ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】2009年 読書記録 まとめ

2010年01月20日 22時13分11秒 | 読書記録2009
 2009年の読書記録のまとめ。
 2009年に読んだ本のタイトル数は55。2006年-100、2007年-89、2008年-75、ときて、ここ数年減少傾向が見られます。以前は冊数を稼ぐために、"薄い本"、"読みやすい本" を優先的に選ぶようなところがありましたが、最近はあまりこだわらなくなったという事情も影響していそうです。しかし、今後は最低でも週一冊の年間最低50冊のラインは保ちたいところ。
 読んだ本のタイトルを眺めてみると、「ドカーン!!」と衝撃を受けるような、飛び抜けた本は見当たらず。全体的に新書が粒揃いで、良書が多かった印象があります。そんな、印象に残った本をいくつか以下に列挙。

<"ツボ" な本>
柔らかい時計, 荒巻義雄, 徳間文庫 207-2, 1981年
 2009年の小説部門、または強いて挙げれば2009年のベスト本。主に不条理な精神世界をテーマとした物語を6編収録した短編集で、中でも『白壁の文字は夕日に映える』が出色の出来。現在絶版。

新書百冊, 坪内祐三, 新潮新書 010, 2003年
 新書好きとしてはたまらない本。紹介されているのは知らない本ばかりで、お宝がザックザクの反面、自分の読書の浅さを思い知らされる。

札幌の秘境, 青木由直, 北海道新聞社, 2009年
 久々に買っ新刊本。本の内容としてはまだまだ改善の余地がありそうだが、「人が注目しない場所(秘境)に行って写真付きでレポートする」というその趣味に非常に親近感がわき、また見知らぬ場所が多数紹介されていて非常に参考になった。

<その他印象に残った本>
~日本の小説~
殉死, 司馬遼太郎, 文春文庫 し-1-37, 1978年
 軍神・乃木希典の生涯。

卍(まんじ), 谷崎潤一郎, 岩波文庫 緑55-4, 1950年
 "谷崎ワールド" 全開。

~海外の小説~
フランケンシュタイン, メアリ・シェリー (訳)森下弓子, 創元推理文庫 532-1, 1984年
 「世界で最初のSF」とも言われるSFの古典。今ではそのイメージが一人歩きしてしまった "怪物フランケンシュタイン" の原形がここにある。単なる奇譚にとどまらず、「人間とは何か?」というテーマをも内包した名作。

マノン・レスコー, アベ・プレヴォ (訳)川盛好蔵, 岩波文庫 赤519-1, 1929年
 恋愛小説の古典。約200年前にして、すでに恋愛物のネタは出尽くしているような。

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?, フィリップ・K・ディック (訳)浅倉久志, ハヤカワ文庫 SF テ-1-1(SF229), 1977年
 SFの名作。映画も観てみたい。

~新書~
美について, 今道友信, 講談社現代新書 324, 1973年
 「美とは何か?」そんなとらえどころの無い問題について真正面から取り組んだ内容。その思考過程が興味深い。

ウィトゲンシュタイン入門, 永井均, ちくま新書 020, 1995年
 ウィトゲンシュタインの人となりではなく、あくまでもその "思考"(頭の中味?) の入門書。たとえその内容が理解できなくとも、その思考の生の肌ざわりを感じられる点だけで十分な収穫。

サブリミナル・マインド 潜在的人間観のゆくえ, 下條信輔, 中公新書 1324, 1996年
 「こんな心理学の本を読みたかった」と、心理学の素人として感じる本。人間の無意識世界への架け橋。

権威と権力 ―いうことをきかせる原理・きく原理―, なだいなだ, 岩波新書 C36(青版)888, 1974年
 先生と学生の『権威と権力』をテーマとした対話。何という分野に属するのか分類に困ってしまう内容だが、日常で気にも留めなかった問題を掘り起こして見せてくれる本。

~その他~
寺田寅彦随筆集 第一巻, (編)小宮豊隆, 岩波文庫 緑37-1, 1947年
 "理系文筆家" のはしりの作品。全5巻で、残りの4巻も楽しみなシリーズ。
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【本】空飛び猫

2010年01月13日 18時00分41秒 | 読書記録2009
空飛び猫, アーシュラ・K・ル=グィン (訳)村上春樹 (絵)S.D.シンドラー, 講談社文庫 む-6-15, 1996年
(CAT WINGS, Ursula K. Le Guin, Illustrations by S. D. Schindler, 1988)

・とある街の片隅で、何故か羽をはやして生まれてきた四匹の猫たち。セルマ、ロジャー、ジェームス、ハリエットの四兄弟は、安住の地を求めて街を飛び出し旅に出る。そんな小猫たちの小さな冒険を綴った絵本。作者は、数年前にアニメ映画化されて話題になった『ゲド戦記』の原作者でもあります。ストーリーは至ってシンプルで、70ページ(半分は絵)ほどしかないので、30分もかからずに読みきれる分量です。有名作家なので期待は高かったのですが、「たったこれだけ……」という物足りない内容で、物語として読むと少々期待外れでした。そもそもが "絵本" なので、文庫本よりも絵の大きな単行本の方が、かわいらしい猫の絵がより楽しめるでしょう。
・「(5)「いんげんを見たのかい?」とジェームズが言いました。
「それを言うならにんげんだろう」とロジャー。
"A human bean?" said James.
"A human being?" Roger said.
 もちらんジェームズが言い間違えているわけです。子猫なので、まだむずかしい単語がわからないのですね。こういうことは子猫にかぎらず大人の人間にもよくあります。この会話は日本語にそのまま訳せないので、頭をひねった末に「いんげん」と「にんげん」になってしまいました。ちょっと苦しいけれど、まあいちおうは豆が絡んでいるので、勘弁してください。
」p.75 巻末(訳注)より。
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【本】火の路

2010年01月04日 18時34分00秒 | 読書記録2009
火の路(上)(下), 松本清張, 文春文庫 ま-1-29・30, 1978年
・昭和48年から49年にかけて朝日新聞に連載された小説。飛鳥地方の謎の石造物『酒船石』を題材とした歴史サスペンス(?)。同著者の本領である推理小説の要素も含まれるが、実質、考古学趣味が長じた結果発した著者の仮説を、小説の名を借りて発表したというような、妙な雰囲気の作品になっている。日本だけでなくイランまでもを含めた古代史の話は興味深く感じられるが、小説として見ると話の流れに不自然な展開が目につき、作品としてのまとまり具合は今一歩の印象。登場人物の関係がやや複雑で、一部(容貌の似た姉妹の周辺)よく理解できぬうちに読み終えてしまった。スッキリとしないもやもやとした読後感が残る。
・「「天皇陵の石室の中には副葬品があまり残ってないのじゃないかというのが学界のほぼ常識のようですな。あまり大きな声では言えないけど」  「天皇陵でもそうかねえ」  福原は未練気に言った。「祟神天皇陵と名がついて決まったのは幕末ですからね。それまでは誰の墳墓やら知る者はいない。飛鳥にある天武・持統合葬陵というのは鎌倉時代に盗掘に遇ってその記録が残っているそうですよ。まして室町からつづく乱世、江戸の将軍さま時代にはこの辺の住人によっていまの天皇陵と名のつく古墳のほとんどは盗掘の憂き目に遇っていると思いますな」  「宮内庁あたりが考古学者に学術的な調査発掘を許さないのは、一つには、そういう負い目があるからだろうという推測をぼくも或る学者の話で聞いたことがある。宮内庁では御陵参考地というのも掘らせない。あれも同じ理由だと言っていた。しかし、そういう副葬品というの、宝ものはどこに行ってるんだろうな?」  「古いのは好事家の手にわたり、転々として金持の家や博物館などに入り、わりかし新しいのはその趣味の財産家に納まっているんじゃないですかな」  「今は盗掘はやってないだろう?」 「警察や村民の眼がうるさいですからな。とくに天皇陵というのは国民に特別な観念がある上、宮内庁の出先機関の職員が絶えず巡回しているから盗掘はできないでしょう。さっき、ぼくが言ったのは、この中にアベックがもぐりこむくらいだから盗掘者も進入できるという可能性を口にしただけですよ」」上巻p.39
・「「そういう脱落した学者の説を下敷きにして論文を書くというのは、どういうことですか?」  「大きな矛盾だ。その矛盾がまかり通るところが学界の特殊性だね。要するに、海津信六の考えをとらざるを得ないくらいに現在の学者、学部や研究所の教授、助教授、講師連の頭は貧弱なんだよ」」上巻p.136
・「要するに、紀にみえる斉明天皇の呪術的な性格、両槻宮の奇怪な工事崩壊、飛鳥石造物の異様性と、この三つをつなぐと、そこに「異宗教」的な体質が推定できるのである。」上巻p.221
・「「……崇神天皇は完全にシャーマニズムの性格で書かれていますが、斉明天皇はそうではありませんね。あれは何か妖怪じみた宗教の天皇になっています。あなたのおっしゃる異宗教という表現はあたっていると思います」  「異宗教というのは、神道シャーマニズムでもなく、仏教でもなく、それ以外の宗教だというところから苦しまぎれに付けたんですけれど」」上巻p.277
・「「胡」は中央アジア以西のイラン族をさす。  胡の風俗は後漢以来、中国では一種の先進文化として受けとられていた。その西域趣味はちょうど明治時代の西洋趣味、ハイカラ趣味のように三世紀以来中国の貴族にもてはやされたのである。胡桃(くるみ)、胡麻(ごま)、葫(にんにく)、胡豆(そらまめ)、胡葱(あさつき)など胡のつく植物や野菜はたいていイランを原産地とするものの名である(ラウファー「シノ・イラニカ」)。中国の胡風の愛好はこのように食生活にまで入ってきた。安石榴(ざくろ)や葡萄もイランからの輸入であった。獅子や駝鳥の動物名もある。」上巻p.341
・「ゾロアスター教では、火と土は神に捧げる神聖な供物とされています。人が死ねば、その魂は天に上り、残された遺体は醜悪な肉体の殻と見なされています。遺骸が腐敗するのは、魔女のしわざとされています。ですから、遺体を焼くことや土葬にすることは、神聖な火や土を穢すことになるので、鴉に腐肉を食べさせるのです」  「鴉? 禿鷹ではないのですか?」  「鴉です。イラン語でカラーグといいます。KALAGです。大きな鴉です。イェズドやイスファハンの町の中を飛んだり歩いたりしていますよ」」下巻p.30
・「「この飲みものは、いかが?」  シミンは注文した乳色の液体の入ったコップを見せた。  「何ですか?」  「ヨーグルトをタンサンでうすめたのです。ドゥーグというんです。イラン人はこれが大好きなんですよ」  「いただいてみるわ」  ためしに飲んだが、通子はあと口を閉じた。咽喉が受けつけなかった。この醗酵乳は山羊の乳らしかった。」下巻p.48
・「骨によっては白っぽいのもあり、灰色がかったのもあり、黒ずんだのもあり、また飴色がかったのもあった。丈夫そうなのもあるが、ぼろぼろに砕けそうなのもあった。その間に無数の細片が貝殻のように散乱しているのは、それらの砕けたものか、手根骨や足根骨といった細い骨の断片か軟骨の破片と思われた。ここもまた、真上から照りつける太陽が骨の水分を吸収し尽くし、臭気はなにもなかった。  髑髏は、ばらばらに崩れた自身の骨片の中にすわって、二つの黒い洞穴をかなしげに開いていた。  もとより腐肉の一片も付着してなかった。肉は遺体が置かれるや否や、待ちかまえていた鴉の大群が押しよせてむらがり、喰いちぎり、肉をついばみして天空に運び去ったのである。」下巻p.62
・「多くの外国人は、沈黙の塔に集まる鳥を禿鷹だと思いこんでいる。が、これはボンベイにあるパルシー教徒の鳥葬からの誤解である、と彼女はいった。ボンベイのダフメにむらがる人喰い鳥はたしかに禿鷹だが、イランのそれは鴉である。外国人にはちょっと信じられないかもしれないが、鴉はもともと悪食の鳥である。  ゾロアスター教では、神聖な火と土とが人間の死体に汚穢されるのを忌み、火葬も土葬もしないが、さりとて聖典がはっきりと鳥葬を規定しているのではない。けれどもこの宗教では、鴉が神の使徒になっている、とシミンはいった。」下巻p.67
・「「店つきは地味に、内所は豊富に、というのが骨董屋商売のコツだろうね。それと、警戒を要するのは、警察の眼だ」  「そうです」  「商品価値のある骨董は、そうザラにあるわけはない。数に限りがある。だが、地下にはまだまだ品が無限に埋まっている」  「あ、盗掘品ね」  「これ、声が高い」  福原は、歌舞伎の声色もどきに坂根を制めた。  「盗掘品というとガラが悪いがね。古墳のあるところを歩きまわっていて、そこに落ちている物を偶然に発見した人が、骨董屋に持参してくることはある。そういうものに限って、珍しいものが多い」  福原は、骨董屋のなかには古墳の盗掘品をひそかに買っている店があるらしいことをにおわせた。」下巻p.153
・「A地の盗掘品はB地に持って行って売る。B地の品はA地に持って行って売る。例えば、関西のものは関東に、関東のものは関西に、また、九州のものは関東で、東北のものは関西で、それぞれ捌かれるという噂である。  もちろん、これらは盗掘品だから贋物ではない。」下巻p.155
・「結論から先にいえば、日本には仏教が六世紀後半に百済から伝わったといわれているが、祆教はそれよりおくれても六世紀末までには日本に伝来していたと筆者は推定している。  中国では、仏教と同時に?教そのものだったかどうかは不明である。が、その要素の濃い宗教が渡来していたであろうことは推測できる。」下巻p.340
・「宗教にしても思想にしても生活文化にしても、それだけがひとりで空を飛んでくるわけではありません。書物などの舶載が発達した後代とは違います。それはかならず人が持ってきたものです。古代の渡来文化に、それを持参した「人」を考えずに、空気伝染のように考えたところにこれまでの学説の錯誤があります。」下巻p.388
・「所詮、仮設を立て得ないものは発想の貧困をものがたるだけです。仮設のあとから実証を求めればよいのです。ヘロドトスの『歴史』もはじめは大ほら吹きとして嘲罵の対象になりました。」下巻p.394
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【本】バイオサイエンス入門 生命現象の不思議を探る

