Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

オペラはフィルハーモニー?

2022-01-17 | 文化一般
昨年11月のコンサート形式公演「マゼッパ」のベルリンでの収録をハイレゾで初めて流した。生でバーデンバーデンで聴いたものを圧縮音源では偲びないから聴いていなかった。想定はしていたが、昨春にみっちり練習して更に秋にバーデンバーデンで一週間の練習と総練習、二晩の本番、フィルハーモニーの三晩で本番だけでも五回目の演奏だけの内容だ。

先日のベルリンの放送局の評論が「イオランテ」は、殆ど「マゼッパ」程度に迫っていたと話していた真意が分かった。ベルリンの聴衆は平素最初の出来上がりばかりを聴かされていて、これだけ熟れた演奏は聴いていなかったのだ。しかし玄人ならそれを言及するか少なくとも自覚して示唆しなくては玄人ではない。

要するにこのことは何回かここでも言及しているのだが、ベルリンでの定期の幾つかはツアーに出る前の総稽古に近い演奏しかしていない。反対に今後とも復活祭でのオペラ上演演目は最後にフィルハーモニーで演奏会形式で完璧に演奏する。

とても逆説的なのだが、オペラ演奏の完璧なものを「聴き」たければフィルハーモニー、管弦楽ならツアー先という構造が成り立つ。しかし先ごろの「イオランテ」こそは復活祭で今回は偶々歌手が代わるのだが四回目の本番が演奏会形式でなされることになる。勿論やり直して一回でそれ程上手くいくとは限らない。

「マゼッパ」公演に関しては昨春は舞台が作れなかったことから昨秋バーデンバーデンで特別に演奏会形式で行われたのだが、そこでの録音がまだ放送されていない。恐らく復活祭の最後の販促として3月頃に放送されると思う。

よって、ベルリンでのこの録画はもうそれだけで過去の同曲の決定版の録音になってしまう。同時にバーデンバーデンでは不満に思っていたマゼッパ役のスリムスキーの歌唱がここでは明らかにマイクによって欠点が隠されてしまっている。恐らくフィルハーモニーでもあの楽譜を見ながら歌う角度では天井桟敷には声は飛んでいなかったと思う。来る「スペードの女王」でもヘルマンを歌う予定になっているので総稽古にでも出かけて行って注意でもしないといけないと思うぐらいだ。演出家の仕事でもある。トップの実力派とされているがやはり若いので経験が薄いのかもしれない。ペトレンコのアシスタントを務めるコンクールで優勝した男性の仕事でもあろう。

ここでこれまた何回も考えている一体どこでどのように収録しておけば歴史的に残るベストのものが残せるかという話題になる。恐らく「スペードの女王」も音声としてはベルリンでの収録が決定的なものになると思われるが、演出云々によらず復活祭での収録はそれとは異なる熱いものになるという見込みがペトレンコにもあるのだろう。再び復活祭で四回上演するようになるので、編集素材は過不足なく出来るので、ミュンヘンでの総稽古から五回目ぐらいの質は残せるのではなかろうか。歌のことを考えれば後半は不利になるかもしれないが、上手く編集すればいいものを残せるだろう。

「イオランテ」はソニア・ヨンチェヴァ主演の商業ヴィデオが出ているので録らないかもしれない。しかし今回のグリゴーリアンのものが残せたのは幸運だった。ArteやSWRには僕と同じぐらいに真剣に考えて欲しいものだ。
Iolanta: Arioso ー ヨンチェヴァ、ニューヨークメトロポリタン歌劇場での公演から

Iolanta / The Nutcracker | "Atchevo" by Sonya Yoncheva | Palais Garnier 2016 (DVD & Blu-ray excerpt) ― ヨンチェヴァ、パリでの公演から


参照:
輝かしい満天の星 2022-01-14 | マスメディア批評
復活祭に向けての準備 2022-01-12 | 文化一般
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鈍器でドンの音の密度

2022-01-16 | 
ベルリンからの中継を観た。アスミク・グリゴーリアンの独唱部は限られるが、それでも満足した。出かけていても満足だったろう。しかしこの生中継で必要なことは殆ど得られた。

先ずはグリゴーリアンの生の声を知っていれば、その声がフィルハーモニーでどのように通っているかはよく分かる。最後にペトレンコが天井桟敷の喝采を覗いてそれを確かめていたのに違いない。声を抑えて殆どもぞもぞ発声しているときにもどれほど聴こえるか、これは生で聴くまではなかなか想像がつかない。そこで彼女の発声と身体から鳴っているのを確認するだけなのである。少なくとも私が聴いた大歌手でこのような発声が出来る人は知らない。フレーニでもジェシー・ノーマンでもこのようには鳴らない。これだけでも世紀のソプラノなのである。

同時にベルリナーフィルハーモニカーの音響もペトレンコ指揮で何回か経験していれば今回の鳴りがまさしく「悲愴」から一歩一歩作ってきたその音響だと分かると思う。完全に鳴り切っていて、それでいてフォンカラヤン時代のような鈍重さはなくどこまでも繊細に鳴る反面、音の密度の高さは圧倒的で、鈍器でドンと頭蓋骨に当てられる質量感がある。まさしくこの演奏の為に時間を掛けて作ってきた様な音響だった。そしてそれが声にぴったりと寄り添うのはフィナーレの合唱を聴けば納得するだろう。

初日の絶賛の批評でも、静かに始まって最後に静まるアーチ状の構造なんてあったのだが、どうして最後の盛り上がりの素晴らしいこと。舞台上演でなくても感動した。そしてその重唱の中でも通るグリゴーリアンの声で、復活祭の「スペードの女王」の上演であのフォンカラヤンが為しえなかったスーパーオペラの実現が近づいてきたと確信した。

準備のためにバーデンバーデンでのネトレブコ主演のペテルスブルクの劇場の巡業公演のヴィデオをを流した。指揮は親分のゲルギーエフで、この領域では第一人者である。しかし音楽の芯を支えているのはネトレブコだと思った。ゲルギーエフは劇場経験も長い分独自の上演のコツを得ているようで、練習を殆んどしないでも纏めてしまうノウハウがあるのだろう。それでも音楽自体はネトレブコがしっかり歌っているものだから骨組みがしっかりしているようでものになっている。彼女は、若い時からドラマティックな声で、先ごろのミラノでのマクベス夫人同様に、このイオランテ役も声に合っていないかもしれない。しかしそ歌唱技能は一晩の公演を支えるだけの骨太のもので、流石に金の取れる歌手である。もしこの声がなければよれよれの指揮ではやはり90分ほどの短いオペラでも何が何だか分からなくなる。

