peaの植物図鑑

草や木の花や木の実(果実)、特に山野草が好きで、デジカメを持ち歩いて撮っています。2024年3月、85歳になります。

一関市大原市民センターの移動研修(その1)2018年8月30日(木)

2018年08月31日 | バスツアー

2018年8月30日(木)、一関市大原市民センター(所長・佐藤義信)主催のバスツアーが実施されました。これは、平成30年度「室蓬カレッジ・歴史専門講座2018」第5回として行われたもので、講座参加者27名と主催者側3名の合わせて30名の参加でした。案内人は第1回の講師を務めた畠山篤雄(文化財調査研究員)氏で、大原の製鉄の歴史などについて講義をされた方です。

「大原市民センター(集合 7:50時、8:00時出発)」の予定通り進行し、最初の見学地「大籠キリシタン資料館」には、8:48時に到着しました。

 

(上と下)大籠キリシタン資料館前の母子像 土屋端穂氏作

(上と下2つ)大籠殉教記念クルス館にあるという岩手県出身の彫刻家・舟越保武(ふなこしやすたけ)氏が設計・監修を行い、同氏の作品「十字架のイエス・キリスト」、「聖クララ」、「聖マリア・マグダレナ」のブロンズ像3体(レプリカと思われるもの)が展示されていました。

大籠キリシタン資料館の視聴覚室でVTRを見せていただいてから、管内の展示を見せて頂きましたが、「撮影禁止」でしたので、入場の際いただいたパンフの内容を紹介します。

 

 

VTRで見せて頂いた内容は、織田信長政権時代頃からの製鉄の歴史などについて、宣教師のかかわりや豊臣秀吉政権によるキリスト教弾圧などについて触れ、伊達政宗政権時代の仙台藩によるキリスト教徒の処刑などについてでした。映像の大部分は、今に残されている石碑や処刑場跡でした。

(上)元禄の碑(げんろくのひ)殉教した信徒の遺体の埋葬は、約60年間禁止され、元禄16年(1703)遺骨を集め埋葬し、供養碑が建てられたそうです。

(上)祭畑刑場(まつりばけいじょう)刑の執行中、逃げた信徒を捕らえ、川向こうの約40m離れた草地の松の枝に鉄砲を乗せ狙い打ったという。

(上)上野刑場(うえのけいじょう)通称「オシャナギ様」という所で、寛永17年(1640)に信徒94人が処刑された場所だそうです。

(上)首実検石(くびじっけんいし)信徒を打ち首にする時、伊達藩の検視(けんし)役人が、この石に腰かけて地蔵の辻の処刑の有様を見届けたというので、この名があるそうです。

(上)地蔵の辻(じぞうのつじ)無情の辻(むじょうのつじ)ともいう。寛永16年(1639)、寛永17年(1640)に打ち首、十字架(ハリツケ)等により、178名が殉教したそうです。

(上)大柄沢洞窟(おおがらさわどうくつ):キリシタン信者の隠れ礼拝所(れいはいじょ)。昭和48年に発見されたそうです。(宮城県東和町、個人所有地のため、見学は大籠キリシタン資料館へ。)

(上)保登子首塚(ほどこくびづか)殉教者の首を埋めたとされている。荒屋敷(あらやしき)の先祖には3名の殉教者がいて、供養碑が北向きに3基建っている。

(上)ハシバ首塚(はしばくびづか)トキソー沢刑場の近くにあり、処刑場の首を架掛(はせが)けにして曝(さら)首にした場所だという。ハシバは架場(はせば)の意かと思われる。その傍らに穴を掘り、斬首(ざんしゅ)の理由書とともに埋めたそうです。

(上)トキゾー沢刑場(ときぞーさわけいじょう)トは「徒」、キは「刑」、ゾーは「場」の意で徒刑場のこと。寛永17年に、10数名が殉教したそうです。:

(上)(上)千松大八郎の墓標:昭和3年7月、故東北大学村岡典嗣教授の調査により、大八郎の墓と認められ、昭和4年9月に碑文が傍らに建立された。

(上)二代目千葉土佐の墓:千葉土佐は千松兄弟を招いてたたら製鉄を始めた。二代目土佐は初代土佐の後を受け、たたら製鉄に専念したそうです。その二代目土佐の墓。

(上)台転場(だいてんば)柵を巡らし、木戸を作り、通行人をキリシタンであるかどうか「踏み絵」によって検問した所だという。踏まない者が地蔵の辻で処刑されたそうです。

(上)最初の見学地・大籠キリシタン資料館の見学を終え、研修バスに戻り、次の目的地「石井閘門」に向かって出発です(9:24時)。

(上と下)道路沿いは見渡す限りの稲田です。は頭を垂れていました。宮城県のようです。

(上)一般道路から高速道路へ入ります。(東日本大震災以来「復興道路」として無料開放中のようです。)(下)「桃生津山(ものうつやま)」IC.まで8㎞の地点。

 


九戸城エトランス広場のオオアワダチソウ(大泡立草)2018年8月18日(土)

2018年08月31日 | 植物図鑑

2018年8月18日(土)「旅する南部塾(第4回)九戸政実と南部氏」のバスツアーで訪れた九戸城エントランス広場の近くの見学路の傍に、黄色い花を沢山咲かせているオオアワダチソウ(大泡立ち草)がありました。私が少年時代まで過ごした福島県郡山市の農村部では「アワバナ」と呼んでいました。私の手持ちの図鑑にはありませんでした。