2009年12月17日 22時01分58秒 | 読書記録2009
バイオサイエンス入門 生命現象の不思議を探る, 藤本大三郎, 講談社現代新書 1149, 1993年
・『バイオサイエンス』と言うと生物全般を扱うようなとても広い分野の学問のような感じを受けるが、本書で扱われているのは『分子生物学』や『遺伝子工学』などに分類される、主にミクロな世界の生物学となっている。非常に口当たりのよく読みやすい文章ではあるものの、その内容はどれも「どこかで読んだ」既視感があり、目新しさはあまりない。唯一、たまに挟まれる筆者が実際体験した研究のこぼれ話には興味をひかれた。
・『タンパク質』の構造的定義が知りたかったが、その辺りは事情が複雑なためかボカした記述しか無く、こちらの要求には応えてくれず不満が残る。
・「酒の歴史はとても古い。人間は大昔から酒をつくって楽しんできた。サルが木の洞に果物をためておいたものが自然に発酵してワインができ、それを人間が見つけて横どりして飲んだのが酒のみのはじまりだというが、本当かどうか知らない。」p.18
・「突然変異をよくひきおこす紫外線の波長は260ナノメートルである。一方、タンパク質は280ナノメートルの波長の紫外線をもっともよく吸収するが、DNAは260ナノメートルの波長の紫外線をもっともよく吸収する。  それゆえ、DNAが遺伝物質であり、260ナノメートルの紫外線があたると変化をおこし、その結果突然変異がおこると考えると、とてもうまく説明がつく。」p.29
・「私がはじめてDNAを扱ったのは、いまから30年近くまえ(1964年)にアメリカのコロンビア大学に留学したときのことであった。  まずはじめに、細菌からDNAをとり出すことをはじめたのだが、先生にピペットは穴が太く、しかもふちが丸いものをつかえといわれた。穴が細かったり、ふちが鋭かったりすると、DNAの分子が切断されてしまうというのである。  私はびっくりした。「分子」が機械的な力で切断されてしまうとは、他の分子ではちょっと考えられないことである。たとえば水の分子をハサミで切ろうとしたって、できるはずがない。」p.38
・「それでは、こんなにたくさんの種類のタンパク質がなぜ必要なのだろうか。  それは、タンパク質のそれぞれはきちんと決められた役割分担をもち、決められた活動をしているからである。複雑な生命現象は多数のタンパク質の働きを総合した結果である。」p.48
・「酵素(enzyme)という言葉は、「コウボの中にある」(en=中にある、zyme=コウボ)という意味のギリシア語にもとづいているそうである。」p.50
・「ホルモンとは、動物の組織の中にあって、いろいろな物質の代謝の調節を行う物質である。」p.53
・「61個のコドンが20種類のアミノ酸に対応するので、あるアミノ酸に対して複数個のコドンがあるのが普通である。たとえば、フェニルアラニンのコドンはUUUの他にUUCがある。(中略)多くの場合、三つ組塩基の中で、はじめの二つが重要で、アミノ酸の種類を決めているらしい。」p.82
・「「遺伝情報はDNA→RNA→タンパク質の向きに流れて、逆向きに流れることはない」  DNAの二重らせんの発見者のひとりであるクリックはこう提唱した。この考えは、セントラルドグマとか中心説とか呼ばれて、生物学の大原則だと思われてきた。  ところが1970年に、このセントラルドグマに反する現象が見つかった。」p.91
・「人間の細胞とネズミの細胞のように種の異なる細胞を融合させるとどうなるかというと、往々にして、遺伝子同士のサバイバル戦争がおきて、一方の細胞から由来した遺伝子だけが勝ちのこる。人間とネズミの場合は、優性になるのは残念ながらネズミの遺伝子だそうである。だから、人間とネズミの両方の性質をもった雑種細胞をつくることはできない。もっとも、人間と蚊の細胞を融合させた場合には、勝敗は決まらなかったそうである。」p.141
・「地球上のあらゆる生物について、その「基本的」な生命活動はタンパク質と核酸でうまく説明できる。しかし、たとえば「赤血球の顔つき」というようなたいへん微妙な問題になると、糖鎖の出番になる。」p.156
・「血液型と性格の関係だが、これはどうやら根拠がないものらしい。きちんと統計処理をすると、意味のある差が出ないという。また、脳と血管のあいだには関門があって、血液成分は脳の組織に入りこめないから、血液型物質と脳が接触する機会がないので、血液型物質が性格を決めるなど考えられないそうである。」p.159
・「物理的機能のみでなくて、「生物学的」機能も代行するような人工臓器の開発が、これからの課題である。」p.165
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【本】美について