我々世代は大宅政子のお陰でロシアオペラに散々退屈な経験をしたのだが、ゲルギーエフのオペラはその流れを汲んでいる。あまりにもオペラのドラマを作ろうとしてデフォルメが激しく拍節が更によれよれになっていて、全くヴェクトルがなくなりそうになる。多くのオペラファンがロシアのオペラはそうしたものと考えている典型の一寸高品質版であって、盛り上がりがあって拍手するバーデンバーデンの聴衆がおたんこなすにしか思えない。

復活祭の「スペードの女王」はスーパーオペラの開花であると同時にロシアオペラのルネッサンスになると思う。キリル・ペトレンコが自らいいと思う演出にも期待したい。



参照:
オミクロンの格安感 2022-01-15 | 料理
輝かしい満天の星 2022-01-14 | マスメディア批評
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オミクロンの格安感

2022-01-15 | 料理
やはりオミクロン感染の可能性が強い。頭痛とか微熱と息苦しさなどコロナでおなじみの症状と同時に軽さがある。なによりもおかしい思うのは坂を駆け上がるときの苦しさである。どこで感染したかは不明なのだが、それぐらい感染力があるのだろう。暫くは人に会う予定もないので全く問題がない。兎に角足に酸素も行かずに短い距離乍苦しかった。こういう時は歩いても坂を上るのはつらいだろうと思う。

帰って来てから起きていられなかったので、夕食前にひと眠りした。長い距離ならば分かるのだが、3キロで高度差も170メートルぐらいなのでやはり異常である。夕食も青椒肉絲をしっかり食した。その後にパン屋で初めて購入したシュヴァルツヴェルダートルテのロールというのを食して、紅茶も飲んだので利尿効果も十分だった。

しかしやはり一週間ほど続いた微熱と頭痛、喉の不調から胸への痛み、更に空咳と従来型では顕著に出なかったような症状が出ている。従来型が気持ち悪かったのはこうしたインフルエンザや風邪の症状とは全く異なる胸のスカスカ感とか短い高熱とかで異常な症状が次から次へと半年ほど繰り返し様々な症状が出たところである。それに比較すると明らかに風邪に近く急性で劇性な感じである。

それにしても今週からもしくは先週からを思い起こしても身近で話した回数と人数は数えるほどなので、やはりスーパーや商店等の空気にやられたのだろう。それも累計しても一時間超えるほどでそれほどの密室に入った覚えもない。マスクは横着して古いものを使っていたが、そもそもそれでどれほど避けられたものか。

その間に四回、計20キロ、高度差1000メートル以上は走っているので新陳代謝も取れていた筈だが、いつもになく寒く感じていたのは事実で結構苦しい思いをした。それだけでなくやはりお店などでも不調そうな顔をしていたのか、覗き込まれる感じが若干あった。しかし昨年の胸の穴が開いているような高度障害的な感じは全くしなかった。

今晩最終で抗原検査を受けて、土曜日にベルリン往復する計画も立てていたが、こういう事態も予想して断念していた。列車に揺られて熱を出して咳き込むと面倒なことになっていた。更にここで罹患証明を貰っても三か月も有効にならないかもしれない。

そこで、各紙の水曜日の批評に目を通して、先ずは「イオランタ」全曲のピアノ譜をダウンロードする。ラディオでの批評の対象になっていたバーデンバーデンでの2009年9月のマリンスキー劇場引っ越しネトレブコ主演公演でのヴィデオがあったのでこれを流そう。そして土曜日の生中継に備える。
OPERA Иоланта / Iolanta (Tchaikovsky) ANNA NETREBKO - SERGEI ALEKSASHKIN (Teatro Mariinski 2009)


復活祭の為に準備するつもりでいたが予定が早まった。更に3月のシュトッツガルトでの再演「ボリス」の予約が締め切りになって、配券されるとなるとこれもお勉強しなければいけなくなる。そして「スペードの女王」だ。

ケーキは今時珍しいぐらい甘味とシュナップスを利かせていた。悪くはないのだが、やはり中途半端に田舎のコンディトライ感があって、パン屋のそれとは違うと感じる。馬鹿に量感があって割安には違いないと思うが。



参照:
輝かしい満天の星 2022-01-14 | マスメディア批評
要らないと思っていた 2020-09-12 | 雑感
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輝かしい満天の星

2022-01-14 | マスメディア批評
朝早い放送を待った。7時45分だから車で通勤中の人も多いだろうか。ベルリンからの放送で、前の晩のフィルハーモニーでのオペラ「イオランタ」の演奏会形式上演の批評だった。

こちらの興味は急遽飛び入りしたアスミク・グリゴーリアンとキリル・ペトレンコの初共演ぶりである。グリゴーリアンをフランクフルトで最初に聴いたときにこの歌の細やかさを引き出すにはペトレンコの指揮以外にはないと思ったからだ。既にその時にバーデンバーデンでのデビューは決まっていた。だから当夜の歌手との集いで一体ペトレンコと何をやるのだと質そうかと思っていた.。復活祭以外に彼女が出る可能性はもはやないと予想していたからだ。つまりペテルスブルクのマリンスキー劇場一座の土佐周りに付き合う時間などはもはやないと認識していたからである。

「オネーギン」とかまた昨年演奏された「マゼッパ」とかを考えたのだが、結局「スペードの女王」と分かった。その四月の初共演の予定が三か月早まった。

さて、その放送を聴いてもグリゴーリアンの歌唱を扱って、「管弦楽を容易につき抜けてくる透明な歌声とそのダイナミックスの細やかさに触れて、ピアニッシモでも耳に届くが、ひょっとすると心に届かないかもしれない」と地元放送局の評論としていた。全くオペラを分かっていない人で、精々歌曲ぐらいしか分からないのだろうと察知した。

そして、同じ局の違う情報波では絶賛の評が語られる。そして水曜日初日の音が流された。なんと会場に響き渡るグリゴーリアンの声、これならばペトレンコも可也ダイナミックスレンジを広げられる。それは上の評でもあったので、「マゼッパ」以上に鳴っていた様である。

音楽の要素における音量に関して、高尚な高度な表現としてはピアニッシモ方向には広げても意外に上に開くことはあまり考えられないことがある。理由はそれだけ歌えない鳴らせない現実があるからであって、これが音楽劇場でも大きな劇的要素の制約にもなる。いつも語るように、ミュンヘンの大劇場で声を其処まで出せる歌手は技術と声を持っている片手で数えるぐらいの歌手しかいない。グリゴーリアンが語る、「リリックに歌っても求められるドラマ性」としていたものである。しかし最終的には歌を開き切るには指揮者の技量が問われる。まさしく初共演で期待されたところでもあるのだ。

