「紫波・赤沢の義経伝承地を訪ねるバスツアー」(その8)2017年9月15日(金)
「樋爪館跡・五郎沼」を見学した後、「陣ケ岡歴史公園」に向かいました。
[予定:15:30着、16:00発、説明と見学]
陣ケ岡歴史公園 ◆陣ケ丘の歴史:陣ケ岡は、蜂神社境内の高台が陣ケ岡跡とされる。様々な歴史の舞
台になったが故に、今は陣ケ岡歴史公園として親しまれている。入口の鳥居の左側に、標看板と路標が
設けられ、路標に「陣ケ岡陣営跡」と書かれている。参道は緩やかな勾配で、車一台が通れるほどの細
い上り坂である。左右の老松が悄然かつ幽寂として立ち並び、人を奥へといざなっている。
この陣ケ岡の縁起は、神代・古代の時代まで遡る。縄文・弥生時代は竪穴式住居の集落地だった所で、
土偶も多数出土している。
この陣ケ岡を舞台に、歴史上の名だたる武将たちがここを本陣として陣を構えた名勝地なのである。
[講師・山崎純醒氏作成の「2017.9.15紫波・赤沢義経伝承地を訪ねるバスツアー」(史跡解説)より]
蜂神社 蜂神社の縁起:陣ケ岡歴史公園入口の大きな鳥居をくぐり、約200mの参道を歩くともう一つ
の鳥居がある。それをくぐって正面に鎮座しているのが蜂神社である。左右には、いかにも古い歴史を
感じる狛犬が守っている。(注:この日は、既に新しい狛犬になっていました。)
蜂神社のご祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)、足仲彦命(たらしなかつひこのみこと、第
14代仲哀天皇)、誉田別命(ほむたわけのみこと、第15代応神天皇、八幡神)の三神で、いずれも戦勝
の神として祀られている。三神は直系の父子三代である。(※仲哀天皇と応神天皇は親子ではないとする
説有り。)
「蜂」の淵源は、奈良県の春日大社にある「蜂の宮」に求めることができる。平貞盛が平将門討伐で戦
った際、スズメ蜂が将門の眉間を刺して死に至らしめ、貞盛軍が勝利を得たことが縁起で春日大社を奉建
したと伝えられる。陣ケ岡の蜂神社はその末社なのである。
蜂神社には別の言い伝えもある。康平5年(1062)9月17日夕刻、前九年合戦で、源頼義・義家父子
が、安倍頼時・貞任父子と厨川柵周辺で対峙した際、源氏軍が藪の中からたくさんの蜂の巣を見つけた。
その蜂の巣を大きな袋に詰め込み、安倍軍の陣営に投げ込んだという。蜂は雲霞のごとく陣営を覆い、貞
任軍を襲って翻弄させ、そこを見計らって頼義軍が攻めかかり、厨川柵はたちまち陥落したという。戦い
を終えた頼義・義家父子は、軍を大勝利に導いた蜂を奉じ、陣ケ岡の八幡宮に蜂の宮を勧請したという逸
話である。果たして、どちらの伝承が蜂神社の起源なのか。或いは両方の逸話を重ね合わせた縁起なのだ
としたら、蜂神社の名称の由縁は、より深い淵源を持っていることになる。(以下省略)[講師・山崎純醒氏作成「2017.9.15紫波・赤沢義経伝承地を訪ねるバスツアー」(史跡解説)より]
陣ケ岡の歴史:最も古い縁起は、景行帝43年(113)、日本武尊が蝦夷征討のため、この陣ケ岡に宿営
したとする伝説が残っている。以下…・斉明帝5年(659)、安倍比羅夫が宿営。・天応元年(781)、
道嶋宿禰が宿営。・延暦20年(801)、坂上田村麻呂がアテルイ征討の際、陣を敷く。・天喜2年(10
54)、安倍頼時・貞任父子が陣ケ岡を遊楽地として造成。・康平5年(1062)8月、源頼義・義家父子
が秘伝の陣法(八門遁甲術)を習得して改造営し、前九年合戦の際にこの地を本陣とする。・治承・寿永
