NHK連続テレビ小説『エール』を毎日観ています。妻が留守録してくれているので、見逃すことなく、自分の都合の良い時間に見ることができているのです。
第15週「先生のうた」[9/21(月)~9/25(金)]辺りから、戦時色がさらに深まる中で物語が展開しています。
昭和16年(1941)7月7日、ついに太平洋戦争(当時は「大東亜戦争」と呼んでいました)が勃発(盧溝橋事件)。この事件は、当時は「満州事変」と呼ばれていたようですが、私の父も、その頃「召集」され、当時占領して有効支配していた「満州国」辺りに出征したようです。私は、昭和14年3月生まれなので、当時は未だ満2歳、勿論何も覚えていません。
私の父は、昭和17年(1942)頃、一旦「召集解除」になり帰国していますが、戦争が激しさを増すにつれ、日本は次第に苦境に立たされていきます。昭和19年(1944)頃には「再招集」され、ソ満国境辺りに出征しています。
第16週「不協和音」[9/28(月)~10/2(金)]では、この物語の主人公・古山裕一の幼馴染で、歌手として活動する佐藤久志に召集令状が届き、壮行会を開き送り出す模様などが描かれていました。
私たちは、当時、福島県安積郡郡富久山町久保田の町営住宅に住んでいたのですが、この情景が、父の再招集で出征するときの模様と重なってきます。私の父も同じように日の丸の小旗を持った親族・親戚や近隣・会社の人たちに見送られて国鉄郡山駅まで歩いたのです。古関祐而作曲の「露営の歌」や「暁に祈る」の歌で送られたことなどが思い出されます。
”あああの顔で あの声で 手柄頼むと 妻や子が ちぎれる程に 振った旗 遠い雲間に また浮かぶ”という詞(作詞:野村俊夫)とか”勝ってくるぞと 勇ましく 誓って故郷(くに)を 出たからは 手柄たてずに 死なりょうか 進軍ラッパ 聞くたびに 瞼(まぶた)に浮かぶ 旗の波”(作詞:藪内喜一郎)の歌詞を今でも覚えています。
このとき、満5歳だった私は、父が戦場に征くということがどんなことを意味するのか全く分かっていませんでしたので、父の行列の先頭(「祝・出征 ○○○○君」ののぼり幡を持った大人の前)を大手を振って歩いたのだそうです。
第77話(9月29日放送)では、戦火が広がり、戦争が激しくなるにつれて、裕一たちの生活に大きな影響を与えるようになっていく様子が描かれていました。さつま芋が沢山入ったご飯を食べる情景が映し出されていました。
我が家も同じようなものでしたが、昭和19年の7月頃、富久山町にある日東紡績工場を狙ったと思われる爆撃があったことから(爆弾が落とされ、周辺の民家などが真っ赤な火柱をあげて夜通し燃えていました。)母は5~6㎞程離れた所にある郡山市近郊の純農村地区にある生家へ直ぐ「疎開」することを決心し、実行していますので、食糧事情は幾らか良かったのではないかと思います。
https://www.nhk.or.jp/yell/
https://www.nhk.or.jp/yell/special/interview/09.html
https://www.msn.com/ja-jp/news/entertainment/ef-bd-8e-ef-bd-88-ef-bd-8b-e6-9c-9d-e3-83-89-e3-83-a9-e3-80-8c-e3-82-a8-e3-83-bc-e3-83-ab-e3-80-8d-ef-bc-92-ef-bc-99-e6-97-a5-e3-81-ae-ef-bc-97-ef-bc-97-e8-a9-b1-e8-a6-8b-e3-81-a9-e3-81-93-e3-82-8d-e6-88-a6-e4-ba-89-e3-81-8c-e6-bf-80-e3-81-97-e3-81-8f-e3-81/ar-BB19tZX