そしてグリゴーリアンの歌が「潤いを帯びて苦悩に、力強く、そして優しく、最後には歓喜へと、他の歌手もついて来いという具合になって、あまりに多彩で素晴らしい満天の星の一時」となったとある。

なるほど先ほどの批評でも、「西欧ではペトレンコの鉄のような冷めた響きの中から熱いものが沸き上がる表現は聴かれない」としているが、まさしくグリゴーリアンがリリックの声でドラマティックにとするそのものでもある。更に当日も彼女の呟きでは「父親がどうしても期待していた役がこのイオランタであった」と態々繰り返している。

終演のその表情を見れば満足のいく出来だったことは分かるのだが、これからがペトレンコ劇場の幕開けであって、中継のある土曜日へと金曜日を挟んでもう一つステップを上げっていくことだろう。触りのところを聴いただけで私などは心臓がパクパクしだすので、一体どういうことになるだろうかと恐ろしいぐらいである。



参照:
90 Minuten musikalisches Glück: "Jolanthe", Maria Ossowski, RBB Info vom 13.1.2022
Kirill Petrenko dirigiert Tschaikowskys "Jolanthe", Kai Luehrs-Kaiser, rbbKultur vom 13.1.2022
復活祭に向けての準備 2022-01-12 | 文化一般
透徹した眼力なくとも 2022-01-08 | 女
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ブースター打ち過ぎ注意

2022-01-13 | アウトドーア・環境
ここ二三日、微熱があった。オミクロンに感染するとすれば二回ほど機会があった。双方とも少し言葉を交わした以外に室内で同じ空気を吸ったぐらいである。でもあり得るかと思う。微熱があったのは一日半ぐらいだが、のどの痛みや肺の不調も感じた。買い物から戻ってくると完全に治っていたのでウイルスを吐き切ってきたものと推測する。これで完璧である。

週末には今週中のブ-スター接種を考えていたが、最新の状況を見て思い止まった。各方面のテスト免除などを確かめようとしたからだが、結局それ程明白ではなく、慌てる必要がないと分かった。同時にブースターへの懐疑の多くが浮かび上がって来て、ついにはブースターの打ち過ぎで免疫力が落ちる話まで公の機関から出されるようになった。

いずれにしてもドイツにおいても四本までで五本目からは健常者には必要ないとされていたので、ブースターでの三本目の時間短縮にも十分な根拠が示されないようになっていた。最新の知見ではブースターによって重症化の危険性は12%減るのみで、二本目までで74%有効ならば余程自信の無い人以外は副作用が間違いなくあるブースターを打つ人はいない。

更にドイツ政府も隣国オーストリアに倣って接種義務化を検討していたが五月から六月に延長するという確信の無さを示し、大統領は十二分の説明が先になされるべきだと発言したので、殆ど義務化は無くなった。なぜならばそれまでに集団免疫化が為されるようなオミクロンの感染の勢いがあるからだ。そしてICUの占有率は超過していない。これで予定通り三月には脱コロナがなされる工程表通りに進むだろう。

個人的には、四月の復活祭で毎日の様に出かけるので毎日抗原検査を要求されるぐらいならばブースター接種で免除されるように目論んでいた。バーデンヴュルテムベルク州も既に免除となっているが、当分は出かけないので関係ない。そして復活祭は定員満席で販売しているので、此の侭ではブースターをしていても駄目なのである。要するに適当な時まで様子を見るしかない。再発売されるのか、もしくは既に規制が全廃しているのか?可能性としては、集団免疫が為されたならばもうマスクも不要になる筈だ。

バイエルン州はブースター後15日目になって初めてテスト免除をするが、それも三ケ月も持たないので一度のブースターで免除される期間は10週間のみである。そしてブースターを繰り返すうちに自己免疫力が落ちてくる。健常者でこんなバカなものを喜んで打つ人がいるだろうか。職業上致し方ないものはあるかもしれないが、今後は医師なども既に接種拒否者に加えてブースターを打たない者が増えてくると思われる。

もはやパンデミックとしても政治的にもコロナは終焉に大きく近づいてきた。丸々二年は決して短くはなかったのだが、亡くなった人々は気の毒に思えるが、多くの健常者は弱者保護に二年間の時間を犠牲にしたのも事実である。そうそろそろ止めにしませんかと言いたい。

三年近く履いたトレイルランニングシューズライトも洗った。片付けておいて、旅行の時の内履きなどに使う。水を通すので泳ぐときにも履ける。穴などを気にしなければ結構万能に使えるのである。イザとなれば氷河も歩ける。



参照:
温かくなるガス抜き 2022-01-11 | 生活
軽いトレイルランニング 2019-03-23 | アウトドーア・環境
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復活祭に向けての準備

2022-01-12 | 文化一般
復活祭の前宣にペトレンコのインタヴュー内容が使われていた。急遽明日から本来の歌手ヨンチェヴァに代わって「スペードの女王」のアスミク・グリゴーリアンが「イオンタ」のコンサート形式公演に飛び入りしたことから、これに勝る話題作りはない。ヨンチェヴァも本来の歌手として復活祭でもネトレブコと競って歌う予定である。

キリル・ペトレンコが11月のインタヴューで何を語っていたか。一つには「スペードの女王」はチャイコフスキー愛好家にとっては真珠であって、これ以上の作品はないこと、そしてプーシキンの作品の当時のロシアの創作に与えた豊かな源泉についても語っている。

そして秋にバーデンバーデンでも演奏された「マゼッパ」で触れられていた作曲家と登場人物の重なり合いがヘルマンのアウトサイダーのそれそのものでという話しである。そして、そこで語られているのが「イオランタ」で、今度は盲目の女性がアウトサイダーとなっている。そしてデンマークのメルヘンから脚本は「マゼッパ」と同様に弟のモデストが必要な其の儘にテキストを書いている。

「イオランタ」においては象徴主義のフランスからの影響を受けたロシアのその当時の思潮があって、チャイコフスキーの「スペードの女王」に続く最後のオペラになっている。本来はレアリズムの作曲家もここでは帰来のその宗教性から神秘主義へ秘教へと踏み込んでいるという。そしてその宗教性こそがソヴィエト時代には切り取られたものだったとなる。ペトレンコがその話しをするとまさしくロシア人の夢見る広大な世界が広がるのだ。余談になるが、故ヤンソンス指揮に最も欠けていたとすればそこではないかと思う。まさにそこに表れ余韻無く消える音しかなにも存在しない唯物史観がそこに感じられた。

このように説明されると、三つの作品を一挙に復活祭でやるというのはとても考え尽くされた企画であったことが分かる。それは同時にバーデンバーデンから見たロシア文化への繋がりでもあって、また同時に手本となっていたフランス文化へのそれに繋がっている。