オオアワダチソウ(大泡立草)キク科 アキノキリンソウ(ソリダゴ)属 Solidaga gigantea var.leiphylla

北アメリカ原産の多年草で、日本では外来種(帰化植物)として全国に定着している。花茎の高さ50~150㎝になる。は茎に互生し、披針形で縁は低い鋸歯状。花期7~9月で、茎の先端に黄色の小さな花が集まって咲く。

 同属の帰化植物であるセイダカアワダチソウと比べると、オオアワダチソウは背が低く、葉や茎がザラザラせず、花穂の先端部分が曲がる。花期も早く、セイダカアワダチソウが咲く頃には花期は終わっている。セイダカアワダチソウのように大群落にもならない。(以下、省略)[下記、Webサイトより] 

https://ja.wikipedia.org/wiki/オオアワダチソウ

オオアワダチソウ(大泡立草)キク科 アキノキリンソウ属 Solidago gigantea var.leiophylla

北アメリカ原産の多年草(帰化植物)。明治時代に観賞用として日本に入ってきた が、現在では日本全国の荒地や河川敷などに野生化している。但し、 同属の帰化植物であるセイダカアワダチソウのように大群落にはなら ない。 高さは50~150㎝。葉は互生し、長さ6~10㎝の披針形で、上半部には鋸歯がある。

7~9月、茎の上部に円錐花序をつくり、直径約7㎜の黄色の頭花が多数つく。セイダカアワダチソウより花期が早く、セイダカアワダチソウが咲く頃にはもう花は終わっている。茎や葉はざらつかず、花穂の先端部 分が横に曲がる。 属名は、ラテン語のsolidus(「完全な」の意)とago(「導く」の意)に由来し、ヨーロッパで傷薬に用いられたことによる。

和名のオオアワダチソウアワダチソウ(アキノキリンソウ)S.virgaurea L.subsp.asiatica Kitam. に似て、かつ大形であることに因む。「アワダチソウ(泡立草)」は、豊かに盛り上がる花の集まりを酒を醸した泡に見立てたもの。

 https://blog.goo.ne.jp/pea2005/s/オオアワダチソウ


一関市大東町大原のアサガオ(朝顔)2018年8月30日(木)

2018年08月30日 | 植物図鑑

2018年8月30日(木)、一関市大東町大原のデイサービスセンタ大東大東町立老人福祉センターの玄関前に植栽されているアサガオ(朝顔)が、赤紫色と青紫色の花を沢山咲かせていました。

 マルバアサガオ(丸葉朝顔)ヒルガオ科 サツマイモ属 Ipomoea purpurea

熱帯アメリカ原産のつる性の一年草。葉円形で互生し、先は急に尖る。7~9月、葉のつけ根から伸びた長い花柄に直径5~8㎝の花が5個前後つく。花の色紅、青、白などさまざま。[山と渓谷社発行「山渓ポケット図鑑2・夏の花」より]


「旅する南部塾(第4回)九戸政実と南部氏」(その9)2018年8月18日(土)

2018年08月30日 | バスツアー

2018年8月18日(土)、IGRいわて銀河鉄道(株)銀河鉄道観光主催の「旅する南部塾(第4回)九戸政実と南部氏」バスツアーが実施されました。

http:// igr-t.jp/2018/06/25/【旅する南部塾】第四回「九戸政実と南部氏」

 最後の見学地である九戸城跡は、二ノ丸跡から本丸跡へと案内されました。本丸南虎口(こぐち)から入り、本丸石垣本丸隅櫓跡石垣を見ました。 

(上)二ノ丸跡:現在見える姿は本丸と共に福岡城の姿です。九戸城時代にも一部、土塁が構築されていた可能性があるそうです。また、東側では竪穴式の工房大型の建物が建ち並んでいた区画が見つかっているそうです。

https://blog.goo.ne.jp/enn37 [ゾウさんと暮らす:⑫金録山は南部信直の陣地]

(上と下3つ)本丸跡から九戸城エントランス広場方面を眺めています(西側になるようです)

(上と下2つ)土井晩翠の歌碑:昭和14年(1939)、リンゴ狩りに訪れた晩翠が九戸城の悲話を聞き、書き残した「荒城の月」を刻んだ碑です。

 


「旅する南部塾(第4回)九戸政実と南部氏」(その8)2018年8月18日(土)

2018年08月29日 | バスツアー

2018年8月18日(土)、IGRいわて銀河鉄道(株)銀河鉄道観光主催の「旅する南部塾(第4回)九戸政実と南部氏」バスツアーが実施されました。

http:// igr-t.jp/2018/06/25/【旅する南部塾】第四回「九戸政実と南部氏」

 バスは、最後の見学地である九戸城跡エントランス広場に着きました(14:07時)。ここにある休憩もできるガイドハウスでVTRを観てから、案内人の柴田知二(二戸市教育委員会)氏の説明を受けた後、その後に就いて歩きました。(14:39時出発)

(上と下)エントランス広場の東側にある土塁堀跡を越えて、「二ノ丸跡」の近くにある「大手門跡」に向かいます。

(上)左側に向かうと「二ノ丸搦手」に出ます。帰路はそこからになりました。

(上と下)急峻な崖が続いています。上には「二ノ丸跡」があります。

(上と下)今は自動車道路などがある「深田堀跡」

(上と下)「二ノ丸大手門跡」から入ります。「車両進入禁止」になっていました。

(上と下4つ)発掘調査がなされていました。(この日は休日)

(上)公衆トイレ

https://blog.goo.ne.jp/enn37[⑪戦国ダンシ 兄弟役の父と子]

(上と下)二ノ丸の堀跡