脳死臨調批判, 立花隆, 中公文庫 た-20-5, 1994年
・立花隆氏が「臨時脳死及び臓器移植調査会」を批判する内容。なぜ批判するかというと、平たく言うと「(脳死)検査法の有効性の証明の試みが何もなくて、「世界の判定基準は大体これと同じようなレベルです」「生き返った人がないんだからこれでいいんじゃないか」といったレベルの議論だけでは、一般の人が「はい、そうですか」と納得しないだろうということです。」p.52 とのこと。脳死・臓器移植問題については、それで命が助かる人が増えるならいいんじゃないの~?程度の認識しかありませんでしたが、本書の主張では脳死臨調が提案する脳死基準では、「意識」がまだある(かもしれない)状態で脳死判定され臓器摘出が行われる可能性があるそうです。レアケースではありますが。
・「脳死」について脳死臨調=「死」であるのに対して、著者=「生」という正反対の立場。そりゃモめるわな。
・「医学的に見た「人の死」は、「人の生」と同じく一連の出来事であって、決して一瞬に始まり一瞬に終わるものではない。」p.122 ハイ。死は一瞬だと思ってました。そうか・・・「死」も連続している・・・う~~ん・・・こうなるともはや宗教。
・「生物が生きているということは、せんじ詰めるとどういうことかというと、ホメオスタシスが維持されていることだといってよい。(中略)つまり、生きるということは内と外が区別されてあるということであり、死ぬということは、内と外の区別がなくなるということなのである。」p.181
・「視床下部というのは、小さいけれど、ものすごい構造をしているところなんです。ものを食べるとか、性行動をするとか、あらゆる動物的本能行動の中枢が密集している。そしてあらゆる情動の中枢でもある。ものすごく精密にできていて、生命保持に必要な機能がギューッと凝縮されている大変なところです。」p.194
・脳死臨調最終答申の少数派(脳死慎重派)の記述より抜粋。「たとえ限りなく死に近い状態とはいえ、まだ死ではない状態の体を移植でしか助からない人のために捧げるのは、キリスト教の愛の行為とも、仏教の菩薩行とも矛盾しないであろう。われわれは、「脳死」を死と認めることには賛成はできないものの、移植医療に何らかの道を開くことに決して反対ではない。」p.318 この奉仕の気持ちを果たして自分は持てるだろうか・・・
~~~~~~~~~~
・で、最終答申を受けて結局この話はその後どうなったのか、気になっていたところ、これに関する新聞記事を目にした。なんというタイミング!!脳死臨調の委員内で少数派に属し、その意見を無視させることなく最終答申にネジいれた張本人。梅原猛氏の記事より抜粋。「92年1月に出された最終答申を受け、97年6月、臓器移植法が成立。同法では、「事前に臓器移植提供の意思を明確にした人に限り脳死を死と認める」と規定。また「臓器提供についての本人意思の事前確認」を厳しく求めるなど少数派の主張が反映された。同法に基づいてこれまで実施された脳死者からの臓器移植は39例。移植医療現場から、臓器提供条件が厳しすぎるとの声があがり、与党は、「家族の同意があれば臓器提供が可能」とする法改正を検討している」
「臓器移植をしたいがために死の概念を変えるというのは、発想が逆転しています。脳死は人の死ではないのです。」2005.11.23読売新聞
・立花隆氏が「臨時脳死及び臓器移植調査会」を批判する内容。なぜ批判するかというと、平たく言うと「(脳死)検査法の有効性の証明の試みが何もなくて、「世界の判定基準は大体これと同じようなレベルです」「生き返った人がないんだからこれでいいんじゃないか」といったレベルの議論だけでは、一般の人が「はい、そうですか」と納得しないだろうということです。」p.52 とのこと。脳死・臓器移植問題については、それで命が助かる人が増えるならいいんじゃないの~?程度の認識しかありませんでしたが、本書の主張では脳死臨調が提案する脳死基準では、「意識」がまだある(かもしれない)状態で脳死判定され臓器摘出が行われる可能性があるそうです。レアケースではありますが。
・「脳死」について脳死臨調=「死」であるのに対して、著者=「生」という正反対の立場。そりゃモめるわな。
・「医学的に見た「人の死」は、「人の生」と同じく一連の出来事であって、決して一瞬に始まり一瞬に終わるものではない。」p.122 ハイ。死は一瞬だと思ってました。そうか・・・「死」も連続している・・・う~~ん・・・こうなるともはや宗教。
・「生物が生きているということは、せんじ詰めるとどういうことかというと、ホメオスタシスが維持されていることだといってよい。(中略)つまり、生きるということは内と外が区別されてあるということであり、死ぬということは、内と外の区別がなくなるということなのである。」p.181
・「視床下部というのは、小さいけれど、ものすごい構造をしているところなんです。ものを食べるとか、性行動をするとか、あらゆる動物的本能行動の中枢が密集している。そしてあらゆる情動の中枢でもある。ものすごく精密にできていて、生命保持に必要な機能がギューッと凝縮されている大変なところです。」p.194
・脳死臨調最終答申の少数派(脳死慎重派)の記述より抜粋。「たとえ限りなく死に近い状態とはいえ、まだ死ではない状態の体を移植でしか助からない人のために捧げるのは、キリスト教の愛の行為とも、仏教の菩薩行とも矛盾しないであろう。われわれは、「脳死」を死と認めることには賛成はできないものの、移植医療に何らかの道を開くことに決して反対ではない。」p.318 この奉仕の気持ちを果たして自分は持てるだろうか・・・
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・で、最終答申を受けて結局この話はその後どうなったのか、気になっていたところ、これに関する新聞記事を目にした。なんというタイミング!!脳死臨調の委員内で少数派に属し、その意見を無視させることなく最終答申にネジいれた張本人。梅原猛氏の記事より抜粋。「92年1月に出された最終答申を受け、97年6月、臓器移植法が成立。同法では、「事前に臓器移植提供の意思を明確にした人に限り脳死を死と認める」と規定。また「臓器提供についての本人意思の事前確認」を厳しく求めるなど少数派の主張が反映された。同法に基づいてこれまで実施された脳死者からの臓器移植は39例。移植医療現場から、臓器提供条件が厳しすぎるとの声があがり、与党は、「家族の同意があれば臓器提供が可能」とする法改正を検討している」
「臓器移植をしたいがために死の概念を変えるというのは、発想が逆転しています。脳死は人の死ではないのです。」2005.11.23読売新聞