文庫本のエンド台にあるその一冊を目にしたとき
雅なタイトルじゃなぁ…
と思った。
反面、勇猛さを秘めているような、太く力強く墨書されたその表題。
言葉の印象と墨書の印象に違和感を覚えて手に取った。
カバー裏の紹介文によれば……。
よし、読んでみよう
京都は下京にある紫雲山頂法寺、通称六角堂。
代々その住職を務める家系であり、境内の池の畔の寺坊を住まいとしている。
だから、池坊(イケノボウ)ね
池坊専好、京の町衆なら子供でもその名を知っている花の名人。
彼が本堂の本尊のために花を立てる早朝には見物人が集まるほどの人気であり、その花はみなの楽しみともなっている。
その彼が千利休と知り合い、交誼を深めていく。
それぞれが追い求める美を認め合い、学び合い、互いの身の上を思い合う。
時は秀吉の天下となり、専好が町場にあって己の技を磨き花を立てているとき、利休は秀吉の茶頭となる。
やがて利休が具現しようとする美と、秀吉の好む美とは相容れないものとなり、悲劇が訪れる。
その悲劇は糸を引いて、専好の周辺にも累が及ぶようになっていく。
専好の痛み、憤り、怒り。
やがて彼は秀吉を討つことを決意する。
その日、文禄三(1594)年九月二十六日、前田利家邸。
この花戦、わしの負けじゃ
秀吉のこの言葉で専好の闘いは終わる。
茶のいくさ 花のいくさ 我茶人として生きる 花の人として生きよ
利休が専好に残した言葉である。
刀ではなく、花をもって戦え、と。
千利休については学校教育の過程で取りあえずその名前だけは教わる。
そして侘び寂びの茶の創始者として、茶聖として、様々に語られ描かれもしているから多少のことは知っている。
でも池坊専好という花道家のことは何も知らなかった。
いけばなを習ったことのある人でない限り、その名を知る機会はないのではないだろうか。
利休との関わりだけでなく、自身の家族や町衆との関わりを通して専好という男の人物像が生き生きと描かれている。
池坊専好、見事な好漢である。
そして、表題の雅な言葉を何ゆえ雄渾な墨書で表わしたのか。
そのこともしっくりと腑に落ちた。
『花戦さ』 鬼塚忠著 角川文庫
表題は金沢翔子氏の筆による。
雅なタイトルじゃなぁ…
と思った。
反面、勇猛さを秘めているような、太く力強く墨書されたその表題。
言葉の印象と墨書の印象に違和感を覚えて手に取った。
カバー裏の紹介文によれば……。
よし、読んでみよう
京都は下京にある紫雲山頂法寺、通称六角堂。
代々その住職を務める家系であり、境内の池の畔の寺坊を住まいとしている。
だから、池坊(イケノボウ)ね
池坊専好、京の町衆なら子供でもその名を知っている花の名人。
彼が本堂の本尊のために花を立てる早朝には見物人が集まるほどの人気であり、その花はみなの楽しみともなっている。
その彼が千利休と知り合い、交誼を深めていく。
それぞれが追い求める美を認め合い、学び合い、互いの身の上を思い合う。
時は秀吉の天下となり、専好が町場にあって己の技を磨き花を立てているとき、利休は秀吉の茶頭となる。
やがて利休が具現しようとする美と、秀吉の好む美とは相容れないものとなり、悲劇が訪れる。
その悲劇は糸を引いて、専好の周辺にも累が及ぶようになっていく。
専好の痛み、憤り、怒り。
やがて彼は秀吉を討つことを決意する。
その日、文禄三(1594)年九月二十六日、前田利家邸。
この花戦、わしの負けじゃ
秀吉のこの言葉で専好の闘いは終わる。
茶のいくさ 花のいくさ 我茶人として生きる 花の人として生きよ
利休が専好に残した言葉である。
刀ではなく、花をもって戦え、と。
千利休については学校教育の過程で取りあえずその名前だけは教わる。
そして侘び寂びの茶の創始者として、茶聖として、様々に語られ描かれもしているから多少のことは知っている。
でも池坊専好という花道家のことは何も知らなかった。
いけばなを習ったことのある人でない限り、その名を知る機会はないのではないだろうか。
利休との関わりだけでなく、自身の家族や町衆との関わりを通して専好という男の人物像が生き生きと描かれている。
池坊専好、見事な好漢である。
そして、表題の雅な言葉を何ゆえ雄渾な墨書で表わしたのか。
そのこともしっくりと腑に落ちた。
『花戦さ』 鬼塚忠著 角川文庫
表題は金沢翔子氏の筆による。
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