2009年12月09日 22時03分45秒 | 読書記録2009
美について, 今道友信, 講談社現代新書 324, 1973年
・『美について』このつかみどころが無く思える、茫漠としたテーマについて真正面から取り組んだ書。その持論は読み応えのある密度の濃い文章で展開される。それに着いていけない場面も多々あるが、時々ハッとさせられる文章にも突き当たる。『美学』や『芸術論』などの入門書としても使えそうな良書。
・「真と善と美とは人間の文化活動を保証し、かつ、刺激してやまない価値理念である。幸福や健康や才能や富や快楽や権勢や名誉や便益などの一切がそなわった人間がいても、もしその人が真、善、美の追求を捨て去るならば、その時点から獣に堕ちてしまう。なぜか。幸福や健康と並べて列挙した一切のものは、その具体的な状態は千差万別であるにしても、多くの高等動物の生態の中で充分見出される現象であるからにほかならない。」p.12
・「真が存在の意味であり、善が存在の機能であるとすれば、美は、かくて、存在の恵みないし愛なのではなかろうか。」p.14
・「本当に美は直接的な視覚、聴覚、あるいは感覚、感情の相関者であって、美について思索することは、理論的にはともかくとして実際問題としては不要なのであろうか。」p.21
・「どのような作品の場合にも、理性的に理解するという段階がなければ、その作品の鑑賞は成立しない。美はこの意味で、たしかに理性的に発見されなければならない面がある。」p.28
・「美は、現代芸術のさなかにあって、今音楽についてみたように、人間の自己回復の鍵になっているのではなかろうか。しかし、その回復とは、瞬間的に変移する無反省な小品の上で、自己の肉身を恣意的に踊らす方にあるのか、自己のはかない生命を永遠な大作の中に刻みこみ、作品として転身する方にあるのか、簡単に定めることはできない。いずれにせよ、美は、この二者択一の中で、求める人々の対象であることに変りはない。」p.40
・「解釈とは人間関係でいえば対話に当たるようなものであり、分析とは、人間関係についていえば、身体検査と戸籍調べのようなものである。」p.45
・「作品との対話と一口にいうが、これは結局作品が秘めている体験及び価値展望と、自己の体験によって深められている私との対話ということができよう。」p.45
・「美について思索することは、決して机上の空論ではない。今まで述べたことによって、われわれのごくありふれた観光の体験、また芸術作品との体験、生活環境への反省というような誰にでもありうる体験を通じて、美の思索は可能であると同時に、必要であり、かつまた有益であるということを、きわめて論理的に示したつもりである。」p.54
・「翻って、われわれが日常芸術と思っているものを反省してみると、そのほとんどが複製品であり、翻訳であり、結局は価値の点で巨大である原作のミニアチュール(雛型、小型版)であると言わざるをえないし、かりに本物の作品に接するということがあっても、それはたいてい、博物館の中に据えられていて、故郷を奪われた姿である。ということは、われわれはしばしば真の芸術体験を構成しているのではなく、疑似体験としての芸術体験、または教養体験としての芸術体験をしているに過ぎない、ということを意味するのではないか。」p.70
・「今わざわざむつかしい字形でここに紹介するこの「藝」という字は、漢代の初期(前二世紀頃)に今日の形の文献として成立していた『論語』や『周禮』にも見られるもので、もともとの意味は「ものを種える」ということであり、人間の精神において内的に成長してゆく或る価値体験を植えつける技ということを意味するから、私の見るところでは、洋の東西を問わず、今ここで主題としている文化現象を表わすにはこれを使った藝術が一番適切な言葉なのではないかと思う。ただし、今日本で使っている「芸」という字は、もともと「藝」の略字ではなく、漢字本来の伝統では立派な本字なのであるが、「草を刈りとること」であって、「ウン」と発音し「クサギル」と訓む言葉で、「藝」の語感とは全く異なるし、「芸術」と書けば農業の田畑の草をとる技術と同じ意味になるが、しかし、当用漢字の制度では、「ゲイ」と読んで「藝」の略字であるという風に定められ普及してしまったのでこういう間違ったことに妥協するのはよくないことではあるが、その制度のもとに育っている多くの読者の便をはかれば、この字で藝の意味を理解するほかはない。」p.75
・「人間によって発見される秩序をもった自然的存在を、一定の手続きにより、価値を結晶軸にして、それ自身自己完結的な、人間によって組み立てられた秩序をもつ美しく快い作品にまで作り上げる技術、それが芸術である。この意味では、芸術は物質の条件の配置変換による価値賦与であるといってよいかと思う。」p.76
・「このようにみてくると、確かに東洋と西洋においては、芸術や美についての理念がまったく歴史的には逆の展開を同時に行なってきたと認めることができる。なぜならば、西洋においては、今述べたように古典的芸術理念は模倣的再現であり、近代的理念としては、表現が新たに成立し、しかも、そのような観念が成立してから、形態的にいわば未完成の作品が開かれた未来を秘めるものとして尊重されてきている。これに対して、東洋においては古典的な理念はむしろ写意としての表現であり、再現すなわち写生はきわめて近代の考え方なのである。」p.94
・「芸術は物質の中に、非物質的な永遠者の美を喚び出すみなのである。」p.99
・「このように、芸術とは別の次元で現象する風土と民族の関係が、同一の文化圏の内部における歴史的文節として、風土的・民族的な第一次様式を、さらに時代的な趣味や風潮と関係させることになる。」p.103
・「作品が自己を言語の上に展開しながら、自らの光を世に照らし出すようにすること、それが作品の価値の現実化なのである。どうしてかというと、人間の理性は言語の次元で現実化するからである。解釈とはこのようにして、先ず第一に作品の持っている可能性としての価値を、この世に輝き出す操作でなければならない。それはいわば演奏のようなものである。したがって、解釈とはそれ自身一つの美的体験であって、それは科学の体験のように、一義的な記号の答えをもって終局となす閉鎖的体験ではなく、限りなく深められてゆく開かれた体験でなければならない。その意味で、作品の解釈とは、同一の作品に対して反復して試みられるものであり、しかも、そのたびに新しい喜びが涌き出てくるような体験なのである。」p.130
・「芸術とは、ありとあらゆる事象に潜んでいるよい物を、光を、希望を、作品の中に表わすことによって、存在するすべてのものを完全にする技なのではなかろうか。」p.134
・「映像の飛躍的な進歩は、すぐれた映画作品やすぐれたテレビ・ドラマが示すように、人間の視覚体験や聴覚体験に革命的な展開をもたらした立派な芸術を与えもしたが、同時にその電波を乱用する結果、映像という非連続的なものの瞬間的系列が、論理という構成的な連続に基づいている理性的文化の維持に対して、否定的に作用するというほど、瞬間的感覚を重んずる傾向を生んでいるのではないか。」p.148
・「現代国家はその小学教育の全過程において、音楽や絵画や舞踏を課しているから、われわれが社会人に育って来たのは、芸術を媒体にした教育なのである。  したがって、芸術は今日も学校の中で驚くほど教育的機能を果たしているという事実に注目しなければならない。」p.150
・「現代社会は一言で言うならば、拙著『愛について』(現代新書)で詳しく述べたように技術連関であると言ってよい。技術の力で現代の社会は連鎖的に関係づけられているからである。したがって、現代社会の最も本質的な特色は、技術の本質に由来するということができる。技術の本質とは何か。それは計量的に記号化された効果的な手段連関であるということであろう。したがって、技術の特色としては、記号的構造と効果的な手段という二つが挙げられる。これらと関係させて、芸術の社会的機能を考えてみよう。」p.152
・「芸術は帰するところ、個人個人の人格の、科学で完成さすことのできない真の完成を、その本来的な目的とするものということができる。ということは、芸術の美も力も、人間の精神の美しさを究極目的としていることになるのではないか。」p.160
・「ほとんどすべてのひとが芸術鑑賞の際に志向していることは、その意識を分析すれば、結局のところ、快を求めている、というほかないであろう。」p.165
・「芸術はこうして究極するところ、無意識のうちに求道者としての人格美を頂点に持つ営みなのである。」p.177
・「一つは美は決して事物的な意味で客観的な存在ではないということである。というのは、美しいものはあるが、美、すなわち美しさはこの世のどこにもない。ということは、美は無意識な存在、観念的な存在であるということにほかならない。」p.178
・「初めに、第一章、第二章で述べたことをふりかえってみると、つぎの三つに要約される。すなわち(一)美は感覚で感ぜられるにとどまらず、理性によって発見されてくるものである、(二)つぎにこの理性による美の発見を、私は解釈と呼び、これは様式や主題の歴史的分析や物理的分析とは異なり、これらを前提とするが、分析結果の水平的集積を超える体験であると規定したこと、したがって、この体験は作品を足場として、精神が美という価値に遭遇するのを目的とする立体的な構成をもつことになる。右のように規定した場合、直ちに提起されるのは、美は芸術を通じてのみ発見されるものなのかどうかという問題である。そして、(三)このような解釈は一作品のみを対象とする操作として意味があるばかりではなく、全般的な現象としての芸術一般を対象としても可能であり、かつ、現代芸術の一傾向としての原色性に関する前述(第二章3節)の解釈例のように意外な程有効な理論を導き出しうるものである。」p.186
・「芸術作品は、それゆえ、有限を介して無限へ至るはずの精神の道が刻み隠されている事物であり、世界から超越へ、歴史から普遍へ、物質から理念へ至る垂直の柱なのである。」p.207
・「さて、その「美しい」であるが、これを漢字の「美」の構造からみると、羊が大きいという意味を持っている。この羊については、色々の解釈があって、羊の肉が大きいという風に考えて、美は単に美味という味覚に由来するという感覚的な理解をする向きもあるが、私の考えるところはそれとは別である。なぜならば羊は色々な大切な漢字に関係している。たとえば、義、善などみな美と同様に羊という字をもっているではないか。それゆえ、私は、この羊は『論語』の告朔(こくさく)の?羊(きよう)(『論語』巻二・八?第三)という句と関係させて理解しなければならないと思う。」p.212
・「私は、文化は伝達されるものではなく、点火されるのみであると思う。火を点じられても、自ら燃えないものは炎を出すことができない。文化は受け取られる情報ではなく、自ら燃え立つ力である、と考える。その意味で、生産しないものは文化ではない。」p.223
・「美術品の中心的価値である美は、やはり人間の追求する価値の中では、最も人生の周辺にあるもの、あるいは、少し極端な言い方をすれば、生の余剰の装飾品、または贅沢や余裕が求める徒花と言わるべきものに過ぎないのではないか、という疑問がまた生じて来る。」p.228
・「こうしてみてくると、美はその至高の姿においては、宗教の聖と繋がる人間における最高の価値であると言わねばなるまい。美は基本的には、精神の犠牲と表裏する人格の姿なのである。この輝きは、単に義務を履行して、他人から批難されない行ないの正しさ、自己を失うことなしに、道徳的に模範となっている善の落度のなさとは異なって、積極的な光となってひとびとの心に明るい灯となるものではあるまいか。われわれは、義の人を賞讃し、善の人を賛嘆することはできる。しかし、それらの賞讃や賛嘆がわれわれを動かすであろうか。われわれの命に立ち上がる力を与えるもの、それは、輝き出てくる美しさだけなのである。美のひとのみが力を喚ぶ。」p.234
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【本】春の嵐

2009年11月10日 22時00分24秒 | 読書記録2009
春の嵐(ゲルトルート), ヘッセ (訳)高橋健二, 新潮文庫 ヘ-1-1, 1950年
(Gertrud, Hermann Hesse, 1910)

