ミュンヘンからの中継を観た。入券に並んだ演奏会だ。とてもよかった。指揮のキリル・ペトレンコにとっては私が聴いたアルテオパー公演、そしてドレスデンでの演奏会以来の本番だった。そうした先入観なくともとても気の入った指揮だった。どこが無人の演奏会と違うかはまさにその背を向けている会場が肩越しに感じられた。恐らく視覚的にも何かが違う。どう違うかは私のような眼では鑑別出来ないが、専門家が観ると違う筈だ。なんとなく首筋と肩への力の掛かり方が違うように思う。
一曲目は、忘れていたのだが、アカデミーの人たちの演奏だった。見慣れぬ顔と映ったと同時にヴァイオリンの女性はどこかで観ている。昨年のオープンエアーの時かどうかは思い出せない。シェーンベルクの室内交響楽団一番は実演では一度ぐらいブーレーズ指揮で体験していると思うが、録音はそのブーレーズやシノポリなど比較的な限られたものしか聴いていない。しかしなぜか手もとに総譜がある。印象としては矢張り隅々まで行き届いていて、可成り明白な表現となっていた。又若い人が準備をしているだけでなくてよく食らい付いていた。
なによりもその楽器配置もあるが、久しぶりの充実した響きで驚いた。これだけは舞台の前の広げられ押し上げられた奈落で演奏したので、新シーズンへの大きなチェックとなった。マイクで捉える音はとても素晴らしい。「ファルスタッフ」やら「ヴォツェック」が上手く配置できるのかどうかは知らないが、大分切り込むのだろう。その分演奏の精度は更に上がることが予想される。
その意味からも次の曲は今迄の板の上での演奏で「プルチネッラ」組曲だった。これまた小澤がケルンにヴィーナーフィルハーモニカーを連れてやって来たときの中継映像が印象深い。そしてそこの楽団との違いもこの演奏ではよく出ていて、なによりも打てば響くような指揮と演奏との関係が素晴らしく、まだこの域にはベルリンでは至っていないと改めて感じさせた。ムジツィーレンという喜びがあればまさにこの指揮者と奏者間で織り成すこれだ。距離が開いているために管楽器同士も視覚での窺うように直にコムボをしていて、この曲のバロック的な抒情に思わず感が極まる。
なるほどベルリンでも同じように普段はこうした一人一人と指揮者の関係もそれほど強くないが、ある期間のお付き合いがあって去って行く人とのコムボはとても印象深いものだった。人選も重ならないように徹底的に色々な人が顔を出して来て、それでも限られた人だけが登場した。編成の大きさもさることながら、会場がフィルハーモニーでは無くて混じりあいが多く、とても充実した音響だった。こうした条件を聴くとやはりまたフランクフルトの放送ホールでの音響とはまた違っていて本当に素晴らしいと思った。平素の大編成のそれよりも濁らないのでいいと思った。
三曲目は人気テノールのヨーナス・カウフマンが出て来たが、その見栄えからしてなにか上手くいかないと感じた通りだった。シェンベルク編曲のマーラーの同じ曲はペトレンコは三年ほど前にボーデンゼーで指揮していて、これは編成も異なるがテムポ設定がまた全く異なった。協奏曲でと同じように歌手に合わせただけだと思うが、やればやるほど技術的に破綻しそうで落ち着いて聴いていられなかったので台所に立ったぐらいだ。そう言えばあのハムブルクのエルブフィルハーモニーで、「聞こえないぞ」となじられた理由も分かるような歌いっぷりで、技術やコンデション以前に彼自身のコンセプト自体が上手くいっていないのではないか。
終曲の「商人貴族」は、嘗て先輩のヴォルガンク・ザヴァリッシュが得意にしていた組曲だ。その印象からすると遥かにオペラのここそこや交響詩の一節のその意味合いなどを思い出させて、とても立体的な演奏実践だった。それにしてもこうしたリヒャルト・シュトラウスの作品を演奏させると右に出る楽団は他にない。ヴィーナヴァルツァーなどもパロディーであることが重要なのだ。何でもない事なのだが節々に息吹がある。可能ならば秋にでも実演で聴いてみたいと思う。
これら全て驚くほどにスムーズな生中継放送となった。二回の大きな舞台転換には新シーズンの新制作のトレーラがふんだんに流れた。あの拡張された奈落での音響には最早疑問の余地が無く、前回のバロック曲での試演と合わせて大した判断だったと思う。あとはその管弦楽団の刈り込み方と会場の席数の問題となる。評論家だけでなく当夜の訪問者が既にマスクの問題とそのポピュリズムの知事に苦情しているように、馬鹿なことは止せと抗議行動をしなければいけないと思う。せめて署名運動は良いのではなかろうか。
