peaの植物図鑑

草や木の花や木の実(果実)、特に山野草が好きで、デジカメを持ち歩いて撮っています。2024年3月、85歳になります。

作家・山川修平氏の講演を聞く!  2016年2月28日(日)

2016年02月29日 | 講演会

2016年2月28日(日)、一関市&一関市川崎町自治会連絡協議会主催の「平成27年度一関市川崎町社会教育各種講座学級生大会・社会教育各種学級合同閉講式」に付属して開かれた講演会(14:20~15:30時予定)を聞かせていただきました。この講演会は一般の市民も聴講可能と聞いたので妻と共に行ったのでした。大東町渋民市民センターでご一緒した文学講座の仲間が沢山来ていました。

合同閉講式のあいさつ(一関市川崎市民センター所長・菅原庸夫さん)が行われている間にぞろぞろ入場して失礼してしまいましたが、講演会はすぐに始まりました。

講師:作家 山川修平 氏。演題:「故郷と作家への道」

山川修平さんは、1936(昭和11)年岩手県東磐井郡川崎村(現在の一関市川崎町)生まれで、現在は東京都在住。本名は千葉勝也。現在79歳で、10月の誕生日が来ると80歳になるとのことでした。10代後半、肺結核のため長期療養生活を送らざるを得なかったそうです。その時に一関市山目にある結核療養所で一緒だったのが、井上ひさしさんの実兄・井上滋さんで、その頃の様子を面白おかしく語ってくださいました。これは、「井上ひさし略年譜」によると1949(昭和24)年9月頃のことのようです。

 あるとき、有名な作家・火野葦平氏[『糞尿譚』で第6回芥川賞受賞、1937(昭和12年下半期)]が一関に講演に来ると知って井上さんたち文学仲間と共に療養所を黙って抜け出して聞きに行ったことがあるそうです(当時、結核療養所は隔離病舎で、外出には院長の許可が必要だったそうです)。井上ひさしさんの実兄・滋さんは現在も釜石市で元気にしているそうです。

話の中で、「同世代の井上ひさしも、中津文彦も、三好京三も、内海隆一郎も死んでしまったのに自分のような肺病たかりが長生きしている。」と笑わせていましたが、人は必ず死ぬものなので、明日も必ず生きているという保証は誰もないのです。

21歳で岩手県立一関一高に入学、6歳下の同級生と共に学んだそうです。この高校時代より同人誌を発刊したとのこと。その後、早稲田大学に入学(心理学科)卒業。出版社勤務を経て独立、専門誌『著者と編集者』を発刊。出版業挫折後、住宅産業界に転身。住宅(ハウス)メーカーに勤務する傍ら創作活動を続け、『早稲田文学』『北の文学』等に小説を発表。定年退職後は住宅産業ジャーナリストとして執筆活動に当たってきたとのこと。著作に『人間の砦』『白磁の画家』『小説北上川』(以上、三一書房刊)などがある。

話の中で、岩手県からは直木賞の受賞者が何人もいるが、芥川賞の受賞者は未だ一人も出ていない。この先若い人たちの中からきっと出てくると思っていると述べられたが、調べてみたら直木賞の受賞者は、第49回[1963(昭和38年上半期)]の佐藤徳二(さとう・とくじ)『女のいくさ』(二見書房)、第76回[1976(昭和51年下半期)]三好京三『子育てごっこ』(文藝春秋)、第96回[1986(昭和61年下半期)]の常盤新平(ときわ・しんぺい)『遠いアメリカ』(講談社)、第106回[1991(平成3年下半期]高橋克彦『緋い記憶』(文藝春秋)などがいました。

http://www.iwanichi.co.jp/ichinoseki/8546.html [流域の戦中・戦後 克明に 川崎出身作家:Iwanichi Online 岩手日日新聞社]

 

 

 


「海に生きた歴史~復興発掘調査が語る一万年前の海との共生」移動展展示 2016年2月21日(日)

2016年02月22日 | 遺跡、石器・土器、古墳、

2016年2月21日(日)、科研費[文部科学省科学研究費助成事業 基盤研究(B)「気仙地域の歴史・考古・民俗学的総合研究」]主催、岩手県立博物館・陸前高田市歴史文化研究会共催の「歴史・考古・民俗学から気仙地域の魅力を語るⅡ」という名の市民向け報告会が開催されたので聞きに行ってきました。

かなり早く到着したので、前日から展示している「海に生きた歴史~復興発掘調査が語る一万年の海との共生」という移動展をじっくりと見ました。

妻が「花館跡」を見たいと言い、展示場にいた男性に場所を訪ねたら、「車で連れて行ってやる」というので、ご厚意に甘えて連れて行っていただきました。(この男性は陸前高田市の議員さんでした。) 