・怪我により片足の利かない音楽家のクーンと、その友人であるオペラ歌手のムオトと、美しい令嬢ゲルトルートとの三角関係を描いた作品。ヘッセの作品はこれまで『車輪の下』や『デミアン』も読んだがどれもいまいちピンと来ず。相性が悪い?
・登場人物の一人 "ムオト" の名を、ずっと "ムトオ" と誤読していた事に気づいたのは読了した後のこと。
・「――そもそも音楽が世の中にあるということ、人間はときおり心の中まで拍子に動かされ、諧調に満たされうるものだということ、そのことが私にとってはたえず深い慰めといっさいの生活の是認とを意味していた。ああ、音楽! ある旋律がおまえの心に浮かぶ。声を出さずに心の中だけでそれを歌う。おまえの心身はその旋律にひたされ、おまえのすべての力と動きとはそれに奪われる。――おまえがおまえの中に生きているあいだは、おまえの中のいっさいの偶然なもの、悪いもの、粗野なもの、悲しいものを消してしまい、世界を共鳴させ、重いものを軽くし、堅いものをも飛躍させる。一つの民謡の旋律がそうした種々さまざまのことをなしうるのである。そして和声にいたっては! たとえば鐘の音のように、純粋な調子の音の快い共鳴だけでも、すべての心を優美と快感をもって満たし、音が加わって来るごとに高まり、ときには胸を燃え立たせ、どんなほかの快楽もなしえないほど、歓喜に胸を震わすことができる。」p.7
・「「なるほど」と、彼はゆっくり言った。「しかし、どうして作曲するのが喜びなんです? 苦しみを紙に書きつけたって、苦しみからのがれられるわけじゃないでしょう」  「ぼくもそんなつもりじゃないんです」と、私はいった。「弱さや不自由さならともかく、苦しみを捨てようなぞとは思っていません。むしろぼくは、苦しみと喜びは同じ源から出て来るものであって、同じ力の働きであり、同じ音楽の拍子であるということを感じたいのです。そしてどちらも美しく必要だということを」」p.53
・「「あなたはムオトさんをまだご存じないんです」と、彼女は続けた。「あのひとが歌うのをお聞きになったことがないんですの? あのひとはあのとおりなんですの、乱暴で残酷で。でも、自分自身に対していちばんひどいんですの。あのひとは、力ばかりあって目あてのない、気の毒な激しい人です。あのひとは一瞬ごとに全世界を飲みほそうとするんですの。しかも自分で持つもの、することはいつもほんの一滴にすぎないんです。お酒を飲んでも、酔えず、女のひとがあっても、しあわせになれず、あんなにすばらしく歌っても、芸術家だなんて思っていませんの。だれか愛する人があっても、その人を苦しめるばかりです。そして満足しているひとをだれかれとなく侮るようなふうをします。でも、それはあのひと自身に対する憎しみなんですの。自分で満足できないものだから。あのひとはそんな人間なのです。あなたに対しては、できるかぎりの親切を尽くしたんですわ」」p.59
・「名声のうちでも、まだ大きな成功を望まず、うらやまれもせず、また孤立もしない名声は、最も甘いものである。」p.94
・「私は自分の音楽のことをほとんど忘れてしまっていた。私は広間の奥の方にいる令嬢ゲルトルートをさがした。彼女は書架にもたれて薄暗がりのなかにこしかけていた。彼女の濃いブロンドの髪の毛はほとんど黒く見えた。彼女の目は見えなかった。それから私は静かにタクトを数えて軽く頭を下げた。私たちは大きく弓をしごいてアンダンテをひき始めた。  ひいているうちに私は快く熱してきた。拍子とともにからだを揺すり、音の流れの諧調のなかに自由にただよった。そのすべてが、私にはまったく新しく、この瞬間に考え出されでもしたように思われた。音楽に対する思いとゲルトルート・イムトルに対する思いとが、純粋に狂いなく融合して流れた。私はバイオリンの弓を引きながら目で指揮をした。音楽はよどみなく美しく流れ、もはや見えずまた見ようとも願わなかったゲルトルートめざして、黄金の道へと私を連れて行った。ちょうど朝の旅人が、求められず迷わずに、早朝の淡い空色と澄んだ草地の輝きに身を任すように、私は自分の音楽と呼吸と思想と心臓の鼓動とを彼女にささげた。快感と重畳としてあふれてくる調べと同時に、突然恋の正体がわかったという、不思議な幸福感が私をにない、高めた。それはけっして新しい感情ではなく、非常に古い予感がはっきりと現われたものであり、昔の母国の復帰にほかならなかった。」p.98
・「その晩以後、私は、融合と無上にこまやかな調和とに対する自分の願望がどこかで満たされうるということ、その人のまなざしと声とに私の体内の一つ一つの脈拍と呼吸とが清く深く答えを与えているだれかが地上に生きているということ、を知った。」p.100
・「彼女は喜んで、話をきき、譜面を繰って見て、さっそく練習すると約束した。熱烈な、極度に充実した時期が来た、私は恋と音楽とに酔い、ほかのことにはまったく無能になって歩きまわった。ゲルトルートは私の秘密を知っている唯一の人だった。」p.112
・「今日ではもうそれを聞きたいとは思わないし、まったく別な曲を書いているが、あのオペラの中には私の全青春がこもっている。その中の数々の拍子に出くわすと、なまぬるい春の嵐が青春と情熱の寂しい谷間から吹いて来る思いがした。その熱と人の心に及ぼす力とが、すべて弱点と欠乏とあこがれとから生まれ出たことを思うと、あの当時の自分の生活全体が、そしてまたいまの生活が、自分にとって好ましいのか、いとわしいのか、わからなくなる。」p.125
・「しかしそれはもう私のものでも私の作品でもなく、それ自体の生命を持って、外部の力として私に働きかけた。作者と作品の分離を私ははじめて感じた。それまでは私はそれをほんとに信じてはいなかった。私の作品は独立して働き生命を示し始めた。ついさっきまで私の掌中にあったのに、いまはもう私のものではなく、成長して父から離れる子どものように、独力で生き、力を発揮していた。そしてひとりまえになって他人の目で私を見ていた。が、やはりそのひたいには、私の名まえとしるしとが書かれていた。同じように分裂した、ときとしてはぎくっとさせるような感じを、私はのちに上演の際に受けた。」p.127
・「わしは、人の一生には青春と老年とのあいだに、はっきりした境が設けられると思う。青春は利己主義をもって終わり、老年は他人のための生活をもって始まる。」p.134
・「若い人たちのあいだの愛と長い結婚生活の愛とは同じものではない。若いときはみんな自分のことを考え、自分のことを心配している。しかし一度所帯を持つと、ほかの心配ができる。」p.136
・「「きみは子どもだな! 彼女はきみといっしょになった方がおそらく幸福だったろうに! だれにだって女をわがものにする権利はあるんだ。はじめに一言でも、目くばせでもしてくれたら、ぼくは近よらなかったろうに。あとからじゃもちろんまにあわなかった」」p.175
・「恋とはなにか、ということが、ときおりはわかったような気がした。きれいで気軽なリディに無我夢中になっていた少年時代すでに、私は恋を知ったように思っていた。それからまたゲルトルートをはじめて見、彼女こそ自分の問いに対する答えであり、自分のぼんやりした願いに対する慰めであると感じたときにも、それからまた、苦しみが始まり、友情と明澄さが情熱と暗黒になり、ついに彼女を失ったときにも、恋というものを知ったように思った。彼女を失っても、恋は残り、常に私につきまとっていた。同時に、ゲルトルートを心の中にいだいて以来、私は欲望をもって女を追い、女の口のキスを求めることは、もうけっしてできないのを知った。」p.187
・「私の作品でありながら、もはや私を必要とせず、それ自体の生命をもつ音楽が始まり、私の前になじみぶかく、しかもよそよそしく響いて来た。過ぎ去った日の喜びと苦心、希望と眠れぬ夜々、あのころの熱情とあこがれ、それらが引き放され変装させられて私に相対した。秘めた思い出のときの興奮が、劇場の中の数千人の見知らぬ人々の心に取り入るように自由に響いた。ムオトが登場し、控えめな力で歌い始め、だんだん調子を張り、力いっぱい出して、例の暗い激情で歌った。女の歌手が、高い震える明るい調子で答えた。それから、ゲルトルートの声で聞いたのがまだはっきり私の耳に残っている個所が来た。それは彼女への敬意の表示であり、私の愛のひそかな告白であった。私はまなざしを彼女の静かな清い目に向けた。その目は私の心を理解し、親しげに会釈した。一瞬のあいだ、私は、自分の青春の内容が熟したくだもののデリケートなかおりのように、心に触れるのを感じた。」p.199
・「ムオトの言ったことは正しい。人は年をとると、青年時代より、満足している。だが、それだからといって、私は青年時代をとがめようとは思わない。なぜなら、青春はすべての夢の中で輝かしい歌のようにひびいて来、青春が現実であったときよりも、いまは一段と清純な調子で響くのだから。」p.233
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【本】文化としての数学