年間(1177~1184)に藤原秀衡が、陣ケ岡を奥羽一万寺の修道浄化の聖地として造成。・文治5年(
1189)9月4日、奥州合戦の最中、源頼朝が泰衡追討の為の本陣としてここに28万4千騎を宿営させた
(ことになっている)。
※『吾妻鏡』には「面々に白旗を打ち立てて、各々黄間に寄せ置く。秋の尾花は色をまじえ、晩頭の月、
勢いを添ふ…云々」と名文を記している。その2日後の9月6日、河田次郎によって討ち取られた(とされ
る)泰衡の首が陣ケ岡に届けられ、頼朝自ら首実検に立ち合う。
※河田次郎は秋田・贄柵(今の大館市二井田?)の領主で、泰衡の譜代の忠臣(初代清衡から代々家臣と
して仕えた家柄のこと)であったが、9月3日夜半、贄柵の寝所に押し入り、裏切って誅殺した(ことに
なっている)。首は頼朝家臣・横山小権守時広とその郎従広綱によって八寸釘で眉間を打ち抜かれ、9月
10日まで晒し首となった後、中尊寺経蔵別当・心蓮大法師が引き取っている。頼朝は、戦勝の勝鬨を挙げ
て厨川柵に向かった。
・宝治2年(1248)には斯波家氏が八幡宮を再建。・延文年間(1356~1361)、斯波家長が陣ケ岡に
「萬亀山(まんきさん)千鶴寺(せんがくじ)」を建立、本尊として十一面観音など数体を安置した。
(昔に焼失。現在は標だけが立っている。)・天正16年(1588)、南部氏26代信直公が、斯波氏居城の
高水寺城攻略の為、ここを本陣とする。・天正19年(1591)、豊臣の将・蒲生氏郷が、九戸政実の乱の
討伐の為、この地に陣を構える。・江戸時代には、百姓一揆が起こる度に集会場となっている。
これほどまでに、この陣ケ岡は、歴史の重要拠点として利用された訳であるが、このような事例は全国
的にみても、他に例を見ない。何故、陣ケ岡に陣を敷くのか。それは、この陣ケ岡が、先に述べた八門遁
甲の秘法によって造営された岡だからである。この造営は、安倍比羅夫が造営したとも、坂上田村麻呂が
造営したともいわれ、その名残は周囲の山々に造営の跡が今も残っている。[講師・山崎純醒氏作成「20
17.9.15紫波・赤沢義経伝承地を訪ねるバスツアー」(史跡解説)より]
(下3つ)八幡神社の横の方に行ってみたら「源頼義・義家父子御手植の松」がありました。第何代目
かの若い松でした。
(下3つ)すぐ傍に「王子森古墳」と刻された標柱が建っている場所がありました。
◆八門遁甲の秘法によって造営された陣ケ岡:安倍頼時も、源頼義も、藤原秀衡も、そして頼朝も、そ
のことを知っていたからこそ、(地図も無い時代に)わざわざこの陣ケ岡を目指して行軍してきたのであ
る。では、八門遁甲とは何か。それは、八門遁甲の秘法によって造営した地に陣を敷く時、ある方向に
相手を招き寄せるか、または自軍がある方向に動いて行けば、敵軍を自在に操り滅亡させることができる
という恐るべき秘法なのである。
古来、中国では、天下の覇権を握った皇帝の全てが、この八甲遁甲の秘法を熟知していたという。その
秘法を伝える者は、著述を一切残さず、一子相伝でのみ伝えていくのであるが、皇帝はその術者を代々ブ
レーンとして抱えていたといわれている。あの『三国志』の主人公、諸葛孔明は、この八門遁甲の秘法を
駆使して、幾多の戦いを大勝に導いていたことは、つとに有名な話である。軍の総大将にとって、この奥
義をマスターすることが、戦いに勝利する要諦だったわけである。それ故、覇権を握る者は、この秘法を
秘伝とし、外部に漏らさず、また、それを知る者を抹殺し、また、秘伝の禁を破った者は、一家皆殺しの
刑に処されたという歴史がある。
源頼義・義家父子は、この秘法を公家の大江匡房(まさふさ)から授かったと伝えられているが、一説