 

花館跡は住宅を建てるために切り開いた高台にありました。案内者が高台にある民家の庭に車を乗り付けて現地を見せてくださいました。(案内者無しに行くのは難しいと思いました。)発掘を終えた現地では重機が稼働していました。

(下2つ)花館跡から向かい側の宅地造成地を望む。

(上)車窓から見た館貝塚のある海岸付近。

(上と下3つ)高台にある民家の庭から眺めた陸前高田市・高田松原方面。

 


三陸に弥生遺跡が少ないのはなぜか? 2016年2月21日(日)

2016年02月21日 | 遺跡、石器・土器、古墳、

2016年2月21日(日)、科研費[文部科学省科学研究費助成事業 基盤研究(B)「気仙地域の歴史・考古・民俗学的総合研究」]主催、岩手県立博物館・陸前高田市歴史文化研究会共催の「歴史・考古・民俗学から気仙地域の魅力を語るⅡ」という名の市民向け報告会が開催されたので聞きに行ってきました。

最初の報告者は、明治大学文学部教授・石川日出志氏でテーマは「三陸に弥生遺跡が少ないのはなぜか」というものでした。映像を沢山使った報告で解りやすくとても良かったです。

弥生時代とは、弥生式土器・木製農具・農耕生活を特徴とする時代で、縄文時代晩期のBC(紀元前)300年から古墳時代までを指しているようですが。本格的な水田稲作を基盤に成立した弥生文化は、現在では、青森県弘前市砂沢(すなざわ)遺跡の調査成果などから、北部九州地方から波及した弥生文化は、予想をはるかに超える速さで本州の最北端まで到達していたということが明らかになっています。

三陸・気仙地域から松島湾一帯にかけて、縄文時代の著名な貝塚遺跡が知られていますが、今から2300年前頃(弥生時代)になると、一気に遺跡の規模が著しく小さくなり、またその数も激減します。なぜ、そのような激変が起きたのでしょうか。

1.三陸海岸は縄文時代貝塚の宝庫:気仙地域から松島湾にかけては、日本屈指の縄文時代貝塚の密集地です。気仙地域だけでも、陸前高田市の中沢浜貝塚(国史跡)、大陽台貝塚・獺(だつ・たつ)沢貝塚・堂の前貝塚・門前貝塚、大船渡市の下船渡貝塚・大洞貝塚・蛸ノ浦貝塚(以上国史跡)・長谷堂貝塚などは全国に知られた著名な貝塚です。良好に残る貝層と、その貝層で保存された骨角器が豊富に出土したことで注目されてきました。発掘調査が行われた範囲が限られているので分かりにくいものの、他地域の実例を参考にすると、いずれも直径100m内外もの範囲に竪穴住居が広がる集落です。

縄文時代の前期(約6000年ほど前)から晩期(約3000年前ころ)までの間、もちろんずっとそこに定住した訳ではありませんが、広田湾や大船渡湾を広く見渡らせる高台に常に幾つものムラが営まれていたようです。雲南遺跡では貝塚が無いもののマグロなどの魚骨が多数見つかっています。海沿いのムラはどこでも豊富な魚貝類を採り、山寄りのムラと交易して生計を立てていたと考えられます。 

2.弥生時代になるとなぜ遺跡が少なくなるのか?:ところが、弥生時代になると遺跡の数が激減します。中沢浜貝塚では弥生前期(約2300年前頃)の土器も見られますが少数で、中期(2200~2000年前頃)までは続きません。下記の図の範囲では4か所でわずかに弥生土器が確認されただけです。気仙川中・上流域の横田・矢作地区では遺跡数はもっと多いものの、いずれも弥生土器はごく少数で、一時的に滞在しただけだと思われます。

この弥生時代は、日本列島各地で灌漑稲作が普及した時代で、縄文時代のような大規模な貝塚遺跡は全国的に姿を消します。東北地方でも仙台平野などでは、各所に弥生時代遺跡があって、水田跡やスキ・クワの水田工具も見つかっています。ところが、気仙地域の弥生時代遺跡を見ると、米ケ崎城跡の一面にある館貝塚も、中沢浜貝塚も、雲南遺跡も、いずれも周囲に水田耕地を造成し得る条件の低地はありません。むしろ館貝塚のようにもっぱら海をなりわいとするのにふさわしい立地の遺跡があることに注目したいと思います。