2009年11月03日 22時09分54秒 | 読書記録2009
文化としての数学, 遠山啓, 光文社文庫 と18-1, 2006年
・日本の数学教育に尽力した数学者によって1956年から1970年の間に書かれた、「文化としての数学」にふれた短文を集めた書。大部分は気楽に読める文章だが、一部、概念的に難しく適当に読み飛ばしてしまった部分もあった。今となってはそう珍しくもない、"数学" を平易な言葉で語ったエッセイだが、1973年の初出当時にはかなり異色で画期的なな本だったのではと思われる。途中、「女性の科学進出」について熱っぽく語る部分などは、今でもそう大きく状況が変ったとは言えないところだが、時代を感じる記述である。
・「数学を人間が創った? どうもなんとなく納得できないな。2+3が5になることは人間がまだこの地球上に出現しなかった何億年もむかしからそのとおりであったろう。だから人間がいなくたって成立っている真理ではないか。それを人間が創りだしたなんていうのは人間の増上慢にすぎない。」そういう風に考えている人は少なくないように思える。  そのような疑問に答えるように努力してみようと思う。」p.10
・「数学は決して素通しの眼鏡ではなく、むしろ想像力というレンズによって組立てられた複雑な光学機械に似ている。それは現実を拡大したり、縮小したりばあいには歪曲したりして、人間の頭脳に投写する。」p.15
・「このようにあらゆる方面に数学が使われるようになった。これはだいたい第二次世界大戦が終わってからの新しい傾向です。ですからさっきみなさんは嫌いな人がたくさん手をあげたけれども、数学を知らないと非常に損をするという、嫌いな人にはまことにお気の毒な世の中になってしまったわけです。ですからひとつ好きになってもらいたいのです。」p.25
・「数学というのは、ほかの学問とは趣を異にしています。簡単にいうと数学には固有の領土というのはないのではないでしょうか。(中略)研究対象でいろいろ課題を決めるというわけにはいかないのです。だから数学は、地球の上に漂っている空気みたいなもので、どこにでも移動できるのです。」p.30
・「数学という学問が最近またひと昔前の物理学のように、いろんなところへ進出していることは事実です。しかし、これは帝国主義ではない、つまり領土を侵略することではないわけで、ちょうどユダヤ人のようば広がり方ではないかと私は思います。ユダヤ人は、昔からいろんな国へいって実権をもっています。数学もいろんな学問の中へ、ポツンポツンとはいっていく、これはさきほどいった数学の性格から当然なことで、ものは違うけれど同じ型の法則をまとめて研究するのが数学だとすると、数学はどんなものの中にでもはいっていけます。」p.31
・「物理学でも、生物学でもわれわれの知らないようなものが、どんどん発見されていますが、それをお互いに話し合わないのは残念なことだと思います。」p.33
・「私の年来の主張ですが、講義は午前中だけにして、午後は好きなことをやったらよい。朝の九時から四時ごろまで講義はありますが、人間の注意力というのはそんなに続かないと思います。」p.34
・「数学嫌いを大量生産したのは99パーセントまで数学教師の責任だと思う。」p.38
・「古代数学の大きな特徴は、「証明」というものがないということだ。(中略)
 つまり古代数学は経験的であったということか。
 そういえるだろう。もう一つ、演繹的でなく、帰納的であった。それが第二の特徴だ。
」p.41
・「 みな幾何学ではないか。ユークリッドもデカルトもヒルベルトも時代の区切りになったのは三つとも幾何学だというのは不思議だ。
 それは必ずしも偶然の一致ではないと思う。幾何学は実在と数理との関係を問題にせざるをえない部門だからだ。
」p.45
・「期せずして構造ということばがとび出してきたが、まさにその構造(Structure)という概念が現代数学の中心概念なのだ。」p.48
・「ブルバキは構造を建築物にたとえているが、それは建築物のように空間的であり静的であり、そして一つの完結したもの、数学的にいうと、未完結で「開いた」思考法も無視することはできないのだ。これはアルゴリズムということばで代表されている。」p.50
・「この三人の大数学者の出身階級をしらべてみるとおもしろい。アルキメデスは貴族の出で、ニュートンは農民、ガウスは煉瓦工の家に生れた。三人のうち二人までが労働者や農民の出身であることは、やはり数学が公平で民主的な学問であることの証拠になっているといえよう。  算数は原理がすこぶる簡単であって、その簡単な原理をよくつかんでそれを系統的に適用していけばよいのだから、別に本をたくさん読む必要はないし、もの知りである必要もない。正直でねばり強い子どもにならできるようになっている。」p.55
・「数学はどのような科学であろうか。  まず最初にあげるべきはその普遍性であろう。数学の命題は世界中のいかなる人間にとってもなんらの差別なく理解できる。」p.64
・「数学という学問の根本的性格の一つとして、「数学は学問的に孤立する危険を常に内包している」ということがいえるだろう。だからこそ、他の学問との連帯性を常に強調しておくことが大切なのである。」p.69
・「あらゆる科学のなかでもっとも抽象的なものは数学であるといってよかろう。ところがその抽象性のゆえに社会のあり方とは関係がないというのは間違いであろう。むしろ抽象的であればあるほどそれは一定の方向性をもち、そのために強い社会性をもつといえるのである。」p.72
・「私は、数学が若干の公理系から導きだされる自律的な体系だと言う見方に反対する。そのような見方にたいして、数学は自然や社会を反映する客観的な知識であると主張したい。」p.79
・「要するに日本では、人間支配の技術だけが尊敬されて、自然支配の技術は軽蔑されているのだ、といえよう。だから数学にかぎらず、自然科学が人間形成などになんのかかわりもない用具であると見る考えは、日本の社会そのものの中に根づよく内在しているといってよい。」p.89
・「この「長方形」という名前は誰がつけたか知らないが、どう考えても拙劣な命名である。  英語やドイツ語はrectangle,Rechteckとなっているから「直角形」というような意味になり、合理的である。辺については長い短いとはなにも言わず、ただ角が直角であることだけを指定しているから、賢明である。  日本語でこれにならおうとすれば、「直角四角形」もしくは略して「直四辺形」、あるいは「直四角形」のほうがまだましであろう。」p.107
・「社会や生産との生きいきした連関を失ったとき、そこには「数学のための数学」とでもいうべき不健康な空気がかもしだされる。唯美主義、知的貴族主義、天才至上主義、孤立主義、その他の病気がそこから発生する。」p.141
・「この四つの時代を分ける大きな標識として、つぎの三つの著作をあげることにする。
(1) ユークリッドの『原論』
(2) デカルトの『幾何学』
(3) ヒルベルトの『幾何学基礎論』

 四つの時代を区分する著作がすべて幾何学にかんするものであることは、一見たんなる偶然であるように見えるかも知れない。しかし、それはたんなる偶然ではない。
」p.149
・「実在は空間的であるばかりではなく時間的でもあるとすると、それに対応する数学もやはり時間・空間的でなければならないだろう。そのような数学はいまのところ生れてはいないが、未来の数学はそのようなものとなるかも知れない。」p.174
・「つまり構造は集合になんらかの相互関係をつけ加えたものである。  象徴的にかくと、つぎのようになるだろう。
  構造=集合+相互関係
 また集合は要素のあいだになんらかの相互関係があっても、それを無視、もしくは捨象してできた概念であるから
  集合=構造-相互関係
 このような構造の考えをはじめて明瞭にうちだしたのは前にものべたようにブルバキであった。ブルバキは構造こそ現代数学の主役であるとみなしたのである。
」p.186
・「ブルバキのいう順序の構造、代数的構造、位相的構造が今日の数学における三つの主要な柱であることは事実である。しかし、そのようなことが永久に続くとは考えられない。  ブルバキは構造を概念の建築物にたとえたが、それはたしかに建築物のように静的で閉じた体系であり、いわば空間的なものである。  したがってそれは時間的変化を包含することはむずかしい。もし数学が時間的に変化する構造を取りあつかう必要がおこってきたら、さらに新しい型の体系をその研究課題として設定しなければならなくなるだろう。  したがって、三つの構造を数学の永遠の研究課題と考えるべきではあるまい。」p.204
・「がんらいあらゆる発見は、偉大であればあるほど、あとからみると、当たり前のように見えてくるものである。集合論もそのような発見の一つであったといえよう。」p.213
・「日本が豊かな国になるためには科学技術を発展させ、少ない原料に高度の加工をほどこすような工業をもつ国になる意外に道はない。もし、日本がアメリカやソ連と対等になろうとするなら、物的資源の不足を頭脳で埋め合わせていくようにしなければならないし、またそれは可能なのである。そのためにはまず大量の科学者技術者が必要になり、どうしても女性の力を動員しなければならないのである。」p.225
・「それではかりに科学をもういちど勉強してみようという主婦がいたとしたら、どういうことから始めたらよいか、について私の意見を述べてみよう。  私なら、その人にまずデカルトの『方法序説』をよむことをすすめるつもりである。」p.226
・『遠山啓――西日のあたる教場の記憶』(吉本隆明)より「遠山さんの<精神の匂い>は、ひとくちにいえば大学の教授の一般的なタイプである、頭のいい坊ちゃんという印象とまったく異ったところからきていた。人間の本性にある怠惰とデカダンスをよく知っていて、それを禁欲的な強い意志で制御した上に数学を築いているというふうに理解された。」p.236