参照:
あまりにも壊れ易い世界 2020-02-23 | 音
大規模催し物の評価と対策 2020-04-16 | 文化一般
一曲目は、忘れていたのだが、アカデミーの人たちの演奏だった。見慣れぬ顔と映ったと同時にヴァイオリンの女性はどこかで観ている。昨年のオープンエアーの時かどうかは思い出せない。シェーンベルクの室内交響楽団一番は実演では一度ぐらいブーレーズ指揮で体験していると思うが、録音はそのブーレーズやシノポリなど比較的な限られたものしか聴いていない。しかしなぜか手もとに総譜がある。印象としては矢張り隅々まで行き届いていて、可成り明白な表現となっていた。又若い人が準備をしているだけでなくてよく食らい付いていた。
なによりもその楽器配置もあるが、久しぶりの充実した響きで驚いた。これだけは舞台の前の広げられ押し上げられた奈落で演奏したので、新シーズンへの大きなチェックとなった。マイクで捉える音はとても素晴らしい。「ファルスタッフ」やら「ヴォツェック」が上手く配置できるのかどうかは知らないが、大分切り込むのだろう。その分演奏の精度は更に上がることが予想される。
その意味からも次の曲は今迄の板の上での演奏で「プルチネッラ」組曲だった。これまた小澤がケルンにヴィーナーフィルハーモニカーを連れてやって来たときの中継映像が印象深い。そしてそこの楽団との違いもこの演奏ではよく出ていて、なによりも打てば響くような指揮と演奏との関係が素晴らしく、まだこの域にはベルリンでは至っていないと改めて感じさせた。ムジツィーレンという喜びがあればまさにこの指揮者と奏者間で織り成すこれだ。距離が開いているために管楽器同士も視覚での窺うように直にコムボをしていて、この曲のバロック的な抒情に思わず感が極まる。
なるほどベルリンでも同じように普段はこうした一人一人と指揮者の関係もそれほど強くないが、ある期間のお付き合いがあって去って行く人とのコムボはとても印象深いものだった。人選も重ならないように徹底的に色々な人が顔を出して来て、それでも限られた人だけが登場した。編成の大きさもさることながら、会場がフィルハーモニーでは無くて混じりあいが多く、とても充実した音響だった。こうした条件を聴くとやはりまたフランクフルトの放送ホールでの音響とはまた違っていて本当に素晴らしいと思った。平素の大編成のそれよりも濁らないのでいいと思った。
三曲目は人気テノールのヨーナス・カウフマンが出て来たが、その見栄えからしてなにか上手くいかないと感じた通りだった。シェンベルク編曲のマーラーの同じ曲はペトレンコは三年ほど前にボーデンゼーで指揮していて、これは編成も異なるがテムポ設定がまた全く異なった。協奏曲でと同じように歌手に合わせただけだと思うが、やればやるほど技術的に破綻しそうで落ち着いて聴いていられなかったので台所に立ったぐらいだ。そう言えばあのハムブルクのエルブフィルハーモニーで、「聞こえないぞ」となじられた理由も分かるような歌いっぷりで、技術やコンデション以前に彼自身のコンセプト自体が上手くいっていないのではないか。
終曲の「商人貴族」は、嘗て先輩のヴォルガンク・ザヴァリッシュが得意にしていた組曲だ。その印象からすると遥かにオペラのここそこや交響詩の一節のその意味合いなどを思い出させて、とても立体的な演奏実践だった。それにしてもこうしたリヒャルト・シュトラウスの作品を演奏させると右に出る楽団は他にない。ヴィーナヴァルツァーなどもパロディーであることが重要なのだ。何でもない事なのだが節々に息吹がある。可能ならば秋にでも実演で聴いてみたいと思う。
これら全て驚くほどにスムーズな生中継放送となった。二回の大きな舞台転換には新シーズンの新制作のトレーラがふんだんに流れた。あの拡張された奈落での音響には最早疑問の余地が無く、前回のバロック曲での試演と合わせて大した判断だったと思う。あとはその管弦楽団の刈り込み方と会場の席数の問題となる。評論家だけでなく当夜の訪問者が既にマスクの問題とそのポピュリズムの知事に苦情しているように、馬鹿なことは止せと抗議行動をしなければいけないと思う。せめて署名運動は良いのではなかろうか。
参照:
あまりにも壊れ易い世界 2020-02-23 | 音
大規模催し物の評価と対策 2020-04-16 | 文化一般