ペトレンコは、初めてのバーデンバーデンでの本格的舞台に向けて、一度はコロナ禍でとんでしまったので余計に「スペードの女王」に重きが置かれるようになったぐらいだとしている。一回とは「フィデリオ」で、「マゼッパ」はコンサート形式ながら曲がりなりにも準備になったとする認識が見て取れた。そして土曜日にベルリンから中継される「イオランタ」もその準備に加わる。

週末に第一報を受けてからベルリン行きを模索していた。そしていい条件があって、鉄道で出かけても比較的安く日帰り可能と分かった。席もとてもいい席が買えた。予算も時間上も可能だった。しかし思いとどまさせるのはコロナ禍の状況だった。マスクも慣れたので構わないが、矢張りベルリンの功利主義で満席座らされるのには組したくない。200人に一人ぐらいの陽性者のベルリンでは同じ区画に感染者が座っている。オミクロン感染は避けきれないのだが、実験結果は以前の感染しか考慮されていない。コロナなどは全くなんともないのだが、非科学的なことはしたくない。しかしコロナ禍が終わればちょいちょいベルリンに出かけられる可能性が出てきた。上手くやればパリに行くのとそれほど変わらない。

月曜に頂上アタックをして風邪を引いたようだ。コロナ禍になってから初めての感じで、微熱があるかもしれない。喉もおかしくなっている。ショーツでは寒かったのでパンツを履いて走ったのだが気温は谷で3度ぐらいあったので汗をかいた。ここは四川の豆板醤でも使ってホットな食事で発散したいところである。水曜日にはすっきりしていたいが、さてどうなることだろう。



参照:
透徹した眼力なくとも 2022-01-08 | 女
回顧される幸福の痛さ 2021-11-28 | 文化一般

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温かくなるガス抜き

2022-01-11 | 生活
隣のヒーターの弁が取り替えられた。ここ篭り部屋と同じ高さで、ボイラーからはより距離があり、同じ高さに三つのヒーターが設置されている。それが何を意味するかというと、そこまでお湯が通されることで、お湯抜きがされてボイラーが新しく設置されて以来初めて、その間のガス抜きがされたことである。どこかにガスが溜まっている限り、決してお湯が全ての管に通らない。圧の問題である。

それによって何が得られたかというと、篭り部屋で水がたらたらと流れていたのが全てに行き渡って水音がしなくなったのである。消音するために調整弁を2以下に抑える必要がなくなって、寒ければ最高の5と開いても音があまりしなくなった。要するにメーカーが推奨するように弁を開閉出来るようになったことを意味する。なるほど全開にすれば温水量も増えて更にその温度差からの使用量の計算に掛け算が働く。また絞ることで室温は下がり暖房無し状態になる。その繰り返しが続く。

しかし、水量が安定することで必要無い平常時は水量を絞ってもそれなりの温水が循環するために安定した室温を保ちやすくなる。反対に寒い時は温度を上げられるので、もし同じ使用料を払っても有利になる。

水曜日にはメーターの取り換えに来るのでその前に正常化したかった。2021年度はボイラー交換があったので今後の参考にはならないが、これで新しいメーターで新たな基準が作られる。これから2月の極寒時期を迎えるのでヒーターが更に重要になる。この冬はこれまで二回ほどは強くしたい時があったが、工事の関係で十分な温かさは得られなかった。陽射しは強くなるが、北向きの篭り部屋には先ずは安心だ。

バイエルン州がベルリンの連立政権に対抗して独自の方針を打ち出した。それによると連邦政府が求めるインドーアでの一括した検査義務とブースターによる免除に対抗して、商店や飲食業からテスト義務を取り除いた。その一方スポーツジムなどと同じように文化関係施設に陰性証明を求めて更に四分の一の入場者数を維持する。ブースターによって免除されるのはそうした「余暇活動」に対してだけになり、連邦政府が画する大きなアドヴァンテージはバイエルン政府ではなくなる。

ブースタ―の効果を以て集団免疫へと繋げたい連邦政府の方針に対抗する形となる。前メルケル政権の時は殆ど自称副首相の様にベルリンに出かけて大口を叩いていたゾーダー知事であるが、ポピュリズムを楯に逆貼りへと動いた。

我々は、飲食での危険性と到底比較できないような劇場や演奏会での陰性証明書もしくはブースター証明書の必要性には大いに異議を唱えたい。科学的な根拠が全くなく、彼らにとっては大衆の支持とは無関係にある付加価値としか思っていないからである。

隣のバーデンヴュルテムベルク州との調整もあり、少なくとも飲食業との差異はつけるべきものではない。反対にベルリンなどはオミクロン以前の研究結果に未だに従って、100%の定員でも防御マスクさえすれば問題なしというのはもはや通らないであろう。200人に一人は陽性であるような状況でオミクロン感染をそのような会場で防ぐのは難しいからだ。



参照:
どのように転んでも無関心 2021-11-21 | アウトドーア・環境
肝はそこなんですよ 2021-12-23 | 生活
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藤四郎の支配人なんて

2022-01-10 | 文化一般
久しぶりにアメリカからの放送を聴いた。フィラデルフィア管弦楽団の中継である。昨年のカーネギーホール再開などで結構賑わっていて、それらの中継などDLしていたのだが、なぜか紛らわしさがあった。カーネーギーでのユジャワンのショスタコーヴィッチもあんなによかったかと思った。室内楽などを通して表現力が増したようだ。矢張り彼女は忙し過ぎてじっくり練習する時間がなかったのだろう。
Yuja Wang (2021) plays Shostakovich - Piano Concerto No. 2 in F major Op. 102


そしてフィラデルフィアでの同じような再開の放送に絡んでYouTubeにも10月5日前の「ボレロ」のシークエンスを見つけて堪能した。10月8日にカーネーギーの再開が中継されていたが、矢張り18ヵ月ぶりという感じはホームでの演奏とは全く異なっていた。
Carnegie Hall reopens for 1st live concert since pandemic

Philadelphia Orchestra performs Bolero by Ravel


指揮者のネゼサガンがインタヴューで話していたが、この期間中に距離を空けて縮めていくことで芸術的に習うことがあったというのは全くベルリンのライヴァルと同じで、なるほどアンサムブルがもう一段と洗練されていた。

カーネギーの中継ではあまり感心しなかったのだが、ホームで丁寧に演奏すると矢張り頂点にある管弦楽団だと分かる。同じ「運命」を演奏させても同じ指揮者が欧州室内管弦楽団を振ってどうしようもない演奏をしているのとは一味違う。楽団が持っている伝統、ここの場合は楽員が教育を受けているカーティス音楽院のそれが反映しているのだろうか。