?ぞうじょう‐まん【増上慢】 1 仏語。四慢、七慢の一つ。いまだ悟りを得ていないのに、悟ったとして思い高ぶること。  2 自負してえらそうにふるまうこと。

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【本】内村鑑三

2009年10月27日 22時00分15秒 | 読書記録2009
内村鑑三, 鈴木範久, 岩波新書(黄版)287, 1984年
・内村鑑三の生涯とその思想の変遷について。単なる事実の羅列ではなく、その前後関係の "流れ" が見える書き方で著者の豊富な知識とその力量が覗える。鑑三は思いのほか札幌と縁が深かった事を知り、親近感が湧いた。
・「鑑三という人間は「忠君愛国」や「富国強兵」への出来高を尺度に人間をはかることに、もっとも疑問を抱き、信仰の立場から、それとは正反対の人間観を強く唱えた人である。現代社会は、産業界のみならず広く教育などの分野にまで、あいかわらず根強い成績主義、行為主義が幅をきかせ、強まっている。鑑三の思想が、今日ほど痛切に要求される時代はない。」p.ii
・「鑑三の名前の由来については、三たび自己を鑑みる意味で父宜之が名づけたといれている。あるいはまた、中国の唐書魏徴伝に出てくる三鑑、すなわち人の心身を正しくする鏡と歴史の鏡と人の鏡との三つの鑑にちなむことかもしれない。」p.6
・「鑑三が、後年「先生はなぜ帝大にはいらなかったのですか」との質問に応じて「金がなかったからさ」と呵々大笑しながら答えた話が伝えられている。」p.14
・「クラークが遺したものの一つに禁酒禁煙の誓約があるが、この方は鑑三も入学直後に署名している。それは東京で結んだ立行社の約束となんら矛盾するものでもなかったからである。しかし、キリスト教への入信には頑強に抵抗した。異国の教えであるキリスト教に入ることは、日本への裏切行為になると思われたのだった。  その鑑三もついに同年12月、クラークの遺した「イエスを信ずる者の誓約」に署名し、キリスト教に入信することになった。鑑三が署名したのは、必ずしも、キリスト教の信仰にひかれるところがあったからではなかった。第一期生の手ごわい勧誘にあい、第二期生が太田稲造以下次々と署名したこと、とりわけ同室の親友宮部の署名が響いていた。」p.16
・「もしペンシルヴァニア大学に進むならば、医学と生物とを学び、医師になる道が開かれる。アマスト大学に進むばあいは、シーリー総長の指導のもとに伝道者となることである。鑑三は、この両者のいずれを選ぶべきか、迷いに迷った。」p.32
・「鑑三の経歴を見るとき、官軍に対して佐幕派の藩士の家に生れ、東京大学ではなく札幌農学校に進み、米国では、ハーヴァード大学でなくアマスト大学に学ぶコースをたどる。  ここには一つの共通点を見出すことができる。官軍、東京大学、ハーヴァード大学を陽とするならば、佐幕派、札幌農学校、アマスト大学は陰である。もちろん、後者といってもエリートであることに変りないが、それでも前者のコースが華やかな表の街道であることと対照すると、やはり暗い陰のある裏の街道である。前者のコースを悠々と行く能力を備えた鑑三が、その人生において、後者の道を歩み、またそれを選んだことは、他の陰を帯びて人生を歩む人間への共感を育てることになったのではないか。」p.36
・「アマストで学ぶようになってからも、心内の自己中心的傾向、つまり罪の克服をめぐる闘いは依然として継続していた。ところが、ある日、シーリーは鑑三に向かって、次のような言葉を投げかけた。  「内村、君は君のうちをのみ見るからいけない。君は君の外を見なければいけない。何故おのれに省みる事を止めて十字架の上に君の罪を贖いし給いしイエスを仰ぎみないのか。君の為す所は、小児が植木を鉢に植えてその成長を確かめんと欲して毎日その根を抜いて見ると同然である。何故にこれを神と日光とに委ね奉り、安心して君の成長を待たぬのか」(「クリスマス夜話=私の信仰の先生」)  この一言の示唆により、鑑三は回心を体験した。これまでわかりかけていたものが雲を払い、十字架のキリストの贖いの意味が、鑑三に明らかに示されたのだ。言いかえれば罪の克服ということは、人間の努力や道徳的な行為によるものでないことを覚らせられたのである。  この回心の体験は、鑑三の心の世界を一転して明るくした。5月26日の日記には「小鳥、草花、太陽、大気、――なんと美しく、輝かしく、かぐわしいことか!」との歓喜の目でみた自然の讃歌がみられる。」p.36
・「キリスト教はよいが、アメリカのキリスト教は駄目だ、というのが、宗教ショックを味わった鑑三の結論である。  キリスト教文明が、もはや頂点をすぎ、腐臭さえ漂わせている米国にいる間に、鑑三の新しい夢は、これからまだ造形を待つ素材のような日本に注がれた。」p.39
・「鑑三が、アマスト時代、その墓碑銘のためとして、愛用の聖書に書きとめた、あの有名な英文の言葉を掲げよう。
 I for Japan; 自分は日本の為に
 Japan for the World; 日本は世界の為に
 The World for Christ; 世界はキリストの為に
 And All for God. 凡ては神の為に
」p.40
・「これらをみても、鑑三は、その英文欄を通じて、日本社会の不義不正、とりわけ、藩閥政府や上流社会、貴族、高官、金持、軍人などの私利私慾に筆誅を加え、社会の弱者の立場で発言していることがわかる。前半生の辛い体験を通じてようやく内面化されたキリスト教的価値体系にもとづく、人間観、世界観、国家観が、そのまま適用されたものだ。いわば思想の応用篇である。時代の支配的な人間観である単なる「富国強兵」的人間観への挑戦であった。」p.85
・「志賀真太郎の一生は、この晩年こそ仏の道に進んだが、若き日に出あった鑑三の教えにのっとって生きた一生といってよい。このように鑑三に傾倒した地方の出身者には、地域の文化、教育、福祉に尽くす一方、やがて産を失ないこの世的には没落していく人々がおおい。いわば「内村くずれ」である。この世の目には恵まれない一生をたどるのだが、「後世への最大遺物」で語られたように、それぞれ高尚な生涯を歩んだのだ。」p.106
・「こうしてみると、鑑三の「無」は、仏教思想でいう「無」に近いものである。ただの否定としての「無」でなく、対象を相対化し、究極的には、より高い次元での肯定を意味する「無」である。  鑑三の無教会主義キリスト教は、西洋のキリスト教を相対化の目でとらえたキリスト教であるといってよい。相対化といっても、決して、外側から一つの宗教としてつき放して見るのでなく、キリスト教の内側にとどまりながら主体的に相対化したものだ。」p.117
・「洗礼が望まれるときには夕立の雨でもよく、正餐にあずかりたいなら、野に出てそこに実っているブドウの汁でもよい、というのが、鑑三のサクラメントに対する基本的な考え方である。  『基督教徒の慰』では、教会についても、それは、人の手で作られた白壁や赤瓦のうちにあるだけではなく、自然そのものが神の家とされている。」p.118
・「要するに鑑三のいう無教会は、直接、聖書に参入したことにより、西洋のキリスト教のみを唯一のあり方とみるのに対し、そこから人工的な聖職者制、教職者の資格、礼典、建物などの制度、儀礼を取りはずそうとしたものである。教会から人工的要素の除去をはかる自然的な教会観である。」p.118
・「余は日露非会戦論者であるばかりでない。戦争絶対的廃止論者である。戦争は人を殺すことである。そうして人を殺すことは大罪悪である。そうして大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得ようはずはない。
   *  *  *  *
 世には戦争の利益を説く者がある。然り、余も一時はかかる愚を唱えた者である。しかしながら今に至ってその愚の極なりしを表白する。戦争の利益はその害毒を贖うに足りない。戦争の利益は強盗の利益である。これは盗みし者の一時の利益であって(もしこれをしも利益と称するを得ば)、彼と盗まれし者との永久の不利益である。盗みし者の道徳はこれが為に堕落し、その結果として彼はついに彼が剣を抜いて盗み得しものよりも数層倍のものを以て彼の罪悪を償わざるを得ざるに至る。もし世に大愚の極と称すべきものがあれば、それは剣を以て国運の進歩を計らんとすることである。
」p.134
・「鑑三の後半生に展開された最大の運動は、1918(大正7)年に開始される再臨運動である。」p.172
・「戦争に狂奔するヨーロッパ諸国のキリスト教にあいそをつかせたのとは対照的に、このころよりにわかに鑑三は、日本の法然や親鸞の信仰に親しみをみせる。」p.173
・「日本の浄土系信仰への接近とあわせ、この大正初期の鑑三に顕著に目立ち始める思想は「近代人」への批判である。「近代人」を鑑三は、このように定義している。  「近代人は自己中心の人である、自己の発達、自己の修養、自己の実現と、自己、自己、自己、何事も自己である」(「近代人」)  鑑三は「近代人」を、自我は発達しているが自己中心の人とみる。」p.174
・「それまでの鑑三の思想との相違は、次のようにまとめられるかもしれない。  鑑三は、それまでも神に導かれない人間の行為により、現世が改められ、平和がもたらされるとは、もちろん考えなかった。  従来は神に導かれた人間により、もしかすると、現世が改められ、平和がもたらされるという、栄光を見ることができるのではないかと思っていたのだ。ここで神の栄光をあらわす人間は、たとえ神の器として働いたにすぎなくても、その人に栄光のあらわれたことは認める立場だ。  ところが、再臨の思想では、いかなる人間でも、現世では神の栄光を、結局はあらわすことのできる存在とはみなされない。したがって人間は、どれほど信仰の厚い人でも一片の栄光すらあらわすものでなくなる。鑑三の達した第三の段階とはこの段階である。  この段階のもたらした思想こそ、人間を、それが現世的行為はいうまでもなく、信仰的な行為であっても、その多寡によって価値をつけない思想である。行為主義の否定の徹底である。鑑三の再臨進行は、聖書の見方や、講演の内容、運動の進め方に、やや批判される余地もあるにはあったが、行為主義を徹底的に否定した人間観のうえでは、その生涯でもっとも高くて深いところに達したものといえよう。」p.180
・「その思想を特徴づける最大の要因は、やはり、若き日に誓った二つのJ(イエスと日本)への献身である。このために鑑三は、ただの愛国主義者でもなければ、西欧的なキリスト教信徒でもなかった。西欧のキリスト教に対しては、それを相対化する目を「日本」からえた。愛国心に対しては「イエス」の目で、これを浄化してとらえた。」p.203
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【本】ローマ人の物語 17・18・19・20 悪名高き皇帝たち

