peaの植物図鑑

草や木の花や木の実(果実)、特に山野草が好きで、デジカメを持ち歩いて撮っています。2024年3月、85歳になります。

諏訪八景と『陸奥胆澤郡須輪神社法楽八景和歌』 2017年11月18日(金)

2017年12月07日 | 寺院、神社

2017年11月18日(土)、岩手県胆沢郡金ケ崎町「金ケ崎町城内諏訪小路重要伝統的建造物群保存

地区(武家町)」を散策しました。「白糸まちなみ交流館」から金ケ崎神社金ケ崎城跡の順で歩いた

のですが、金ケ崎神社(旧諏訪神社)にある諏訪八景と『陸奥胆沢郡須輪神社法楽八景和歌』というの

が目にとまりました。天明5年(1785)、菅江真澄がこの神社に参拝したおり、奉納したものだそうで

す。 

 諏訪八景と『陸奥胆沢郡須輪神社法楽八景和歌』

 古来より諏訪神社(現・金ケ崎神社)境内からの東方の眺望は景勝の地として有名であり、多くの旅

人歌人が訪れ歌を詠んできた。天明5年(1785)、菅江真澄(1754~1829)が当社に参拝したおり、

境内から東方に広がる景色を近江八景になぞらえて釜淵の夜雨、片岡の夕照、北上川の帰帆、三箇尻の落

雁、三五岳の秋月、八王子の晴嵐、早池峰の暮雪、国見山の晩鐘を詠じ『陸奥胆沢郡須輪神社法楽八景和

歌』として奉納した。[金ケ崎町教育委員会発行「金ケ崎町文化財ガイド」(平成28年発行)より] 


胆沢郡金ケ崎神社の諏訪詞碑 2017年11月18日(金)

2017年12月06日 | 寺院、神社

2017年11月18日(土)、岩手県胆沢郡金ケ崎町「金ケ崎町城内諏訪小路重要伝統的建造物群保存

地区(武家町)」を散策しました。「白糸まちなみ交流館」から金ケ崎神社金ケ崎城跡の順で歩いた

のですが、金ケ崎神社(旧諏訪神社)にある「諏訪詞碑」というのが目にとまりました。何度も行って

いるのに今まで気にも留めませんでした。 

諏訪詞碑:金ケ崎神社(旧諏訪神社)境内にある安永7年(1778)に羯摩院行光が建てた碑。神の徳を

称え、安倍氏と源氏の前九年合戦から神社の由来と、境内からの東方の眺望が文化力をもっていると刻

んでいる。安永7年(1778)に金ケ崎の歴史を記している貴重な碑である。[金ケ崎町教育委員会発行

「金ケ崎町文化財ガイド」(平成28年発行)より]

http://www.town.kanegasaki.iwate.jp/01town/04denken/image/map201504.pdf

[藩境の緑ゆたかな要害マップ]


 


宮城県護国神社 2017年10月1日(日)

2017年10月03日 | 寺院、神社

2017年10月1日(日)、20数年ぶりに仙台城本丸跡(宮城県仙台市青葉区川内1-11)に行きました。

JR仙台駅前のバスプールから仙台市営のバス「るーぷる仙台」に乗り、仙台城本丸詰門(つめのもん)     
跡入口にあるのバス停「仙台城跡」で降りました。仙台城見聞館が建てられ、仙台城本丸跡発掘調査に
もとづく本丸大広間跡遺構表示がなされていました。

 時間が充分あったので、仙台城敷地内にある宮城県護国神社(宮城県仙台市青葉区川内1番地)も外側

だけ見学しました。 (下)表参道大鳥居

(上)登り口に立てられていた「英霊顕彰館」の看板:”英霊顕彰館」は、年末年始の特別開館日を除き、

来年2月末日まで土・日・祝日のみの開館となります。(平日閉館)

(上と下)バス停のある鳥居から150mほど登った所にある「護国神社社務所入口」

(上と下3つ)英霊顕彰館

(下3つ)英霊顕彰館の前にある「航空特別攻撃隊の碑」

(上)正面大鳥居、(下)拝殿

(上と下3つ)「鎮魂の泉」

 http://www.gokokujinja.org/top/ [宮城県護国神社]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%B8%A3%E8%AD%B7%E5%9C%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE[宮城県護国神社:Wikipedia] 


源義経北行伝説の寺・奥州市江刺区の玉崎神社 2017年9月24日(日)

2017年10月01日 | 寺院、神社

2017年9月24日(日)、奥州市江刺区玉崎神社(玉里字玉崎498)を参拝しました。この神社は

「源義経北行伝説」の神社として知られています。場所は、人首川(ひとかべがわ)に沿って走る県道

水沢米里線(盛街道)沿いにあります。

(上と下)玉崎神社は県道から約200mほど入った所にある。(下)第一の鳥居

(上2つ)昔からの参道と思われる道。第2の鳥居?(下)自動車も通れる道。

(上)天照皇大神

 

 http://www.iwatetabi.jp/spot/detail/03215/113.html?printable=yes [玉崎神社]


奥州市江刺区「館山史跡公園」の岩谷堂城址&西洋紫陽花 2017年8月27日(日)

2017年08月29日 | 寺院、神社

2017年8月27日(日)、えさし郷土文化館(奥州市江刺区岩谷堂字小名丸102-1)主催の「相原康二

館長のツキイチ講座」が開かれる日なので、江刺区岩谷堂に行きました。この日は、近くにある館山

史跡公園岩谷堂城址&館山八幡神社、二清院を数年ぶりに見学してきました。頂上部の平地に沢山植

栽されているセイヨウアジサイ(西洋紫陽花)が、未だ少しだけ綺麗なを咲かせていました。

(上)藤原御館跡について:この地は古来御館山とよばれ、平安時代末期、藤原経清とその子藤原清衡

父子の居住した砦館の跡とも伝えられ、大規模な土塁城砦の遺構と掘の一部が現存している。経清

百足退治の伝説で知られる田原ノ藤太秀郷子孫といわれ、陸奥の国司に従って奥州に下り、初の宮城県

亘理地方を支配して亘理権大夫と呼ばれたが、後に俘囚の長と言われた大豪族安倍頼時の娘婿となって

江刺郡に移り住み、この地で清衡が生まれた。

 経清は、安倍氏征討のための「前九年の役」が始まると、初め朝廷軍の源頼義に従ったが、中途から妻

の父である安倍頼時に味方して、源頼義、義家父子出羽の清原武則の連合軍と戦い、厨川の柵で敗死し、

経清の妻は清衡を伴って、敵将清衡武貞に再嫁した。後に清原氏の内紛から起こった「後三年の役」で清

衡は源義家の援けを得て勝ち残り、生誕のこの地に戻って奥六郡の主となった。康和年中(1099年頃)、

清衡は江刺郡豊田館から平泉へ居を移した。昭和58年、岩手県埋蔵文化財センターがこの地を発掘した際、

平安時代の住居跡が発見されている。江刺市 

(上と下)館山八幡神社

(上)八幡神社の傍にある銀杏の巨樹

(上と下)藤原経清、清衡公の木造を安置した二清院