東京から歌劇場のオンラインのヴィデオを少し観た。しかしロッシーニ「セヴィリアの理髪師」の序曲で断念してしまった。あまりにもそこで弾いている楽団の演奏が悪すぎて、歌手の声まで聴く気がしなかった。
新国立劇場オペラ『セビリアの理髪師』より(2020年)Il Barbiere di Siviglia- New National Theatre Tokyo, 2020


同じ劇場では世界的に通るであろう東フィルという楽団がありながら、二国建設の企画の時から座付き楽団として使うかどうかが議論になりながら、結局抱え込む経済的な危険性や公平性や日本独自の人事の問題で見送られたのは知っていた。しかし、現在の様子をうかがうとあまりにも他の交響楽団演奏との差が大き過ぎるのに気が付く。

更にどうしようもないあんちょこな交響楽団の奈落入りの演奏をこうして世界に流すという蛮行をやってしまう根本には、しかるべき判断をするべき人がいないことを物語っている。なぜドイツの公立の劇場では支配人の立場が芸術的にも最も影響があるかというのはそうした音楽面での一致にもある。

世界最高のオペラ劇場であるミュンヘンの人事もバイエルン州の文化教育省が責任を持っているのだが、現在の体制を選択するときにも様々な面から検討されていて、同時に各方面からの声を聞いていたことは知られている。支配人と音楽監督をペアーで選任するというのは正しいことで、いいペアーが見つからなければ駄目ということであった。藤四郎の支配人には芸術的コンセプトも音楽監督も一致も何にもない。

音楽監督に腕がなければ、優秀な客演指揮者を呼んできても、座付き楽団がそれだけの演奏を出来ないことから、我々は客演指揮者が振っているのを聴いても、そこの音楽監督が無能かどうかは直ぐに分かるのである。



参照:
ブルーレイROM三枚目 2022-01-09 | 文化一般
音楽劇場のあれこれ 2018-03-08 | 女
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ブルーレイROM三枚目

2022-01-09 | 文化一般
三枚目のブルーレイROMを焼いた。一つだけ余っていたタンホイザーの生BR版で5.5GBのMP4ファイルを併給保存。一度、カメラ切り替え別のカステルッチ演出「タンホイザー」の映像批評をしなければいけないと思うぐらいだ。流石に観慣れて落ち着いて音楽を聴けるようにはなったのだが、矢張り演出家カステルッチは変態だと感じる。ヌーディティーへの彼の視線が矢張りおかしい。まるで自分の趣味の為に無理矢理に理論づけしているようなところがあって不自然過ぎるのである。なにかホテルのバスで水死するような人にしか思えない。

同時にそのROMに記録したのは、先ずは「死の街」の流出ヴィデオと初日のBRラディオ生中継音声である。その時に劇場にいたのだがタイマー録音が成功していた。流出の方も45分の総稽古のカットが入っているので、ブルーレイ化されたものと合わせて部分的に三種類の演奏が聴ける。生中継のものは未だに聴いていないのだが、印象からすると初日にかけてまた製品化に向けてとその間に二回の大跳躍がありそうだ。初日にはそれなりの緊張感があって、全てを出しているのだが、矢張り比較すれば荒いところを思い起こした。オペラの初日はその意味からすると永久保存版には矢張り為り難いものがあるだろう。

カールセン演出「アリアドネ」は、舞台上でバレーの練習をしているところから始まっていて、聴衆は劇場に入るなり何をやっているのかなと不思議に思う演出である。ケントナガノ音楽監督時代の新制作であった。作品が楽屋落ちになっているので、それをもう一つ前に引き延ばした形になる。映像が中継されたその前後に劇場にいたのだが、こうしてみると劇場ごとが芝居になっているのがよくわかる。この公演の後でカウフマンが歌ってパリのシャンゼリゼ劇場でコンサート形式で行われた。バレーリーナの中心にいる人は日本にも「タンホイザー」で帯同した人だと初めて気が付いた。しかしそれを知っていて同じROMに入れた訳ではない。

更に序にニューヨークメトでのペトレンコ指揮の「アリアドネ」を入れた。そしてフランクフルトでの新制作「トスカ」のトレイラーなどもだ。これらを合わせて20GBを超えた。復活祭で2024年に「アリアドネ」はありえないので、この作品をペトレンコが再び指揮するのはいつのことになるだろうか。ザルツブルク音楽祭ぐらいだろうか。

こうしてハード化して流すのはNASから取り出す感じとはまた違う。読み取り伝送もそれ程悪くないので、頻繁に中断したりはしない。映像を観ながらでは回転音も邪魔にならない程度である。以前はこうした生で観たり聴いたりした制作は改めて流す気も起らなかったのだが、今数年経って過去になっていることを実感する。その分より客観的に鑑賞できるので面白い。記憶に上書きされるのが嫌だったのが、今は再生を切っ掛けに思い出すことがあって助かる。

客観視によって先ず何よりも明白になるのはバッハラー支配人時代の演出を含むその舞台の雰囲気である。新支配人になって二回も出かけたので、恐らく親近性も感じて既にドロニー体制の雰囲気に慣れてしまっているのかもしれない。バッハラーの劇場は役者出身からかもしれないがやはりギリシャ劇や古典的な劇場のある意味ネオバロック的な劇場を作っていたかもしれない。演出家では嘗てはポネロとか前世紀中盤以降に活躍した人の演出などに相当するだろうか。別な言葉で表現するとミュンヘンを「大劇場」として支配した人だったかもしれない。



参照:
とても贅沢なお話し 2022-01-06 | 料理
山の向こうに越していく 2021-08-08 | マスメディア批評
ペトレンコ教授のナクソス島 2015-10-22 | 音
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透徹した眼力なくとも

2022-01-08 | 
お昼に速報が入った。来週からのベルリンのフィルハーモニーでのキャストが代わるとあった。復活祭でも演奏されるその準備のようなコンサート形式のオペラ「イオランタ」である。指揮もジルフェスタ―コンツェルトを休んだキリル・ペトレンコの復帰ということで注目されたが、主役のソニア・ヨンツェヴァがインフルエンザでキャンセルで、なんと急遽アスミク・グリゴーリアンが代役となった。

復活祭では、この二人にアンナ・ネトレブコが加わってロシア語歌唱の三大ソプラノの競演が目玉にもなっているので、ヨンツェヴァの再演とならないのは残念であるが、ペトレンコとの初共演とフィルハーハーモニーへのデビューが思いがけず三か月早まることになった。

