2018年(平成30年)9月15日(土)~11月25日(日)の日程で開催中の一関市博物館(館長・入間田亘夫)の平成30年度企画展「北上川・陸と海を結ぶ道~江戸時代の舟運(しゅううん)」の関連行事として開催された館長講座を聞いてきました。
この企画展の展示解説書(1,800円)が発行されていましたので、購入して事前にあらかじめ目を通していたので、良く理解することができました。講座終了後に企画展の方も観てきました。
館長講座は、企画展解説書にも記載されている『平泉特別都市圏・大名葛西領国を支えた北上川の舟運』(入間田亘夫)の内容と大体同じものでした。
館長講座『平泉特別都市圏・大名葛西領国を支えた北上川の舟運』(入間田亘夫)
古文書などを駆使した考察は、文治5年(1189)、都市平泉が陥落した後、鎌倉殿頼朝の代官として、占領地行政の取り仕切りを担うことになった葛西清重が拝領したという「伊沢・磐井・牡鹿等已下(いか)、数か所」(『吾妻鏡』文治5年9月22・4条)からでした。
上の「五郡・二保」の内容をあらわした地図は、都市平泉を取り囲むかのようにして、それらの所領群が設定されています。けれども、ただ一つ、北上川の河口部に位置する牡鹿郡だけは離れて、飛地のようなかたちになっています。これらについても論考しています。(省略)
上の「葛西・大崎船止日記」は、大名葛西氏の滅亡によって、伊達政宗の掌中に収められることになった、その直後における舟運のありさまが、生々しく記録されていた古文書の内容を(北上川に関わる部分のみ、記載された河岸と舟数)を図示したものです。
岩手県岩手町の「弓弭(ゆはず)の泉」を源として南流し、宮城県石巻市に注ぐ一級河川「北上川」は、全国第四位の面積を誇る広大な流域を潤しています。
人々は東と西に分断され、時に洪水などの水害に悩まされましたが、豊かな水から多くの恵みを得ており、沿川各地には政治文化の拠点が築かれました。奥州藤原氏が居を構えた平泉はその最たるもので、藤原氏のもとには北上川の舟運によって各地の文物がもたらされています。
江戸時代には、江戸と往来する廻船が発着する石巻で北上川の舟運が結ばれ、八戸藩、盛岡藩、仙台藩、一関藩の米をはじめとする品々が行き交いました。鉄道が開通する以前は、北上川は、流通の大動脈ともいえる役割を果たしていたのです。また、所々に設けられた川の湊・河岸(かし)は、陸の道と川の道が交差する物資の集積地としてにぎわい、今日につながる姿が形づくられました。
(下)北上川舟道図(きたかみがわしゅうどうず)天保元~3年(1830~1832、一関博物館蔵):この時代、北上川の舟の航路を描いた絵図が作られています。黒沢尻河岸(北上市)から石巻までの北上川を描いた長さ20m以上もある絵図です。この区間は、艜舟(ひらたぶね)という舟が米をはじめとする荷物を積んで運行しました。絵図には、その舟の通る道が赤い線で引かれ、川の湊や番所、中洲や渦、岩などの難所や、支流などが描かれています。それらは舟運の時代の川の捉え方を今に伝えてくれます。
(下)展勝地(北上市)の上流黒沢尻。盛岡藩最大の川の湊があってにぎわっていたという。
(下)現在の一関市舞川付近。「小禅寺村」の名があります。
(下)現在の一関市川崎町付近。支流の松川(砂鉄川)や千厩川が描かれています。赤色の建物は現在の波分神社のようです。
(上)石巻の河口(現在の石巻市・北上川河口部中瀬、いま石ノ森萬画館のある所、今は「旧北上川」というけど、江戸時代は、こちらが北上川だった。)
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