上も沖縄で暮らしたこともあるほど沖縄は濱田の気持ちを受け入れてくれるところだったようです。無意識の創作力を失って久しい濱田にとって沖縄壺屋での陶工の仕事振りには学ぶことが多かったようです。しばらくはここ沖縄の壺屋窯などで学び、1930年(昭和5年)からは、それまでも深い関心を寄せていた益子焼の産地、栃木県益子町にて作陶を開始します。
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この文章で気になるのは「沖縄の物産である麻織布にも魅せられ、形象化しました。」というところです。
上記の写真のような沖縄県宮古島の伝統工芸「宮古織・宮古麻織」のことでしょうか?
濱田庄司の作品か否かはおいておいて、壺屋焼の作品の中でもなかなか出来の良い作品です。
不要になった帯で祖母が作ってくれた敷布にて飾ってみましたが、機会があったら沖縄県宮古島の伝統工芸「宮古織・宮古麻織」にて合わせてるのも面白いでしょうね。