そして、急遽の代役にフランクフルトでの2018年の新制作のプロフィールが出ている。つまりレパートリーとして比較的最近にも定着しているもので問題がないということだ。短い作品とはいいながら短期間に集中して練習するのだろうから、各人が準備していないと叶わない。

そのフランクフルトの公演には出かけていなかったのだが当時の評判などは覚えている。しかし、その舞台裏を使ったフィルム番組は観ていたのだが、新制作トレイラーは今回初めて観た。そこで興味深い作品への思いが語られている。一つには、亡くなった親父さんが共演したいとしていた作品で、二年ほど前に亡くなっているので叶わなかったのだが、父に捧げるとしたいところが演出設定から無理で、自分自身にと笑っている。そして、チャイコフスキーが最後に書いたオペラとしてリリックな声を考えているにも拘らずロシアンオペラの通例としてドラマティックな歌唱を求められるので、ちゃんとやらないといけないとしている。
Igor Strawinsky - Peter I. Tschaikowski: OEDIPUS REX - IOLANTA cf.3m19s

桂小金治ショー、誕生記念公演でお父ちゃんの故郷アルメニアの歌を披露
Asmik Grigorian - An Armenian song


まさしくペトレンコがヨンチェヴァを起用してやりたかったのはそのリリカルな味で、メトなどでも素晴らしい歌唱を聞かせている。そして、今回は大振りのフィルハーモニカーが演奏することからより、「マゼッパ」以上にそのペトレンコの芸術の妙とグリゴーリアンの絶妙の歌唱が期待されるところである。

確かにグリゴーリアンの歌唱のヴィデオなどはそうした配慮があるにも拘わらず、他の楽曲でのヴィデオと同様にこれといったものはまだ出ていない ― バイロイトのそれにしても決して本人の語る通り十八番ではないのだ。今回の急遽の出演にも拘らずフィルハーモニーでの演奏会形式での歌唱が決定的な記録になるのかどうか。そもそも作品自体が短く一晩の公演をこれで賄えるというものではないので、演奏会形式でそれなりの結果が期待されるところでもある。

歌手の舞台裏を扱った前記番組では、ベルリンでの「オネーギン」で父親の死のベットに通いながらの大きな転機になったとはあったのだが、フランクフルトでの舞台シックへの心理はあまり語られていなかった。しかし上の語りの様にアスミク・グリゴーリアンは可也の思い入れがあった作品だったのだと分かった。

人の深層心理を窺がうだけの透徹した目などはないのだが、なんとなく感じることは出来る。ラディオ中継も予定されていないが少なくともDCHの中継は購入すれば観れる。検査も何もなければベルリンにとんで出かけるところだった。



参照:
プロ中のプロの呟き 2021-08-23 | 女
心拍52でノンレム睡眠落ち 2021-03-16 | 生活
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楽団維持の資金に乾杯

2022-01-07 | ワイン
二度目のラン。新しい靴で二度目で、気温が摂氏3度と前回とは大分冷えていたので、全く足元の感じが変わった。地面は太陽で乾いていたのだが、放射冷却で可也硬かった。突き出ている小石の上も滑り易そうで、それ程靴底のゴムに馴染まなかった。靴本体もごわごわ感があって、フィット感も薄かった。更に紐を強めに締めた。但し足元の安定感は高いので下りなどの安心感はある。やはり足入れと紐の問題は解決しなければ使いにくい。

年末年始はなぜか落ち着かなかった。心理的なものも大きいのかもしれないがあまり平常以外の事に手を付けられなかった。一つにはコロナ禍による生活習慣上の弊害が生じてきたと思う。

グランクリュワインも二種類しか開けなかった。飲んでいる余裕感が無かったからだ。一本目は栗ザウマーゲンに合わせて地元のフォルストのキルヘンシュテュック2007年ものである。ドイツで一番高価な地所であるが、醸造所によって数倍以上の価格差がある。その中でも上位で、亡くなった指揮者でもあったエノッフ・ツグッテンベルク家所有のフォンブール醸造所のグローセスゲヴェックスであった。

代々の所有であったが、指揮者活動に投資がいるのか最終的には手放した。息子の元財務大臣も興味がなかったのだろう。首相候補になっていながら、これまたドイツでも有数に古い家系の念願であるである博士号取得にコピーをしていたために政治家を引退したのだった。オーストリアの前首相の様に国家秘密を持ってアメリカの情報局に一時雇われていた。

そのような醸造所だが一時は品質も上がっていたかに思えたのだが、こうして最高のリースリングを醸造するだけの力がなかったのを確認した。長持ちせるために、酵母やその他を多用していた様子で、下に溜まっていたのは酒石ではなくて、粉上の濁りだった。酒石として固まらないということは。

こうした大きなワインは実際に十何年とかの経過を見ないと最終的には価値を査定できない。勿論悪いワインではなかったのだが、それ以上の瓶熟成がなかたっともいえる。逆に若さを保つだけの醸造はしていて、草臥れ感はエティケット程になかった。反対に上手く熟成させるだけの醸造をしていなかったことが明らか。価格的にはお買い得だったので、期待だけさせられたのみで、全く損はしていない。間接的にではあるが、ミュンヘンのオーナーの楽団の資金の極一部になっていただけである。
Enoch zu Guttenberg, Requiem Verdi, KlangVerwaltung


リースリングでも瓶熟成を最初の段階から予想するのは専門家でも経験が豊富にならないと難しい。偶々住居の関係で、門前の小僧ではないが経験だけは大分つけさせてもらった。今年の春は問題なく試飲できる筈だ。

もう一本のラインガウのグレーフェンベルク2016年ももう一つ開いていなかった。またこれも新鮮味は失われていなかったのだが、深みを楽しめるほどではなかった。ブドウの果実の熟成度も重要なのだが、やはり醸造技術も高くないとビオワインとしての長持ちはそれ程容易ではない。



参照:
既に遅しとならないように 2018-06-27 | 雑感
議論出来ない情報社会問題 2009-11-30 | 歴史・時事
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とても贅沢なお話し

2022-01-06 | 料理
暮に購入したブルーレイ焼き機で焼いた。一枚目は問題なく焼けた。二枚目は容量オーヴァーでやり直すと不都合が出た。CD-、DVD-ROMと同じである。矢張り25GBからあるので、ヴィデオファイルを焼くには都合がよい。

付けて購入したブルーレイスピンドルは十枚組で9ユーロしなかったので、一枚の損失は許容内である。ヴェルバティウムの機材に資材を使うのであるから問題なく焼けて当然である。当初は音の小さなLG日立の製品購入のつもりだったが、逃した隙に価格も上がったので、より評判のいいこれにした。