には、八門遁甲の秘法は、平安末期には、それを伝える家が滅び、その秘法を知る者は誰もいなかった、と
もいわれている。一方、伝承では、源頼義・義家父子は、この陣ケ岡で「八門遁甲の八行九陣形」の陣法
を施し、先人武将が造営した陣を改造営したとも伝えられる。その秘法は、盛り土の高さから起伏掘りの
曲造り、周囲の山々の関連性まで計算されて造営するのだという。そして、陣の西に日月天像、東に掘り
池を造って蓮華を植えるのだという。[講師・山崎純醒氏作成「2017.9.15紫波・赤沢義経伝承地を訪ねる
バスツアー」(史跡解説)より]
(下2つ)次の見学地の「史跡 月の輪形・日の輪形」に行く入口。
(下)この日、私たちは、この簡易トイレのある所から「史跡 月の輪形・日の輪形」に下って行き
ました。
史跡 日の輪形・月の輪形:蜂神社境内の西側100mほど下った所に、県の重要無形文化財に指定され
ている「日の輪形・月の輪形」の史跡が今もしっかりと形を残している。この由来は、康平5年の前九年
合戦の時、源頼義・義家父子が、安倍貞任追討の為、三万三千の兵を率い、この陣ケ岡に布陣した時に遡
る。兵馬の飲料を得る為、陣ケ岡に池を掘って湧き出る水を兵馬に与えた。その池に9月15日、源氏の旗
印である日月(太陽と三日月)が突如顕われ、燦然たる光を放ったという。これを見た兵士たちの士気は
大いに鼓舞され、将軍頼義も「勝利の吉兆なり」と喜び、直ちに池の中央に太陽と三日月の中島を造らせた。
そのあと一気に厨川柵に攻め入り、打ち破ったという伝説である。
その後、寿永元年(1182)に、藤原秀衡がこの地を訪れ、その吉兆の話を聞いて感服し、頼家・義家父
子の戦跡を偲び、修道浄化の場として池を円形に改修造営した。それが今も残る日の輪形・月の輪形なので
ある。かつては人が泳げるほど掘は水で満たされていたというが、今は水が干上がり、ただの草地となって
いるのだが、月の輪形と日の輪形は、目視でもはっきりそれと分かる形を残している。ただ、955年という
歳月の中で徐々に風化し、その形が小さくなっていることは確かである。このような史跡は全国に比類がな
く、極めて珍しい史跡となっている。この掘り跡に、数日だけでも水を満たして、かつてのような池を再現
したいという機運が高まり、昨年5月に「日の輪形・月の輪形 仲秋の名月観月会実行委員会」が立ち上がり、
同年9月13日から18日までの6日間、池跡は見事に水を湛えて、新聞等にも大きく報道された。仲秋の名月に
あたる9月15日には、多くの町民がこの池に集い、観月会が催され、茶席の野点サービスや巫女舞いの披露、
筝曲の演奏、講談「秋風陣ケ岡」などで観月会を盛り上げた。[講師・山崎純醒氏作成「2017.9.15紫波・赤
沢義経伝承地を訪ねるバスツアー」(史跡解説)より]
(下)「史跡 月の輪形・日の輪形」の傍に群生していたミゾソバ(溝蕎麦)。淡紅色の花を
沢山咲かせていました。
ミゾソバ(溝蕎麦)タデ科 タデ属 Polygonum thunbergii
田んぼや水辺など、湿った所に群生する一年草。茎や葉には下向きの小さな刺があり、触るとザラザラ
する。茎の下部は横に這い、上部は立ち上がって高さ30~80㎝になる。葉は互生し、長さ4~10㎝で、
先は尖り、基部は左右に大きく張り出している。この葉の形を牛の顔に見立てて、「ウシノヒタイ(牛の
額)」ともいう。花期は7~10月。白色~淡紅色の花が10数個集まってつく。花が終わると花びらが実
を包み込む。分布:北海道~九州。[山と渓谷社発行「山渓ポケット図鑑3・秋の花」より]