じつは北上川流域でも、弥生時代になるとそれまで各地にあった大型集落は無くなり、遺跡数も激減します。こうした現象は岩手県域一帯で起きているのです。その中で気仙地域の弥生時代遺跡で興味深いのは、弥生中期に仙台方面とよく似た土器が明瞭なことです。館貝塚の下記第2図の3、雲南遺跡の下記図8・9、長谷堂貝塚の下記第3図10~12がその実例です。

三陸海岸でも気仙地域の遺跡だけに見られるもので、他の土器は北上川流域と共通する土器です。それ以上の証拠は無いのでより積極的に主張するのは難しいですが、当地域では縄文時代以来の漁撈活動を小規模ながら継続し、仙台平野や北上川方面とも交流しながら生計を立てていたと考えられます。

そこでは、縄文時代以来の海や山合いを往来する技術・経験も生かされに違いありません。弥生時代と言うと、稲作にばかり目が向く傾向がありますが、この地域の弥生時代遺跡は小規模ですが、その立地を見るだけでも稲作以外のなりわいを知る重要な手がかりとなります。

 


宮城県気仙沼市唐桑町のウメ(梅)/ハクバイ(白梅) 2016年2月21日(日)

2016年02月21日 | 植物図鑑

2016年2月21日(日)、陸前高田市コミュニティーホールで開催される「科研費」主催の ”歴史・考古・民俗学から気仙地域の魅力を語るⅡ”という市民向け報告会を聞くため、マイカーで陸前高田市に向かいました。国道343号線が陸前高田市矢作町で土砂崩れにより全面通行止めのため、気仙沼経由の国道284号線を通って行きました。気仙沼市から国道45号線を通って陸前高田市に向かっていたとき、唐桑町の漁港の傍にある高台に植栽されている梅の木が、辺りに好い香りを漂わせながら今を盛りと花を咲かせていました。

 ウメ(梅)/ハクバイ(白梅)バラ科 サクラ属 Prunus mume

 花も実も日本人には馴染み深い樹木のひとつだが、もともと日本にあったわけではなく、古い時代に中国から入ってきた。万葉集にはウメを詠んだ歌が多いので、それ以前に既に栽培されていたことになる。九州には野生種があるといわれているが、これは栽培ものが野生化したという説が有力。比較的温暖な気候を好む落葉小高木で、大きなものは高さ10mほどになる。

若枝は緑色。葉は互生し、長さ4~10㎝の楕円形または倒卵形で、先は尖る。花期は普通2~3月で、葉が出る前に香りのよい花が咲く。花は直径2~3㎝。花弁は5個が基本で、白または淡紅色を帯びる。花柄はほとんどない。果実はほぼ球形で、細かい毛に覆われている。6月頃に完全に熟すと、黄色っぽくなる。

旧い時代には花の観賞が主で、果実を梅干しなどに利用するようになったのは江戸時代以降である。果実を利用するウメを実梅、観賞用のウメを花梅と呼び、いずれも多くの品種がある。

ウメは中国の国花。日本でも古くから愛されている花のひとつ。[山と渓谷社発行「山渓ポケット図鑑1・春の花」より]


「岩手県立花きセンター」のツンベルギア・グランディフロラ(ヤハズカズラ) 2015年12月3日(木)

2016年02月20日 | 植物図鑑

2015年12月3日(木)、岩手県立花きセンター(胆沢郡金ケ崎町六原)に行きました。「花の館温室」「亜熱帯温室エリア」に植栽されている「ツンベルギア’オーガスタス・ブルー’」という名のつる性植物が藤紫色の花を咲かせていました。

ツンベルギア・グランディフロラ ’オーガスタス・ブルー’ キツネノマゴ科 ヤハズカズラ属  Thunbergia cv.Augustus Blue
園芸品種、つる性、花は藤紫色

ヤハズカズラ属(Thunbergia)は、中央・南アフリカ、マダガスカル、アジアの暖かい地域に100種以上が自生する。直立または登攀(はん)性の草本または低木。葉は対生で卵円形、披針形、心臓形またはやり形鋸歯縁、平滑または毛がある。紫、青、黄または白色で腋生、単生または頂生の総状花序をつくる。

仲間には「ツンベルギア・エレクタ(コダチヤハズカズラ)」「ツンベルギア・フラグランス」「ツンベルギア・グランディフロラ’アルバ’」「ツンベルギア・マイソレンシス」などがある。 

 http://blog.goo.ne.jp/pea2005/m/200712/1 [peaの植物図鑑:「岩手県立花きセンター」のツンベルギア「オーガスタス・ブルー」:2007年12月21日]