既に言及したようにブルーレイ視聴には無料のコピーコード解読付きソフトが必要になるが、一度読み込んでしまうとそれ程盤が回る必要はなくなり、静粛である。どうしても必要ならばコピーしてしまえばよい。

よって当初の最低の購入目的は何ら問題なく達成となった。価格の90ユーロをどう見るかだけである。年末調整での購入でないと中々思いきれなかったかもしれないので、先ずは満足である。次には250GBまでの場所をストレージから消していく。更に空いた場所にNASからあまり必要のない資料の映像などをそこに移しておけば、それに相当するだけの場所がNASに空くことになる。

年明けは、2キロの農民パンを半分に切って貰った。更に一枚づつにカットして貰った。若いパン屋の売り子が結構時間を掛けていた。一つには重く大きい。長いところで40CM以上あった。通常は四分の一で買うのだが、今迄試したことがないこの店の農民パンは興味があった。ケーキでもなんでも湿り具合の多いパン屋で湿り気が特徴的なこれはどうなるか。結果は以外にしっとり感がなくてかといってがさがさ感も無かった。量が多いので、週末までおいしく食せたら合格である。

その分たっぷりとバターを塗って、バヴァリアンブルーというバイエルンの青かびチーズを塗って、その上に安売りで購入した胡桃を乗せる。なんと贅沢な農民朝食だろうか。胡桃などは自分で購入しない限りちっとも有り難くないのだが、そのヴィタミンとか栄養素を知るととても贅沢品と感じるようになった。

本当はクリスマス年末にでもシャムパーニュでも手元にあればと思っていたが、結局果実酒としては品質の低いものにワイン以上に投資する気持ちが失せてしまった。これと農民朝食とどちらが贅沢かと考えると明らかに朝食に軍配を上げたい。前頭筆頭である。

ブルーレイアーカイヴ化の次は残った「タンホイザー」ヴィデオから「パルジファル」などである。初日とストリーミングの二種類があって、これも初日に出かけていた。整理をすると爺さん婆さんが写真を整理をしながら、あれだこうだと語るような塩梅になる。そして大掃除の様に古新聞に目が行くような感じになって中々作業が捗らない。但しアナログ作業とは異なってマルティタスクで動かしておけるのもデジタルのよさ。

ああそういえば、カウフマンが出るので、初売りの日に雪の中を並んで買いに行ったのだった。大変ご苦労様だった。それで初日しか残っていなかったのだ。



参照:
胡桃入りパンの満足感 2021-12-09 | 料理
気に入るということは 2011-12-21 | 料理
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復活祭上演への工程表

2022-01-05 | 文化一般
年末最終週に舞台装置が組み立てられた。復活祭の新制作「スペードの女王」の舞台である。偶々リンクが入っていたのでざっと内容を見た。そして今そのリンクは全て観覧不可になっている。そうなるとこちらは好奇心に満ち溢れる。一体何が都合が悪かったのだろう。

確かにそこへのリンクを張りながら私は呟いた。演出家の二人はとても興味深い二人だと。つまり平常の劇場の舞台裏は悪い意味のルーティンになっていて、舞台を制作していく真剣味がないというようなことを二人組の演出家の一人不二雄Cさんが話していた。

これは結構興味も引いた。一つには音楽劇場制作自体が劇場の日常の中で回るものではないという考え方もあり、もう一つには公立劇場などのその在り方に対して明らかに挑戦状的に捉えられるからだ。

真意はよく分からないが、少なくとも舞台を組み立ててみて、全座席からの死角等を洗い直したようである。しかしそのように技術的に不可欠な話よりも、もっと興味深いことがそこで語られていた。

つまり幾ら舞台練習をしても最後に指揮者のペトレンコがピアノではなくメゾフォルテにして仕舞えば、それで苦労は水の泡になってしまうというのである。要するに、音楽と演出は強く連携しているので、最初から指揮者が舞台稽古に付き合うべきだと話している。

今迄のバーデンバーデンでの復活祭は素人オペラ指揮者ラトルにしても、準備最後の一週間は土曜日に楽団員と前後してバーデンバーデン入りしていたと思っていたが、ベルリンで稽古してからラトルが到着するまでのラグが大きかったようだ。

そこで思い出すのが「パルジファル」での前宣伝のデジタルコンサートホールの番組だ。そこで歌手たちがバーデンバーデン入りしていて、指揮者のラトルがベルリンでインタヴューとなっていた。その時の日程を確認すると2018年3月24日初日だから17日に楽団がバーデンバーデン入りした筈だ。しかしこの番組は3月9日に生中継されたようで、歌手たちは既に祝祭劇場入りしている。つまり初日二週間前には既に入っている。
Sir Simon Rattle on the Berliner Philharmoniker Live Lounge

Cast "Parsifal": Gralsglocken vokal


それでも幻となった2020年の新制作「フィデリオ」の時も当然ながら2021年の「マゼッパ」の時も最後の一週間前まではベルリンでみっちりと練習をつけていたとされる。そして、今回演出家が求めているのは二週間前から指揮者もバーデンバーデンに入って練習しろということらしい。

今年の4月9日初日「スペードの女王」の日程にこれらを当て嵌めると3月26日から歌手も指揮者もアシスタントもバーデンバーデン入りするということになるのだろう。ラトルは何もできなかったがペトレンコは当然ながらドレスリハーサル以前からそこにいる価値があるのは当然で、ミュンヘンでやっていたやり方に近くなるに違いない。

昨年6月に出ていたページをキャッシュで再確認すると、組み立て模型の写真があった。祝祭劇場のホームページは広報の専門家が担当しているのかもしれないが、こうした出したり隠したりのやり方は下手過ぎる。もう少しSNSなどで重要なことを学ぶべきで、情報管理なども洗練されておらず、寧ろ素人っぽい感じがある。



参照:
We're going to Baden-Baden 2018-03-11 | 文化一般
初買の気持ちは如何に 2022-01-03 | 生活
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トレールラン靴下しアタック

2022-01-04 | アウトドーア・環境
年末に短いコースを走って、新年早々全行程で頂上攻略。新しい靴は前々モデルとほぼ同じ感じで、それよりも若干軽くなってスポーティーになった感じである。踵支えなども外に強化骨を出すことなく対処している。ごわごわ感がないのと同時に包まれ感は若干ある。

踵も高く高下駄効果で走りやすい。一歩が若干長くなる。同時につま先のグリップが効くのでつま先が滑らず、小さなステップでも無駄なく上への跳躍に繋がる。前モデルの薄い靴を履き出したときは、沢沿いの平坦なコースを飛ばしたかったので、足捌きがよいのが嬉しかった。しかし山登りとなると事情が変わってくる。重量に伴う足の振り子運動で、腕の振りが強くなる。地面を蹴れる感じがとても気持ちよく、身体に力が漲ぎる。また靴紐を強めに締めたので、土踏まずへの圧迫が徐々に厳しくなってきた。それが足への酸素の供給を邪魔して若干辛かった。

