『らんまん』全話をメモ取りながら見てわかった…!制作側が「本気で“曖昧”にしていたこと」と、視聴者から支持された「最大の理由」
堀井 憲一郎 によるストーリー •1 日
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2020年10月9日(金)、インターネットサーフィンをしていたら下記のWebサイトに出会いました。”映画とドラマのレビューサービス・Filmarks(フィルマークス)が、「2020年 地上波放送の秋ドラマ期待度ランキング」を発表し、1位に上野樹里主演の「監察医 朝顔」(第2シーズン)が輝いた。”というものです。
”期待度1位に選ばれた「監察医 朝顔」(第2シーズン、11月2日スタート、毎週月曜21時~フジテレビ系)は、2019年7月~9月に放送された同名連続ドラマの続編。東日本大震災で母を失った法医学者の主人公・朝顔(上野樹里)と、刑事の父・平(時任三郎)がそれぞれの立場で遺体の「生きた証」を見つけていくヒューマンドラマで、今回は月9ドラマ史上初めて2クール連続で放送される。”
2019年に放送されたこのドラマに凄く感動したことを覚えていますので、11月2日(月)から放送されるというこのドラマを大いに期待したいと思います。
https://www.fujitv.co.jp/asagao2/
2020年10月2日(金)、毎日観ているNHK連続テレビ小説『エール』第16週「不協和音」[9/28(月)~10/2(金)]は、昭和19年(1944)頃のことと思われる所にさしかかっていました。
私の家族(母と私と昭和12年5月生まれの姉と昭和18年10月生まれの弟の4人)は、この年の7月頃、福島県安積郡富久山町久保田から、5㎞ほど離れた所にある郡山市郊外の純農村地区の母の生家に転居したのですが、米などの食料品をはじめ皆「配給」に依存していたので、このドラマで描かれているような状態(ご飯に薩摩芋を入れて食べている)でした。特に「コメ(米)」は配給だけでは全然足りず、「ヤミゴメ(闇米)」に頼っていたそうです。。終戦の頃には母が大事にしていた着物(和服)をコメや薩摩芋、じゃが芋(「カンプラ芋」と呼んでました。)、南瓜などと交換したそうです。お金が有っても物が無い時代ですから農家ではそうした「物々交換」にしか応じなかったそうです。
その頃の食事は、「カデ(糧)飯」と呼んでいた大根を細かく刻んで入れたり、薩摩芋や大麦を入れたものが普通でした。それでもコメ(米)が入ったご飯を食べられるのは3食の中1回だけの日もありました。後は、うどん粉を練ってつくった「うどん」や「ハット」(薄く伸ばしただんご)だけのこともありました。[野菜などの具が数種類入っていたので、結構美味しく頂きました。)いつも腹を減らしていたので、薩摩芋やジャガイモ、南瓜などを蒸かして貰ってよく食べました。味付けが良いし、肉が入っていたりして、その当時のものとは随分違うものだと思うのですが、「ハット」は今でも時々食べます。
その頃、私は満5歳でしたが、母の生家にだけ頼るわけにいかなかったようで、3㎞ほど離れている父の生家に「コメ貰い」に行かされたことがあります。手ぬぐいの布で作った袋と子供をおんぶする白い帯を持たされて行って、5升ほどの米を背負って(我が家から800mほど離れた所から500mほどは小川に沿った道で、その途中にある水車小屋が”ザーゴトン、ザーゴトン!と動いていました。そこのところは雨水が道路を横切っていたので、じゃぶじゃぶ歩いて帰ってきたことを今でも覚えています。
昭和20年8月頃、五体満足で復員した父にその事を話したとき、父は「田圃を買うときにお金を用立てたので、米は届けると言っていたのに」と呟きながら、じっと考え込むような態度でした。父の生家を継いでいた伯父(父の兄で長男)[この時、祖父(父の父と母は生きていました。)の所も子沢山で生活が苦しかったのでしょうが、親子兄弟でもこのような有様でした。
NHK連続テレビ小説『エール』を毎日観ています。妻が留守録してくれているので、見逃すことなく、自分の都合の良い時間に見ることができているのです。
第15週「先生のうた」[9/21(月)~9/25(金)]辺りから、戦時色がさらに深まる中で物語が展開しています。
昭和16年(1941)7月7日、ついに太平洋戦争(当時は「大東亜戦争」と呼んでいました)が勃発(盧溝橋事件)。この事件は、当時は「満州事変」と呼ばれていたようですが、私の父も、その頃「召集」され、当時占領して有効支配していた「満州国」辺りに出征したようです。私は、昭和14年3月生まれなので、当時は未だ満2歳、勿論何も覚えていません。
私の父は、昭和17年(1942)頃、一旦「召集解除」になり帰国していますが、戦争が激しさを増すにつれ、日本は次第に苦境に立たされていきます。昭和19年(1944)頃には「再招集」され、ソ満国境辺りに出征しています。
第16週「不協和音」[9/28(月)~10/2(金)]では、この物語の主人公・古山裕一の幼馴染で、歌手として活動する佐藤久志に召集令状が届き、壮行会を開き送り出す模様などが描かれていました。
私たちは、当時、福島県安積郡郡富久山町久保田の町営住宅に住んでいたのですが、この情景が、父の再招集で出征するときの模様と重なってきます。私の父も同じように日の丸の小旗を持った親族・親戚や近隣・会社の人たちに見送られて国鉄郡山駅まで歩いたのです。古関祐而作曲の「露営の歌」や「暁に祈る」の歌で送られたことなどが思い出されます。
”あああの顔で あの声で 手柄頼むと 妻や子が ちぎれる程に 振った旗 遠い雲間に また浮かぶ”という詞(作詞:野村俊夫)とか”勝ってくるぞと 勇ましく 誓って故郷(くに)を 出たからは 手柄たてずに 死なりょうか 進軍ラッパ 聞くたびに 瞼(まぶた)に浮かぶ 旗の波”(作詞:藪内喜一郎)の歌詞を今でも覚えています。
このとき、満5歳だった私は、父が戦場に征くということがどんなことを意味するのか全く分かっていませんでしたので、父の行列の先頭(「祝・出征 ○○○○君」ののぼり幡を持った大人の前)を大手を振って歩いたのだそうです。
第77話(9月29日放送)では、戦火が広がり、戦争が激しくなるにつれて、裕一たちの生活に大きな影響を与えるようになっていく様子が描かれていました。さつま芋が沢山入ったご飯を食べる情景が映し出されていました。
我が家も同じようなものでしたが、昭和19年の7月頃、富久山町にある日東紡績工場を狙ったと思われる爆撃があったことから(爆弾が落とされ、周辺の民家などが真っ赤な火柱をあげて夜通し燃えていました。)母は5~6㎞程離れた所にある郡山市近郊の純農村地区にある生家へ直ぐ「疎開」することを決心し、実行していますので、食糧事情は幾らか良かったのではないかと思います。