2009年10月20日 22時00分07秒 | 読書記録2009
ローマ人の物語 17・18・19・20 悪名高き皇帝たち(一)(二)(三)(四), 塩野七生, 新潮文庫 し-12-67・68・69・70(7756・7757・7758・7759), 2005年
・ローマ人の興亡を描く超大作も中盤にさしかかる。初代皇帝アウグストゥスの跡を引き継いた、ティベリウス(在位 紀元14-37年)、カリグラ(37-41年)、クラウディウス(41-54年)、ネロ(54-68年)の四人の皇帝により帝政が軌道に乗り始めた時代。文庫版シリーズで初の四冊組でかなりの分量です。
・書中で指摘されているように、私も『ローマ皇帝』と言えば『ネロ』の名がまっ先に頭に浮かびますが、本編では「その他大勢の皇帝のうちの一人」といった地味な扱いを受けています。その『暴君』っぷりは、後の世のキリスト教徒によって創り上げられた歪められた像であるとのこと。
・書き抜きが多すぎて10000字の字数制限に引っかかるので、文字色を "青" にするHTMLタグは省略。こんな事は『神との対話 2』以来。
・「もともとからして「悪名高き皇帝たち」というタイトル自体が、彼ら皇帝たちとは同時代人のタキトゥスを始めとするローマ時代の有識者と、評価基準ならばその延長線上に位置する近現代の西欧の歴史家たちの「採点」の借用であって、これには必ずしも同意しない私にすれば、反語的なタイトルなのである。平たく言えば、悪帝と断罪されてきたけれどホント? というわけですね。なにしろ、鋳造技術でも金銀の含有率でも、四世紀の貨幣とは比較のしようもないくらいの「良貨」が流通していたのが、これら悪名高き男たちが帝位に就いていた時期なのであった。」一巻p.10
・「都在住の平民や軍団兵たちへの遺贈金まで列記した最後に、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスは、以後の帝国統治担当者たちへの政治上の遺言も書き遺していた。  「現在の帝国の国境線を越えての拡大は、すべきではないと進言したい」」一巻p.33
・「ティベリウスはわかっていたのだ。自分が継ごうとしているローマ帝国最高統治者の立場が、ローマの法則、ローマの伝統に照らせば、いかに不明瞭なものであるかがわかっていたのだった。」一巻p.38
・「ローマの皇帝に正式に就任するには、前任者が指名しただけでは充分ではない。元老院とローマ市民双方の、承認を必要としたのである。元老院では投票により、市民の承認のほうは歓呼によりというちがいはあっても、この二者の承認なしには皇帝位に就けなかった。中国やその他の国々の皇帝とはまったくちがう、ローマ帝国の統治権につきまとった特色である。  ローマの主権者は、あくまでも「S・P・Q・R」即ち、「ローマの元老院並びに市民」であったのだ。」一巻p.38
・「アウグストゥスが強調した「プリンチェプス」を字義どおりに受け取れば、「ローマ市民中の第一人者」にすぎない。公式な名称でもない。事実、発掘された碑文のどれにも、ローマ皇帝の別称としてでも銘記されたものはない。「第一人者(プリンチェプス)」という名称は、強大な権力を手中に収めることで「ただ一人が統治する政体」を構築したアウグストゥスの、隠れ蓑であったのだ。」一巻p.42
・「ある日の元老院で、七月がユリウス、八月がアウグストゥスと名づけられているのに倣って、九月をティベリウスとしようと提案した議員がいた。ティベリウスは自席から、矢のような一句を放ってそれをつぶした。  「『第一人者(プリンチェプス)』が十人を越えたときはどうするのか」」一巻p.51
・「アウグストゥスの後を継いだティベリウスに課された任務は、第一に皇帝の地位の確立による帝政の堅固化、第二に国家財政の健全化、そして第三は、北の防衛線をライン河で留めるか、それともエルベ河まで拡張するか、の戦略上の問題であった。」一巻p.106
・「政治亡命や人質を、ローマ人はこのように考えていたのである。ローマ人がこれらの人々を牢に入れたりして冷遇しなかったのは、いざとなれば使えるカード、であったからだった。」一巻p.148
・「皇帝に就任するにも元老院の承認が必要であるだけでなく、皇帝の後継者選びにも元老院の承認がないと実現不可、皇帝勅令でさえも暫定措置法でしかなく、恒久的な政策にしたいと思えば、これまた元老院の議決を必要とし、それがなければ法制化も不可というのが、アウグストゥスの創設したローマの帝政であった。ローマの皇帝とは、支那の皇帝を思い起こしていては理解不可能な存在なのである。ペルシアなどのオリエントの君主制ともちがう。ローマ的、という形容詞をつけるしかない皇帝なのであった。」一巻p.194
・「責任分担方式を採用すれば、当然のことながら、任務を託す人の人選が重要な問題になってくる。この面でのティベリウスは、ティベリウス嫌いで徹した歴史家タキトゥスでも、次のように書くしかなかった。  「いかなる皇帝でも、彼ほどに巧妙な人事をなしえた皇帝はいなかった」  ティベリウスが、適材適所と能力主義を貫いたからである。」一巻p.210
・「現代の研究者の一人は、次のラテン語の格言くらい、皇帝ティベリウスにふさわしい句もないのではないかと言っている。  「FATA REGUNT ORBEM! CERTA STANT OMNIA LEGE」(不確かなことは、運命の支配する領域。確かなことは、法という人間の技の管轄)」一巻p.213
・「税金は低く押さえられているかぎりはたいていの人はきちんと払うもので、徴税業務を民間の請負人に委託する方式を採用していた帝政ローマでは、徴税の公正を期すには、脱税よりも徴税のしすぎのほうを警戒する必要があったのである。」一巻p.215
・「カプリ隠遁を決行したティベリウスは、こう考えたのではあるまいか。帝国の統治の成果さえあげられるならば、どこにいても、どのような方法でやっても、同じことではないか、と。だがこれは、政治をする人間の思考ではなく、官僚の思考である。」二巻p.18
・「人間とは、主権をもっていると思わせてくれさえすればよいので、その主権の行使には、ほんとうのところはさしたる関心をもっていない存在であるのかもしれない。結果が悪と出たときにだけ、主権の行使権を思い出すというだけで。」二巻p.19
・「体力、知力、精神力ともに衰えた後のボケ状態で命を保つことを極度に嫌ったローマの指導者層に属す人々には、食を断って自ら死を迎える例は珍しくない。」二巻p.68
・「なぜ一人がすべてを考え行なわねばならないのか、という嘆きは、全てを一人で考え行ってきたきた人がしばしば陥る一時のスランプであって、この一時期のスランプを抜け出せば、その人は、吐露した自己憐憫など忘れたのかと思うほどのエネルギーで、再び「一人ですべてを考え行う」状態に復帰するのである。」二巻p.86
・「ローマ帝国は、タキトゥスのような共和政シンパがどう批判しようと、カエサルが企画し、アウグストゥスが構築し、ティベリウスが磐石にしたという事実ではまちがいない。」二巻p.90
・「紀元37年のカリグラくらい、すべての人々に歓迎されて皇位に登った人はいない。言い換えれば、敵なしの状態で帝国の最高権力者になった者は一人もいなかった。」二巻p.98
・「「無冠の帝王」とは、専制君主制に慣れたオリエント(東方)とはちがう歴史と伝統をもつオチデント(西方)を考慮したがゆえの、アウグストゥスが創設した「ローマ独自の皇帝」の形なのである。その「無冠」であるがゆえにかえって「有冠」の王よりも上位であることの意味を理解できなかったカリグラは、「冠」の有無のちがいに不満しかいだかなかったのであった。」二巻p.122
・「ギリシアやローマの神々が彫像で表現される場合は、上半身裸体で裸足の姿で現される。現実に存在した人物でも神格化された姿で表現したい場合や、ただ単に死後の作であることをしめしたい場合は、上半身裸体で裸足か、有名な『プリマポルタのアウグストゥス像』のように、甲冑姿でも裸足の姿で表現される。カリグラは、神格化されてもいずまた生きているにもかかわらず、それを実行したのだ。  上半身裸体で裸足で髪もひげもなにやらゼウスをまねて金色に染めた姿で元老院に現れたカリグラを見て、唖然とした議員たちは声もなかった。」二巻p.124
・「ローマ人の支配の基本精神は、帝政ローマ時代に生きたギリシア人のプルタルコスも言ったように、「敗者でさえも自分たちと同化する」ところにあった。敗者側の一民族であったユダヤ人だけが、同化することを拒絶したのである。勝者ローマとの同化にかぎらず、他民族との同化も拒絶していたのがユダヤ民族であったのだ。なぜか。  彼らの宗教であるユダヤ教が、それを許さなかったからである。ユダヤ民族にとっての憲法であるモーゼの「十戒」は、その冒頭に、ユダヤ人が犯してはならないことの第一として、「あなたはわたしの他に、何ものをも神としてはならない」とある。」二巻p.159
・「ローマ人は人間に法律を合わせ、ユダヤ人は法律に人間を合わせる、と言い換えてもよいかもしれない。」二巻p.162
・「しかし、「普遍」とは、それを押しつけるよりも「特殊」を許容してこそ実現できるものなのである。具体的には、ケース・バイ・ケースが最も現実的な方策ということになる。ローマ人はこの面でも、見事なまでにエキスパートであった。」二巻p.167
・「イエス・キリストの処刑も、イェルサレムの祭司たちで構成された法廷が死刑の判決を下し、当時のユダヤ長官のポンツィオ・ピラトがOKを与えたので実施されたのである。長官ピラトは祭司階級の圧力に屈し、手を洗うという象徴的なジェスチャーをすることで、あなた方(ユダヤ側)の決めたことだからわたし(ローマ側)は関知することではない言ってイエスの処刑にOKを出したのだった。それがもしも、ピラトがユダヤ側の圧力に屈せずに、自分が体現するローマの法に従って行動していたとしたら、イエスの十字架上の死は実現しなかったのである。」二巻p.177
・「だが、ギリシア人の移住とユダヤ人の移住では、根本的な差異があった。  ギリシア人は、何もない土地に新しく都市を建設し、そこを基地にして、手工業や通商業によって富を築くのである。反対にユダヤ人は、すでに存在し繁栄している都市に移り住み、手工業や通商業や金融業に従事して富を築くのであった。」二巻p.183
・「ティベリウスは、ユダヤ民族の特殊性を充分に理解していた。シリア総督クィリーヌスをつづけて重用したのも、そしてイェルサレムのユダヤ人を刺激しないためにあらゆる妥協策をとったのも、理解していた証拠である。だが、理解していたからこそなおのこと、特殊なユダヤ民族が普遍を目指すローマ帝国にもあたらす、危険性も熟知していたのだった。神の法にしか従わない人々と、人間の法によって律しようと努める人々と、どうやれば共存は可能か。」二巻p.186
・「しかしカリグラは、幸か不幸かモンスターではなかった。頭も悪くなかった。彼にとっての不幸は、いや帝国全体にとっての不幸は、政治(ポリテイカ)とは何かがまったくわかっていない若者が、政治(ポリテイカ)をせざるをえない立場に就いてしまったことにある。」二巻p.202
・「他の職業人に比べて政治家が非難されやすい理由の一つは、政治とは誰にでもやれることだという思いこみではないだろう。(中略)民を主権者とする政体とは、政治のシロウトが政治のプロに評価を下すシステム、と言えないであろうか。(中略)政治家が挑戦すべきなのは、政治のプロとしての気概と技能は保持しながら同時にシロウトの支持を獲得するという、高等な技なのである。」三巻p.10
・「クラウディウスの性格には、部下たちに畏敬の念を起こさせるところがなかった。言い換えれば、軽く見られがちであったということである。結果として、元奴隷の秘書官たちは、何をやってもかまわないと思ってしまったのだ。」三巻p.87
・「クラウディウスは、帝国の統治ないし運営が、非著名な史実、つまりはニュースにならない作業でささえられていることを知っていた皇帝であった。地道な財務を重要視する人にとっては、現状の正確な把握が欠かせない。クラウディウスは、国勢調査(チェンスス)の実施を決めた。」三巻p.99
・「皇帝クラウディウスは、祖国(パトリア)の理念を、イタリア半島内に留めることなく帝国ローマの全域に広げるとした、ユリウス・カエサルの精神(スピリット)を再興したのであった。」三巻p.138
・「古代人の奴隷に対する考えは、自分たちと宗教をともにしないがゆえにじぶんたちと同等になる権利をもたない人間、というのではなかった。戦争に敗れるとか、海賊に捕われるとか、または払えない借金のかたに取られるとか、でなければ奴隷の子に生れたとか、親に売られたとか、という「不運」に見舞われた結果、奴隷の身分に落ちた人々を指したのである。」三巻p.140
・「主人であったクラウディウスも、その元奴隷であったナルキッソスも、燃えつきたことでは同じであったのかもしれない。」三巻p.193
・「というわけでマルチ型に属する人々は、心の奥深くに常に不安を隠しもっている。自分は何もし遂げていない、という不安だ。この不安は、何かを行なう場合に度を越すことにつながりやすい。皇帝ネロも、この種の一人ではなかったかと思っている。一私人として見れば、不幸な男だった。」四巻p.10
・「皇帝に就任した当時、ネロは、16歳と10ヶ月でしかなかった。責任ある公職に就くのは30歳からとされていたローマでは、異例に若い皇帝の出現である。」四巻p.16
・「同時代のローマ人ならば、また同時代人でなくても帝国が存在していた時代のローマ人ならば、この項目をあげただけでそれらが意味するところを直ちに理解できたのである。しかし、われわれは、ローマ帝国がとうの昔に滅亡した二千年後に生きている。それゆえ、ローマ人には不必要だった解説が必要になるのも当然だ。」四巻p.18
・「同情(ミゼリコルディア)と寛容(クレメンティア)のちがいを説いた箇所で、そこではセネカは次のように言っている。  「同情とは、現に眼の前にある結果に対しての精神的対応であって、その結果を産んだ要因にまでは心が向かない。これに反して寛容は、それを産んだ要因にまで心を向けての精神的対応であるところから、知性(サピエンス)とも完璧に共存できるのである。」」四巻p.20
・「これこそ現代でもラテン語のVETO(ヴェトー)で通用する、拒否権をもっているからである。ゆえに、拒否権なしの常任理事国などは意味を成さない。つまり、拒否権は最強の権力なのだ。」四巻p.50
・「ネロには、問題の解決を迫られた場合、極端な解決法しか思いつかないという性癖があった。それは、彼自身の性格が、本質的にはナイーブであったゆえではないかと想像する。」四巻p.77
・「いずれにしても、これでネロは、母殺しに加えて妻殺しの汚名まで浴びることになった。」四巻p.112
・「戦争は、武器を使ってやる外交であり、外交は、武器を使わないでやる戦争である。コルブロは、このことを知っていた武人であった。」四巻p.144
・「放って置かないのが、キリスト教なのである。キリスト教の立場からすれば、放っては置けないのも当然だ。彼らが信ずる神は唯一神であり、その神を信じない人は真の宗教に目覚めないかわいそうな人なのだから、その状態から救い出してやることこそがキリスト者の使命と信じているからである。だがこれは、非キリスト者にしてみれば、"余計なお節介" になるのだった。そして、当時のローマには、圧倒的に非キリスト者が多かったのである。」四巻p.168
・「ローマの歴史で、帝政時代にかぎらず共和政時代をもふくめた全歴史中で最も名の知られた人物は、ユリウス・カエサルでもなくアウグストゥスでもなく、このネロである。有名であるだけでなく、ローマ皇帝の代表者の如くに思われている。ただし、ローマ帝国が健在であった時代はそうではなかった。ローマが滅亡し、世界の主人公がキリスト教徒に代わってから定着した評価である。紀元64年のこの迫害事件が、ネロを、ローマ史上第一の有名人にしたのだ。キリスト教徒はネロを、「反キリスト(アンチ・キリスト)」と呼んで弾劾するようになる。この傾向は、二千年後の現代でもまったく変わっていない。」四巻p.173
・「広大なローマ帝国の統治は、元老院に体現される少数指導制よりも一人が責任をもって当る帝政のほうが現実的であることは、もはや多くの人が納得する概念になっていたのである。」四巻p.180
・「歴史に親しむ日々を送っていて痛感するのは、勝者と敗者を決めるのはその人自体の資質の優劣ではなく、もっている資質をその人がいかに活用したかにかかっているという一事である。この面でのネロは、下手と言うしかなかった。良くなった評判を落とすようなことばかりをやる。」四巻p.190
・「ネロは、確かな証拠もなしに三人の司令官を殺したことで、ローマ全軍を敵にまわすことになってしまったのである。軽率というよりも、愚挙というしかなかった。」四巻p.200
・「「ネロは皇帝を私物化し、帝国の最高責任者とは思えない蛮行の数々に酔いしれている。母を殺し、帝国の有能な人材までも国家反逆の罪をかぶせて殺した。そのうえ、歌手に身をやつし、下手な竪琴と歌を披露しては嬉しがっている。帝国ローマの指導者にはふさわしくないこのような人物は、一刻も早く退位させるべきであり、それによって、われわれガリア人を、そしてローマ人を、いや帝国全体をも救うべきである」  この檄をとばしたヴィンデックスの許には、たちまち十万にものぼるガリア人が集まった。」四巻p.207
・「このネロを最後に、アウグストゥスがはじめた「ユリウス・クラウディウス朝」は崩壊した。百年つづいた後の崩壊である。だがそれは、単なる皇統の断絶というよりも、アウグストゥスが創造した、「デリケートなフィクション」としての帝政の崩壊を意味したと、私には思える。」四巻p.216
・「つまり、トップはバカでもチョンでも、「血」の継続ということで連続性だけは保証されるが、それを確実なものにするのは、高度な政治上の技能の持主の役割とされる。」四巻p.220 「バカでもチョンでも」久々に目にする言い回し。こんな言葉使って大丈夫なのか? 出版時のチェックで問題にならなかったのだろうか? と、ちょっとびっくりしてしまいました。しかし、この言い回しについて少し調べてみると、「チョン」とは元々特定民族を指す言葉ではなく、「特定民族の蔑称」としての意味は後付けされたものだという事実をはじめて知る。
・「しかし、アウグストゥスの「血」とは訣別したローマ人も、アウグストゥスの創設した帝政とは訣別しなかったのである。カエサルが青写真を描き、アウグストゥスが構築し、ティベリウスが磐石にし、クラウディウスが手直しをほどこした帝政は、心情的には共和政主義者であったタキトゥスですら、帝国の現状に適応した政体、とせざるをえなかったほどに機能していたからだ。ローマ人は、イデオロギーの民ではなかった。現実と闘う意味においての、リアリストの集団であった。」四巻p.223
・「反体制は、ただ単に反対するだけでは自己消耗してしまう。自ら消耗しないで反体制でありつづけるには、現体制にとって代わりうる新体制を提案しなければならない。これをやってこそ、反体制として積極的な意味をもつことができるからである。  しかし、ローマが帝政下で平和と繁栄を享受していた時代に生きた反体制は、それを提示することができなかった。」四巻p.227