足元は、夜から昼にかけてパラパラと降っていたが、風も強く気温も摂氏12度と初冬の湿っぽさがなく、気持ちがよかった。帽子も手袋もなかったが、陽射しがなく風もあったので、シャツだけにはなれなかった。足元は冬の間泥濘になっていたところも乾いてきていて、滑りやすさもなかった。

頂上到着も旧年の中でトップクラスの42分台だった。調べると昨年の新年10日に41分を記録しているので、それに続いている。復路で頑張れば久しぶりの一時間割かと思ったが、結局駐車場に戻って68分だから、一年前の75分よりは大分いい程度。頂上へ40分を割れば、往復で割れる。高度を総計650m、距離を7キロ弱の行程である。

靴の感想は、硬さも前々モデルのものより扱いやすく、蹴りが入れられて足のコントロールが効くので、走行感もあって、批評よりも遙かにいい。平坦なところでは重みもあるのでスピードは出ないかもしれないが、足捌きは良さそうだ。

問題は泥濘のところで靴を履き替えると緩めた紐が地面に触れて湿る事で、若干重くなるかもしれないが、ストッパーとかなにかを使って蝶結びのままにしておいた方が使いやすい。足入れは踵が伸びているのでそれ程悪くはなかった。

年末年始の中継などの批評が載っている。やはり一番話題になったのはゼムパーオパーで30日に収録されたジルフェスタ―コンツェルトだろう。その中でもレヴィンがピアノを受け持ったラプソディーインブルーである。ハンナミュラーの歌唱もよかったが、同じようにぎこちなく合わせていても、レヴィンの勢いに押された感じのティーレマンの指揮は見もので、チャーミングな魅力で魅了と書かれるところで、いい仕事をしていた。やはり音楽劇場監督を長くやっていると身に着くものがあるようで、絶対昔はできなかっただろうというような指揮がある。体調も一時よりもよさそうで、新聞にも昨年の負け組の代表として書かれていたが、結構吹っ切れた感じがあって良かった。逸早く日本で活躍して欲しいものである。

そして、それ以上にシュターツカペレの演奏がチャーミングで、後任音楽監督としてオクサーナ・リニヴが入っても、中々使い切るのは難しい。まあ、あれだけのものを無聴衆のところで残せれば、お役目御免で皆満足な出来だったに違いない。

NASの掃除の為に、何重にもなっているコピーのペトレンコ指揮のオペラの中でもマテリアル量の大きい「タンホイザー」から内容を再確認している。初日の中継録音とフェスティヴァル中の映像の二種類が更に放送局やその他生中継ものでまた幾つかの種類に分かれていて、ファイル量が多い。



参照:
希求の無い所、何も無し 2022-01-02 | アウトドーア・環境
積極的な衛生処置へと 2020-04-13 | 女
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初買の気持ちは如何に

2022-01-03 | 生活
初買をした。注文しただけなので買えるかどうかは分からない。3月に再演されるシュトッツガルトの「ボリス」である。昨年の冬に新制作初日を迎えていたが、折からのコロナでネット中継となっていたものだ。中継はどうも初日の2月3日のものに近いらしい。なぜならばコロナ禍で三月の上演は限られていた。楽日の4月までの予定が早めに切られた筈で、一体何回ぐらい上演できたのかと思う。

今もヴィデオを流しながしているが、全体の印象としては焦点が暈けていた。ムソルグスキーの作品に新作品をはめ込む形で、その意味からは昨年暮のミュンヘンの「ジュディッタ」とも共通している。しかし、その内容からすればよりドラマ的に纏めやすいので、どうかなと思っていた。それでも後半も根気良く流していると明らかに音楽的に盛り上がって来ていて、いつもの手口だなと思った。

当時の新聞やバイエルン放送協会の批評を読むとエンゲル指揮の音楽はとても評価が高い。しかし聴衆はあまりにもの情報の多さで船酔いして、休憩で帰った人もいて、終演後にも演出に向けてブーが飛んでいる。最後まで残った人は幸いである。船酔い現象はなんとなくわかるようになってきた。

今シーズンになってから計四回もエンゲル指揮の音楽劇場を体験して、もう少し公演を重ねるとよくなるかなとも思った。聴衆側も情報を入れての準備が必要で、程度の高い音楽劇場となるとやはりそれなりの認識の高さが必要になる。

こちらも久しぶりに「ボリスゴデュノフ」もお勉強することになる。シュトットガルトの劇場に前回出かけたのは大分昔のことで「ヴォツェック」公演で、音楽監督はフェローだった。劇場の改修などの予算計上もあって、仮移転するまでに出かけておきたいと思っている。

先日の「ラインの黄金」の中継を観ていても、アンサムブルは悪くなく、劇場も小ぶりなので、音響的にも満足できる。三月にはドイツの状況はどうなっていることか。

バーデンバーデンの祝祭劇場でのジルフェスタ―コンツェルトが中止になったと思っていたら強行したらしい。結局日本でもお馴染みでバイロイトで指揮するインキネン指揮の管弦楽団に陽性が出たようだ。練習までしていたのだが、カイザースラウテルンでの前日の演奏会を中止して、翌日もとなったところで、急遽ピアニストを都合して本番ぶっつけで演奏したようだ。お客さんもインキネンファンよりも、フォークトとダッシュのペアーの寸劇を聴きたかった人たちが殆どだろうから、無事終えたようだ。数百人のお客さんにはこれの方が儲けが出たのではないか。

また支配人のスタムパは新年を期待して書いている。それによると、「ベルリナーフィルハーモニカーのシェフとしてのキリル・ペトレンコとの復活祭を開催するために全てを傾ける。」としている。まるで私が書いたようだが、それだけ発破をかけれたかと思うとうれしい。彼にはペトレンコの復活祭と心中して貰いたい。

「『スペードの女王』上演で世界クラスに、そして新たな栄光を築く」として年末最終週に稽古が始まったとあった。それで以て期待が膨らんで興奮してきたとあるので、仮舞台組み立てに、演出チームだけでなくて、ペトレンコやもしかすると歌手らも顔出ししたか。



参照:
SEEKRANK IM MEER DER ERINNERUNGEN, Peter Jungblut, BR vom 3.2.2021
赤い国を生きた女性 2021-05-23 | 音
マーラーが為せなかった事 2021-12-19 | 音
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