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【本】ケインズを学ぶ 経済学とは何か

2009年10月13日 19時20分54秒 | 読書記録2009
ケインズを学ぶ 経済学とは何か, 根井雅弘, 講談社現代新書JEUNESSE 1302, 1996年
・20世紀最大の経済学者ケインズの紹介を通して、近代経済学の流れを示した入門書。ケインズの生い立ちやその人となりの紹介部分はまだついていけるが、2章以降の経済学の中身についての記述になると、私のような門外漢は完全においていかれてしまう。講談社現代新書の中でも "JEUNESSE" マークのついたものは良書が多いので期待は高かったが、その期待に応えられる内容ではなかった。
・「というのは、この本のねらいが、ケインズについての先入観をできるだけ抱かせることなく、みなさんをケインズの世界に招待することにあるからです。」p.10
・「私には、ケインズこそ、理想的な経済学者の要件を最高に満たした人物だったように思えるのです。私がこの本を書く気になったのも、そのことを高校生のような若い人たちに伝えたかったからにほかなりません。」p.13
・「ところが、ケインズの確率概念は、そのどちらとも違うものなのです。それどころか、彼の確率概念は、以下に述べるように、正確な測定が不可能であるという意味で、そもそも明確に定義することができないものなのです(ここに、私たちは、ムーアの善定義不可能説の影響を見て取ることができます)。  ケインズの考え方は、かいつまんで言うと、ある所与の前提命題 h から結論命題 a を導き出す「推論」(argument)にともなう「合理的な確信の程度」が「確率」であるということになるでしょうか。ケインズは、これを P(a/h) と表わしています。これは、もし a が h から確実に導き出されるならば1、反対に a がけっして h からは導き出されないならば0となりますが、しかし、この意味での「確率」は、一つの数値を持つとはかぎらないというのが、ケインズの主張です。彼は、「確率を測定しうるどころか、われわれがそれを一定の大きさの順序につねに配列することができるということさえ明らかではない」とまで言っています。  ケインズは、さらに、推論にともなう「重み」(weight)というものも考えています。これは、いわば、推論における前提となる知識の絶対量であり、ケインズは、これを V(a/n) と表わします。つまり、何か新しい知識が付け加わると、推論の「重み」が増したと考えるわけです。」p.51
・「では、金本位制度とは、どのような制度なのでしょうか。それは、簡単に言えば、一国の通貨が中央銀行の保有している金の量によって制限されるような制度のことを指しています。」p.69
・「ケインズが生きた時代は、まさに、「パックス・ブリタニカ」から「パックス・アメリカーナ」(Pax Americana)への転換期でした。ケインズは、第一次世界大戦がもたらした「変化」を敏感に感じ取った点において、19世紀の「パックス・ブリタニカ」に郷愁の想いを抱くだけの懐古主義者とは明確に区別されなければなりませんが、それにもかかわらず、彼の残りの生涯は、あくまで祖国の利益を守るために捧げられたと言ってもよいのではないでしょうか。」p.87
・「私たちは、前の章において、『貨幣改革論』(1923年)のケインズが、イギリスの旧平価での金本位制度への復帰に反対する論客として登場したことを見ましたが、その例に限らず、彼はつねに折々の経済問題に取り組み、その思索の成果を「説得」という形で大衆に訴えかけたきわめて実践的な経済学者でした。しかし、彼は、そのような実践活動にたずさわるものとしてはきわめて異例なことに、結局は、『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)――以下では、『一般理論』と略称します――において、単に実践的のみならず正統派経済学の思考法を根本的に否定する「新しい経済学」を樹立するというアカデミックな仕事を成し遂げたのです。」p.102
・「ケインズは、かいつまんで言うと、投資決定の問題を次のように考えました。すなわち、企業家は、投資から得られると予想される利潤率――ケインズは、これを「資本の限界効率」(marginal efficiency of capital)と呼んでいます――と、金融市場で決まる利子率を比較し、前者が後者よりも大ならば投資を拡大、後者が前者よりも大ならば投資を縮小するというように行動することによって、結局、両者が一致するところまで投資をおこなう、と。」p.133
・「『一般理論』以前には、政府が国民の雇用を保障する義務があるという発想はけっして出てこなかったものですが、それ以後になると、例えば、イギリスの『雇用政策白書』(1944年)やアメリカの「雇用法」(1946年)をみればわかるように、政府ができるだけ高く安定した雇用水準を維持する義務があるという考え方が一般にも認められるようになったのです。」p.151
・「みなさんも、おそらく次のような感想を持ったのではないでしょうか。すなわち、マネタリズムにせよ供給重視の経済学にせよ、古くからある貨幣数量説の現代版であったり、「供給はそれみずからの需要をつくりだす」というこれも同じように古い「セイの法則」の現代版であったり、いずれも、ケインズが「古典派」と呼んだ経済思想の復活なのではないか、と。そのとおりです。経済学では、古い思想がたえず新たな装いの下に「最新理論」として何度も復活してきますが、これを知ることも、経済学の歴史を学ぶ楽しみの一つかもしれません。」p.172
・「1944年の秋のこと、ケインズは、世の中で「ケインジアン」と呼ばれている人々と自分自身がいかに異なっているかを嘆息しながら、「私は、現在、ただ一人の非ケインジアンであることがわかった」と述べたというのです。そういえば、あの『資本論』の著者マルクスも似たようなことを言ったと伝えられていますが、どうやら、私たち凡人は、天才の思考の速度にはとうていついていけないものなのかもしれません。」p.181
・「モラル・サイエンスとは、かいつまんで言えば、アダム・スミスやディヴィッド・ヒュームの時代から続く「モラル・フィロソフィー」(moral pholosophy)の系譜に連なるもので、社会の一員としての人間を取り扱う学問を指しています。したがって、経済学が一つのモラル・サイエンスであるという場合、その意味するところは、人間社会の現象を経済的側面から研究する学問ということになるわけです。」p.183
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